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説教日:2004年5月16日 |
すでにお話ししたことですが、改めて、創造の御業と贖いの御業における、三位一体の御父、御子、御霊のそれぞれのお働きについて確認しておきたいと思います。 父なる神さまは創造の御業と贖いの御業にかかわるいっさいのご計画をお立てになりました。このご計画は「永遠の聖定」と呼ばれます。それは永遠のご計画であって、時間の流れの中でのことではありません。時間はこの世界の時間ですから、天地創造の御業によって、この世界が造られた時に、時間も始まったのです。この世界は時間的な世界、時間の流れとともに移り行く世界として造られています。「時間の流れとともに移り行く」と言いますと、何となく、川の流れのようにただ流れていくという感じになってしまいますが、神さまはこの世界を確かな意味と目的のある世界としてお造りになりました。そのように、確かな意味をもっていて、目的に向かって進んでいく世界であるという意味で、この世界は歴史的な世界であるということになります。神さまのご計画は、このような歴史的なものであるこの世界をお造りになるご計画です。その意味で、神さまのご計画は、この世界とその歴史を超えた永遠のご計画です。 また、父なる神さまのご計画は、天地創造の御業によってこの歴史的な世界をお造りになることだけでなく、この世界の歴史にかかわるいっさいのことを含んでいます。この世界の歴史の流れの中では、神のかたちに造られて、その歴史を造る使命を委ねられている人間が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまうようになりました。人間的な言い方になりますが、神さまの永遠のご計画の中では、そのことも「計算されて」います。それで、父なる神さまは贖いの御業にかかわるいっさいのご計画も立てておられます。これも永遠のご計画であって、人がご自身に対して罪を犯して御前に堕落してしまってから、それに対処するために急遽お立てになったものではありません。 この意味での父なる神さまの永遠のご計画のことが、エペソ人への手紙では、1章3節後半〜6節において、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 と述べられています。この場合、6節に述べられている、このすべてが、ご自身の恵みに満ちた栄光がほめたたえられるようになるためであるということも、父なる神さまの永遠のご計画の中で定められています。 御子は、父なる神さまの永遠のご計画とそのみこころに従って、創造の御業と贖いの御業を遂行されました。 父なる神さまは創造の御業と贖いの御業のご計画者としての役割を担われる方として、無限、永遠、不変の神ご自身を代表しておられます。神さまの無限、永遠、不変の栄光は父なる神さまにおいて余すことなく表わされています。その意味において、父なる神さまはこの造られた世界とは絶対的に区別され、隔絶された方という立場に立っておられます。これはあくまでも、創造の御業と贖いの御業における「役割分担」においてのことです。 これに対して、御子は、創造の御業と贖いの御業を遂行される役割を担われましたので、ご自身の無限、永遠、不変の栄光を隠されて、この世界に直接的にかかわってくださる立場に立っておられます。その意味で、この世界は御子にあって、また、御子によって造られています。このことが、コロサイ人への手紙1章15節〜17節には、 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 と記されています。 また、創造の御業ばかりでなく贖いの御業も御子によって成し遂げられ、その贖いは御子にあって私たちに与えられています。エペソ人への手紙1章7節には、 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。 と記されています。また、コロサイ人への手紙1章13節、14節には、 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 と記されており、18節〜20節には、 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 と記されています。 御子が成し遂げられた贖いの御業は、今から二千年前に人の性質を取って来てくださったことから始まります。そして、十字架にかかって死んでくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。これで私たちの罪の贖いは完成しているのですが、御子の贖い主としての御業はこれで終わってはいません。栄光をお受けになった御子イエス・キリストは、さらに、父なる神さまの右の座に着座されました。これも、ご自身のためではなく、ご自身の民である私たちのためのことです。そして、栄光をお受けになったイエス・キリストは、父なる神さまの右の座から御霊を注いでくださって、御霊が私たちの間に、また私たちそれぞれのうちに宿ってくださるようにしてくださいました。 そのことを記している使徒の働き2章32節33節には、 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 というペテロのあかしが記されています。また、イエス・キリストご自身も、ヨハネの福音書15章36節に記されていますように、 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 とあかししておられます。イエス・キリストは御霊のことを「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊」と呼んでおられます。ここでも、イエス・キリストが御霊を遣わしてくださったことが示されています。 それと同時に、御霊は父なる神さまが御子イエス・キリストの御名によって遣わしてくださった御霊でもあります。ヨハネの福音書14章16節には、 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。 というイエス・キリストの教えが記されています。また、26節にも、 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 というイエス・キリストの教えが記されています。 このことから分かりますように、御霊は御父と御子から遣わされた御霊として、私たちの間に、また私たちそれぞれのうちに宿ってくださいます。 この御霊は、御子が遂行された創造の御業と贖いの御業に基づいてお働きになります。そして、創造の御業と贖いの御業をこの世界と私たちに適用してくださり、この世界と私たちを御子のうちに保ってくださいます。先ほど引用しましたエペソ人への手紙1章7節に、 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。 と記されていることは、御霊のお働きによって、今ここで私たちの現実となっています。 イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって贖いの御業を成し遂げてくださったのは、今から二千年も前のことです。そのようにして成し遂げられた贖いが二千年後の時代に生きている私たちに当てはめられて、私たちが罪の赦しを与えられているだけでなく、実際に、日ごとに罪からきよめられているのは御霊のお働きによることです。また、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストは、今は父なる神さまの右の座に着座されています。地にある私たちがそのイエス・キリストのよみがえりのいのちによって生かされているのは、御霊のお働きによっているのです。 このようにして、私たちの間に、また私たちのうちに宿ってくださる御霊は、御子の御霊としてお働きになります。ガラテヤ人への手紙4章4節〜6節に、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されています。ここで、父なる神さまが私たちのうちに遣わしてくださった御霊は「御子の御霊」であると言われています。この「御子の御霊」には「彼の」ということば(アウトゥー)がありますので、これは「ご自身の御子の御霊」となります。ここでは、父なる神さまと御子の関係が意識されています。 先々週取り上げましたコリント人への手紙第一・15章45節には、 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と記されていました。これは、その時お話ししましたように、「最初の人アダム」と「最後のアダム」であるイエス・キリストを対比して、イエス・キリストの復活の意味について記している中の1節です。 イエス・キリストが贖い主としてのお働きを始められた時のことを記しているマタイの福音書3章16節、17節に、 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 と記されていますように、特別な意味で御霊に満たされて贖い主としてのお働きを始められました。イエス・キリストは、そのように御霊に満たされて、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従われて、ご自身の民である私たちの罪のために贖いを成し遂げられました。そして、その十字架の死に至るまで従順であられたことへの報いとして、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。それはイエス・キリストが人としての性質においてお受けになった栄光です。言い換えますと、私たちの贖い主としてお働きになられるためにお受けになった栄光です。これによって、すでに御霊に満たされていたイエス・キリストは、栄光の御霊のまったき充満と言ったらいいでしょうか、御霊のさらなる充満による栄光のうちにおられるようになったのです。そのことが、コリント人への手紙第一・15章45節で、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と言われています。 ですから、このことをイエス・キリストの側から見ますと、私たちのための贖いの御業を成し遂げられて、栄光をお受けになって父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストは「生かす御霊」となられたということになります。そして、これを御霊の側から見ますと、御霊は「御子の御霊」として私たちの間に宿られて、お働きになられるということになります。このことから、私たちを罪と死の縄目から解き放ち、暗やみの力の下から贖い出してくださるために、御子イエス・キリストと御霊が一つになってお働きになられることが分かります。 このことは、ローマ人への手紙8章9節〜11節に、 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 と記されていることにも表わされています。 ここでは、私たちのうちに宿ってくださっている御霊のことが「神の御霊」、「御霊」、「キリストの御霊」、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」と呼ばれています。そして、私たちが「キリストの御霊」をもっていることは、「キリストが」私たちのうちにおられるということであると言われています。 そのことを述べている10節では もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。 と言われています。この最後の部分は新改訳では、 霊が、義のゆえに生きています と訳されています。これは、直訳では、 霊(プニューマ)は義のゆえにいのちです。 となります。ここでは、この「霊」(プニューマ)が人の霊か御霊かが問題となります。新改訳は、これがその前の、 からだは罪のゆえに死んでいても と言われていることと対比されていることから、これを人の霊と解釈しています。それはまた、一般にパウロの手紙においては、9節前半で、 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。 と言われていますように、「御霊」と対比されるのは「肉」であって「からだ」ではないということによっています。このように「御霊」と対比される「肉」は「からだ」のことではなく、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人を根底から動かしている動因で、罪の下にあるこの世とこの時代の流れを特徴づけているものです。 けれども、この新改訳の解釈にも問題があります。それは、新改訳の解釈では、 霊(プニューマ)は義のゆえにいのちです。 の「いのち」という名詞(ゾーエー)を「生きている」というように形容詞として訳さなければならないということです。ところが、このことば(ゾーエー)が「生きている」というように形容詞の意味に用いられている例はありません。それで、最近では、これは、 御霊は義のゆえにいのちです。 というように訳すべきであるという見方が多くなっています。とはいえ、これは最近になって初めて唱えられるようになった見方ではなく、古くからあった見方です。 それでは、 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊は義のゆえにいのちです。 というのは、一体どのようなことなのでしょうか。それは、これに続いて、 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 と言われていることによって、詳しく言い換えられていると考えられます。 私たちは福音のみことばを聞いて、そこにあかしされている御子イエス・キリストの贖いの御業、すなわち、、イエス・キリストが十字架の上で私たちの罪を贖うために死んでくださったこと、そして私たちを新しいいのちに生かしてくださるために、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださったことを信じるようになりました。 父なる神さまはイエス・キリストを信じた私たちを義と認めてくださり、ご自身の子どもとして受け入れてくださいました。そして、私たちのうちに御霊を遣わしてくださいました。先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章6節に、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されているとおりです。 この御霊は「御子の御霊」であり、「生かす御霊」となられた栄光のキリストと一体になって私たちのうちに宿ってくださいます。そして、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業によってもたらされるすべての祝福を私たちのうちに実現してくださる働きをしてくださっています。 けれども、それだからといって、罪の働きがまったく取り除かれてしまっているのではありません。私たちのからだはなおも死ぬべきものとしてこの世にあります。それが、ローマ人への手紙8章10節で、 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても と言われていることです。私たちすべては、もし私たちの生涯のうちにイエス・キリストが再臨されることがなければ、肉体的な死を経験します。しかし、私たちはからだにおいて死ぬことになる者ではあっても、私たちのうちに宿っていてくださる御霊は、私たちのために「生かす御霊」となられた「御子の御霊」です。それが、10節で、 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊は義のゆえにいのちです。 と言われていることの意味です。 私たちのからだはなおも死ぬべきからだですが、この死ぬべきからだも、私たちのうちに宿っていてくださる御霊によって、イエス・キリストの復活のいのちによって栄光あるものに造り変えられる時が来ます。それは、今は父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが、世の終わりに再び来られて、ご自身がお造りになったこの世界のいっさいのものを、御霊によって新しく造り変えてくださる時です。そのことが、続く11節で、 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 と言われています。 これは私たちに焦点を合わせていますが、これを全被造物を視野に入れて見ているのが、先週お話ししました、19節〜23節に記されていることです。21節〜23節には、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と記されています。 私たちは今すでに御霊を受けています。御霊は「生かす御霊」となられた「御子の御霊」として私たちのうちに宿ってくださっています。それで、私たちは「生かす御霊」となられた「御子の御霊」によって生かされ、導かれています。ローマ人への手紙8章14節〜16節には、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と記されています。 ここでは、御霊のことが「子としてくださる御霊」と言われています。この「子としてくださる御霊」の「子としてくださる」ということば(フイオセシア)は「養子とすること」を表わします。その当時の文化では、養子として迎えられた子どもは、実子と同じ権利を与えられていたと言われています。そして、子であることの特権の中心は、父なる神さまを「アバ、父。」と呼ぶことにあります。この「アバ」というのはアラム語で、子どもがお父さんを恐れ敬いつつ、なおも親しくまた信頼して呼びかけることばです。これは、すでにいろいろな機会にお話ししました、神の子どもとしての私たちのが相続する相続財産の中心が父なる神さまご自身で、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることにあるということを別の面から見たものです。 ここに記されていることは、先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章6節で、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と言われていることと同じことです。 ここでは御霊は「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」と言われています。より正確には「『アバ、父。』と呼ぶ、ご自分の御子の御霊」です。イエス・キリストはご自身が神の御子であられますが、私たちはこの御子イエス・キリストにあって、御子が成し遂げてくださった贖いにあずかって、養子として迎えられた者として神の子どもです。聖書に記されていることを全体として見てみますと、最初に、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけた方は、御子イエス・キリストです。父なる神さまが「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」を私たちの心に遣わしてくださったので、私たちもこの御霊によって、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけることができるのです。 ですから、エペソ人への手紙6章8節において、 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。 と戒められていることは、私たちを縛りつけるものではありません。これは、御子イエス・キリストにあって私たちをご自身の子としてくださった父なる神さまが、私たちがご自身に向かって個人的に、またまったき信頼をもって「アバ、父。」と呼びかけるように招いてくださっているものです。 私たちが父なる神さまに向かって個人的に、またまったき信頼をもって「アバ、父。」と呼びかけることこそ、1章3節後半〜5節において、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されていることを、父なる神さまが私たちの間に実現してくださったことのあかしです。 これを霊的な戦いとのかかわりで言いますと、暗やみの主権者であるサタンは、最後には、この父なる神さまの永遠のご計画が実現することを妨げようとして働いています。ですから、私たちが父なる神さまに向かって個人的に、またまったき信頼をもって「アバ、父。」と呼びかけていることは、暗やみの主権者であるサタンのあらゆる策略と働きにもかかわらず、父なる神さまが、御子イエス・キリストにあって、私たちにかかわる永遠のご計画を実現してくださっているということの確かなあかしです。 |
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