説教日:2004年5月9日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節~20節
説教題:御霊によって祈りなさい(5)


 エペソ人への手紙6章18節には、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と記されています。ここには御霊によって祈るようにとの戒めが記されています。この戒めは独立した文ではなく、中心の動詞は現在分詞で記されています。それで、この戒めはこれに先立つ10節~17節に記されている、霊的な戦いにおいて「神のすべての武具」をもって霊的に武装することについての戒めにつながっていると考えられます。これまで、そのことに注目して、

御霊によって祈りなさい。

と言われていることを、霊的な戦いの文脈の中でお話ししてきました。
 エペソ人への手紙では、霊的な戦いは6章になって初めて取り上げられているのではなく、初めから取り上げられています。明確に霊的な戦いに触れているのは、これまで何度か引用しました1章20節、21節です。そこには、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されています。
 ここで父なる神さまがイエス・キリストを「死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ」たと言われているのは、詩篇110篇1節に、

  主は、私の主に仰せられる。
  「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
  わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることの成就です。それで、それに続いて、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と言われているときの「すべての支配、権威、権力、主権」は霊的な戦いにおいて神である主に敵対している暗やみの主権者たちです。それは6章12節で、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と言われている存在、すなわちサタンとその主権の下にあって主に敵対して働いている悪霊たちです。
 私たちもかつては自らのうちにある罪のもたらす暗やみのために、この暗やみの主権者たちの巧妙な働きによって欺かれて歩んでおりました。2章1節~3節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されているとおりです。
 けれども、それに続く4節~6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されていますように、父なる神さまは私たちを御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせてくださって、その暗やみの主権の下から贖い出してくださいました。そして、イエス・キリストとともに天において座するものとしてくださいました。


 1章20節、21節に記されている、父なる神さまがイエス・キリストをご自身の右の座に着座させてくださったということは、イエス・キリストが「すべての支配、権威、権力、主権」、すなわち霊的な戦いにおいて神さまに敵対している存在の上に高く置かれたということで終わってはいません。これに続く22節、23節には、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 22節初めで、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

と言われていることには「いっさいのものを足の下に従わせる」というテーマがあります。これは、詩篇8篇5節、6節に、

  あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
  あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
  万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることを受けています。ここで、

  万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていることが、栄光をお受けになってよみがえられ、天において父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストにあって成就しているのです。
 詩篇8篇6節で、

  あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
  あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
  万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていることは、創世記1章27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることを受けています。天地創造の初めに、神さまは人を神のかたちにお造りになって、これを祝福し、ご自身がお造りになったすべてのものを治めるという使命をお与えになりました。詩篇8篇は、それが、人類が罪によって堕落したことによって取り消されたのではなく、その後も継続していることを示しています。
 ただ、そのすべてのものを治めるという使命は、神のかたちに造られている人間が神のかたちとしての特性を発揮して、造り主である神さまの愛といつくしみを表わすことによって果たされるものです。それで、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった人間は、すべてのものを治めるということを、罪が生み出す自己中心性によって歪めてしまっています。神さまから委ねられているものたちを押さえつけたり、搾取してしまうようになりました。それで、神さまが委ねてくださった使命を、神さまのみこころに従って果たすことができないものとなってしまいました。
 この使命が果たされるためには、神さま対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人の罪が贖われ、神のかたちとしての聖さと栄光が回復されなければなりません。イエス・キリストはこのために人の性質を取って来てくださいました。イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださって、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださいました。それは、私たちの罪を贖ってくださるためだけでなく、私たちのうちに神のかたちの聖さと栄光を回復してくださるためでした。そればかりでなく、栄光をお受けになって、天において父なる神さまの右の座に着座されたことによって、天地創造の初めに神さまが神のかたちにお造りになった人に委ねてくださった使命を実行に移しておられるのです。そのことが、エペソ人への手紙1章22節前半で、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

と言われています。
 この22節には、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と記されています。ここでは、イエス・キリストが「いっさいのものの上に立つかしら」であると言われています。そして、このことは、1章8節~10節で、

神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と言われていることとつながっています。というのは、22節に記されている

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

ということは、3節~14節に記されていることに基づくパウロの祈りの中に出てくることだからです。
 10節で、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

と言われていることについては、いろいろな見方がなされています。それをまとめておきましょう。
 ここで「天にあるものも地にあるものも、いっさいのもの」と言われているのは人間の世界のことだという見方があります。しかし、これは人間の世界だけのことではなく、私たちのことばで言いますと、宇宙大の視野から見たときの「いっさいのもの」、神さまがお造りになったこの世界の「いっさいのもの」のことです。
 また「一つに集められる」ということばは、新改訳では受動態で訳されていますが、これは(中態で)父なる神さまが御子イエス・キリストにあって「天にあるものも地にあるものも、いっさいのもの」を一つに集めてくださることを示していると考えられます。[とはいえ、新改訳のように理解しても、言われていることは同じです。それで、このお話では、新改訳の訳文をそのまま用います。]
 さらに、ここで用いられている「一つに集める」ということば(アナケファライオオー)は、イエス・キリストがいっさいのもののかしらであるという意味合いを伝えているという見方と、そのようなことは表わしてはいないという主張があります。どうやら、そのようなことを表わしてはいないという主張が広く受け入れられているようです。[それはこのことば(アナケファライオオー)の中心にあるのは「かしら」を表わすことば(ケファレー)ではなく、「主要なこと」、「要点」などを表わすことば(ケファライオン)であるということによっています。とはいえ、「かしら」を表わすことば(ケファレー)と、「主要なこと」、「要点」などを表わすことば(ケファライオン)は、互いに関連のあることばです。]
 確かに、この「一つの集める」ということば(アナケファライオオー)だけを根拠として、イエス・キリストが「天にあるものも地にあるものも、いっさいのもの」のかしらであると言うことはできないと思われます。けれども、ここでは、父なる神さまが「天にあるものも地にあるものも、いっさいのもの」を「キリストにあって」またキリストを中心として集められるということは示されています。そして、これは22節でイエス・キリストが「いっさいのものの上に立つかしら」であると言われていることと深くつながっています。それで、この22節との関連で考えますと、父なる神さまが「天にあるものも地にあるものも、いっさいのもの」を「キリストにあって」またキリストを中心として一つに集められるということは、キリストをかしらとして集められるということであると言うことができます。
 10節後半で、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

と言われていることは、それに先立つ8節~10節前半で、

神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、

と言われていることから分かりますように、父なる神さまのみこころの奥義でした。そして、これは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、父なる神さまがイエス・キリストにあって実現してくださっていることです。これがイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてなされることであるということは、さらにこれに先立つ7節で、

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

と言われていることから分かります。また、コロサイ人への手紙1章19節、20節には、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されていて、同じことが御子イエス・キリストにある父なる神さまとの和解と言われています。
 ですから、エペソ人への手紙1章10節で、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

と言われていることは、それまで分裂していたもの、対立していたもの、混乱していたもの、神さまのみこころから逸れてしまっていたものが「キリストにあって一つに集められること」です。
 しかし、ここで言われている「いっさいのもの」は、初めから神さまの御前で、分裂し、対立し、混乱していたわけではありません。天地創造の御業の最後の状態を記している創世記1章31節には、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されています。いっさいのものを視野に収めておられ、すべてのことを見通しておられる造り主である神さまの御前に、また、神さまがご覧になっても、すべてのものは「非常によかった」のです。それは、「いっさいのもの」が造り主である神さまのみこころにかなっていて、まったき調和のうちに、神さまの御前に存在していたということを意味しています。
 このような神さまの御手の作品としてのこの世界に分裂と対立と混乱が生じたのは、神のかたちに造られて、造り主である神さまから「いっさいのもの」を治める使命を委ねられた人間が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったからに他なりません。そのことは、創世記3章17節に記されている、

  あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

という、最初の人アダムに対する神である主のさばきのことばに示されています。
 このことを受けて、ローマ人への手紙8章19節~21節には、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されています。
 神のかたちに造られて、造り主である神さまから「いっさいのもの」を治める使命を委ねられた人間が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、神さまがお造りになったこの世界の「いっさいのもの」が「虚無」(マタイオテース)に服するようになりました。これは、神さまがこの世界の「いっさいのもの」を無意味なものではなく、ご自身のご栄光の目的にそった意味あるものにお造りになったということを踏まえています。それが、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人間との結びつきによって、本来の意味を失ってしまっているということを意味しています。
 そうであれば、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって罪を贖われ、神のかたちの聖さと栄光に回復されている「神の子どもたち」が現われることによって、この世界の「いっさいのもの」は、「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るのです。それで、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

と言われています。
 このことは、エペソ人への手紙1章10節で、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

と言われている父なる神さまのみこころの奥義が実現することには順序があるということを示しています。
 まず、神のかたちに造られて、造り主である神さまから「いっさいのもの」を治める使命を委ねられているのに、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人間が、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって罪を贖われ、神のかたちの聖さと栄光に回復されることから始まります。そして、「いっさいのもの」が神の子どもたちの栄光にあずかって、「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになります。
 そのことはイエス・キリストにあって、すでに始まっています。それがエペソ人への手紙1章20節~23節に、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 神のかたちに造られて、造り主である神さまから「いっさいのもの」を治める使命を委ねられた人間が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったのは、暗やみの主権者であるサタンの誘惑に乗ってしまったからです。サタンは神のかたちに造られている人間を初めとして、神さまがお造りになった「いっさいのもの」を、神さまの御前において分裂し、対立し、混乱するように導いて、神さまの創造の御業が空しいものとなってしまうことを狙っていたわけです。それが今も霊的な戦いの争点となっています。
 このようなことを視野に入れて見ますと、1章20節、21節に、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されていることは、霊的な戦いにおいて「女の子孫」としてこられた贖い主であるイエス・キリストが勝利したことを記していますが、そして、それは霊的な戦いにおいて決定的に大切な出来事ですが、それですべてではないことが分かります。そこには、神の子どもたちの回復と、造られた「いっさいのもの」の回復がどうなっているのかという問題が残っています。そしてそれについて、22節、23節で、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われているのです。
 イエス・キリストは人の性質を取って来られて、十字架の死に至るまでも父なる神さまのみこころに従いとおされ、栄光をお受けになって、父なる神さまの右の座に着座されました。このことは、

神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

と言われていますように、天地創造の初めに神のかたちに造られている人間に委ねられた「いっさいのもの」を治める使命を成就することであると言われています。そして、父なる神さまは、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と言われています。それで、これに続いて、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われていますように、教会は「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」のからだなのです。
 これは、1章10節で、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

と言われている父なる神さまのみこころの奥義が、「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」のからだである教会を中心として、また教会から実現していくということを意味しています。
 エペソ人への手紙は大きく前半の教理篇とそれを踏まえた実践篇に分かれます。実践篇は4章から始まりますが、その最初である1節~6節には、

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

と記されています。ここでは、私たちは「御霊の一致」を保つために召されていることが示されています。
 このことを、これまでお話ししてきたこととのかかわりで見てみますと、私たちがこのような「御霊の一致」を保つことは、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまのみこころの奥義が実現することの中心であり、第一歩であるのです。
 私たちがこのような「御霊の一致」を保つことは、今ここで私たちがともに集って信仰の家族の交わりを保ち、一人の主イエス・キリストの御名によって、唯一の神さまをともに礼拝することに現われてきています。しかし、この「御霊の一致」はそれだけで終わりません。6章18節で、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と言われていますように、「絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし」て祈り合うことによって、「御霊の一致」は「すべての聖徒たち」の間にという広がりをもって実現していくのです。

 


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