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説教日:2004年5月2日 |
復習になりますが、3節後半は、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 となっています。ここで「天にある」と訳されていることば(エン・トイス・エプウーラニオイス)は、エペソ人への手紙の中ではこのほか四個所において用いられていて、すべて場所を表わしています。それで、ここでも同じように場所を表わしていると考えられます。 新改訳では「天にあるすべての霊的祝福」というように、その祝福が天にあるものであると言われています。確かに、この父なる神さまの祝福は天にあるのですが、ここでは、その祝福が天にあるということよりは、父なる神さまが「天において」「すべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったということが示されていると考えられます。ただ、このことばを「天において」と訳しますと、その前に「キリストにおいて」ということばがありますので、3節後半は、 神はキリストにおいて、天において、すべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と、かなりぎこちないものなってしまいます。そのぎこちなさは避けられませんが、 神はキリストにあって、天において、すべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 としたらいいかもしれません。 このことのいちばん外にあって全体を包んでいること、しかも、いちばん奥にあって全体を支えていることは、「キリストにあって」ということです。「キリストにあって」ということは、私たちが御子イエス・キリストに結び合わされて、イエス・キリストのうちにある者となっているということを意味しています。つまり、父なる神さまが天において私たちを祝福してくださった祝福は、私たちが御子イエス・キリストに結び合わされていること自体にあります。そして、私たちがイエス・キリストのいのちによって生きる者となっていることが父なる神さまの祝福の中心です。そして、そのように、私たちを御子イエス・キリストに結び合わせて、イエス・キリストのいのちによって生かしてくださるのは、御霊のお働きによることです。それで、その祝福は「霊的祝福」であると言われています。 父なる神さまが「天において」私たちを祝福してくださったということは、この祝福が「天において」私たちのものとなるということを意味しています。ということは、それは私たちが「天にある」者、「天において」生きる者となるということを意味しています。そして、それはあくまでも「キリストにあって」のことです。 このことは、私たちにとって遠い先のことではなく、すでに私たちの現実となっています。父なる神さまが「天において」私たちを祝福してくださったということは、今は地にある私たちには関係ないことであるというように受け止められかねません。けれども、それは今の私たちに深くかかわっており、今の私たちを豊かないのちに生かしてくださっている祝福なのです。 まず、イエス・キリストがこのことを私たちのうちに実現してくださるための基礎を築いてくださいました。今から二千年前のことです。それが1章20節、21節で、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と言われていることです。そして、私たちはこのイエス・キリストに結び合わされている者として、イエス・キリストの栄光にあずかる者とされています。そのことが、2章4節〜6節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されています。繰り返しになりますが、私たちをこのようにして栄光のキリストに結び合わせてくださって、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生かし、「天において」イエス・キリストとともに座するものとしてくださっているのは、御霊のお働きによることです。より詳しくは、父なる神さまが御霊によって、このことを今の私たちの現実としてくださっているのです。 エペソ人への手紙ではこのことが、いわば空間的に、天におけることとして記されています。私たちはそのような視点から、私たちが受けている祝福をしっかりと受け止めておく必要があります。それと同時に、この父なる神さまが私たちに与えてくださっている祝福を、いわば時間的に、難しいことばで言いますと、終末論的に受け止めておくことも大切なことです。「終末論的に」というのは、世の終わりに栄光のキリストが再臨されて、贖いの御業にかかわるすべてを完成してくださる(今お話ししていることとのかかわりで言いますと、父なる神さまが私たちに与えてくださっているすべての霊的な祝福を完全に実現してくださる)ということを見据えて、今の私たちのあり方を理解るということです。 それで、このことをコリント人への手紙第一・15章45節〜49節に記されていることに照らして見てみたいと思います。 コリント人への手紙第一・15章45節〜49節には、 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。 と記されています。 ここには「最初の人アダム」と「最後のアダム」という歴史的な対比があります。言うまでもなく、「最後のアダム」は、まことの人の性質を取って来られた御子イエス・キリストです。ここでは特に、十字架の死に至るまで完全に父なる神さまのみこころに従いとおされて、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストのことです。ここでの対比は、21節、22節で、 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 と言われている対比を受けています。 「最初の人アダム」は、天地創造の御業において最初の人として造られ、それゆえに人類全体の契約のかしらとして立てられました。そのアダムは、創世記1章27節に、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と記されていますように神のかたちに造られています。しかし、それと同時に、2章7節に、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と記されていますように、「土地のちりで」形造られたものです。そのかぎりにおいて「最初の人アダム」は神である主に対して罪を犯しうるものでありましたし、実際に、主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そして、アダムの子孫はすべてかしらであるアダムにあって堕落し、死に服するものとなってしまいました。 コリント人への手紙第一・15章45節で、 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてあります と言われているのは、アダムが造られた時のことに触れるもので、アダムが罪を犯すようになる前のことです。造られたときのアダムは「生きた者となった」のですが、それはアダムの「鼻にいのちの息を吹き込まれた」神である主によって生かされている状態にありました。アダムはこの段階では、人を生かす充満ないのちをもつ栄光の状態にはありませんでした。アダムは、サタンの誘惑を受けても神である主のみこころに最後まで完全に従いとおすことによって、その従順に対する報いとして充満な栄光にあるいのちを受けるべきでした。けれども、実際には、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、そのような充満な栄光にあるいのちを獲得するどころか、死の力に服するものとなってしまいました。 これに対して、「最後のアダム」として来られたイエス・キリストは、その十字架の死に至るまでの生涯において、最後までまた完全に父なる神さまのみこころに従いとおされて、ご自身の民の罪のための贖いを成し遂げてくださっただけでなく、その従順に対する報いとして栄光あるいのちをお受けになって、死の力を打ち砕いて、死者の中からよみがえられました。それは、ご自身のためではなく、ひとえに私たちをご自身の栄光あるいのちによって生かしてくださるためでした。これがコリント人への手紙第一・15章45節で、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と言われていることです。 しかし、この、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 ということばは不思議なことばです。「最後のアダム」とはイエス・キリストのことです。その、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と言われているのです。そうしますと、これはイエス・キリストと御霊の区別がなくなってしまったということなのかという疑問が生まれてきます。もちろん、これは三位一体の御子と御霊の間の区別がなくなってしまったとか、曖昧になってしまったということではありません。御子は永遠に御子であられ、御霊は永遠に御霊であられます。御子も御霊も無限であり永遠であられるだけでなく、不変であられます。ですから、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 ということは、御子と御霊のご人格について言われることではありません。そうではなく、「生かす御霊」ということばが指し示しているように、御子と御霊のお働きについて言われていることです。 御子イエス・キリストは約束のメシヤとして、私たちのために贖いの御業を遂行されました。この「メシヤ」という称号は「油注がれた者」という意味です。もともとは特定の任務に就くものが頭から油を注がれたことから由来していますが、やがて贖い主を指す専門用語のようになりました。この「メシヤ」に当たるギリシャ語が「キリスト」です。イエス・キリストはメシヤとしてのお働きを始められるに当たって、メシヤの先駆けとして遣わされたバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。その時のことを記しているマタイの福音書3章16節、17節には、 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 と記されています。イエス・キリストは御霊によって「油注がれた」まことのメシヤであられたのです。 この時からイエス・キリストは御霊によって満たされ、御霊によって導かれて、メシヤとしてのお働きを遂行されました。そして、十字架にかかってご自身の民のための罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。その栄光をお受けになったイエス・キリストには、いのちの御霊がこの上なく充ち満ちておられます。この栄光のキリストはペンテコステ(聖霊降臨節)の日に、ご自身の契約の民に御霊を注いでくださいました。それで、御霊は栄光のキリストの御霊としてお働きになるのです。これによって、メシヤであられる栄光のキリストは、私たちのいのちの源となってくださり、私たちを生かしてくださることにおいて、御霊とまったく一つとなって働いておられます。それで、コリント人への手紙第一・15章45節では、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と言われているのです。ですから、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と言われているときの「最後のアダム」は充満な栄光をお受けになってよみがえられたイエス・キリストのことです。 これを受けて、コリント人への手紙第一・15章46節では、 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。 と言われています。 ここでの「血肉のもの」(プシューキコン)は[中性の形容詞で]最初に造られたときのアダムの状態を指しています。それは、アダムをかしらとしているすべてのものの状態にも当てはまります。そして、「御霊のもの」(プニューマティコン)は[やはり中性の形容詞で]、45節で、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と言われている十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、その報いとして栄光をお受けになってよみがえられたイエス・キリストの状態を指しています。そして、これも栄光のキリストをかしらとしている主の民の状態にも当てはまります。 それで、「血肉のもの」という状態にある人は、本来は、罪を宿すものではありません。それは罪を犯しうる状態にありましたが、神のかたちの栄光と尊厳をもっていました。しかし、実際には、最初の人アダムが神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、この「血肉のもの」という状態にある人は、腐敗したもの、死の力に服するものとなってしまっています。 かりに、最初の人アダムがその生涯をとおして完全に神である主のみこころに従いとおしていたとしたら、どうなっていたことでしょうか。アダムはそのまったき従順に対する報いとして、充満な栄光にあるいのちを獲得したはずです。それは、また主の契約における人類のかしらとして充満な栄光にあるいのちを受けるということですので、アダムにあってすべてのものが充満な栄光にあるいのちのうちに生まれ、神である主の栄光を充満な形で映し出す歴史を造り出していたはずです。 かりにそのようになっていたとしたら、栄光あるいのちのうちに生きるようになったであろうアダムの状態は「御霊のもの」と呼ばれていたことでしょう。その意味で、かりにアダムが神である主のみこころに完全に従っていたとしても、 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。 ということであるのです。その場合には、アダムにあって「血肉のもの」が栄光あるものとされて「御霊のもの」となっていたことでしょう。 けれども、実際には、アダムにあって「血肉のもの」が腐敗してしまい、死の力に服するものとなってしまいました。そして、「御霊のもの」は、十字架の死に至るまでも父なる神さまのみこころに従いとおされた「最後のアダム」において現実のものとなりました。 これに続く47節〜49節には、 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。 と記されています。 ここには「天」ということばが四回出てきます。 そのうちの最初の「天」、すなわち47節で、 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。 と言われているときの「天」は「天」を表わす一般的なことば(名詞・ウーラノス)です。それは場所的に「地」と区別される所としての「天」を表わしています。ところが、その後の三つは、エペソ人への手紙1章3節、20節、2章6節などで「天において」と言われているときの「天」ということばと同じことば(形容詞・エプウーラニオス)です。ここでは、これら三つは「天的な」特質や状態を表わしています。 47節では、 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。 と言われています。前半の、 第一の人は地から出て、土で造られた者です ということは、すでに引用しました創世記2章7節で、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われていることを受けています。さらに、これは、罪を犯して堕落したアダムに対して神である主が宣言されたさばきのことばを記している創世記3章19節に、 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。 と記されていることも受けいています。 47節後半の、 第二の人は天から出た者です。 ということは、45節で、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と言われていることと、46節で、 御霊のものはあとに来るのです。 と言われていることと対応しています。つまり、これは、十字架の死に至るまで完全に父なる神さまのみこころに従いとおされて充満な栄光をお受けになってよみがえられた御子イエス・キリスト、すなわち、栄光のキリストのことを述べているのです。 47節〜49節に記されていることでは、この47節に述べられていることが基礎的なこととなっています。その上に立って48節と49節が記されています。48節では、 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。 と言われています。前半の、 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており では、ここで取り上げられている双方が「土で造られた者」と訳されています。これは同じことばで一方が複数で、もう一つが単数であることが違っているだけですので、そうなっています。この「土で造られた者」という訳語は間違っていないのですが、これですと素材のことが述べられているように聞こえます。しかし、ここでは素材のことよりは、特質や状態を表わしています。それで「土的(つちてき)な者」というようなことばがあればいいのですが、そのようなことばはないでしょうから、「土に属する者」、「土に属する者たち」というようにしたらいいかと思います。繰り返しになりますが、アダムにあって人類が堕落した後には、この「土に属する者たち」は死の力に服するものとなってしまっています。 48節後半には、 天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。 と記されています。この新改訳の訳ですと、何となく「天からの者」と「天から出た者」が違う言い方のような感じですが、この二つは同じことば(エプウーラニオス)で、単数と複数の違いがあるだけです。そして、このことばも特質や状態を表わしています。これは「天的な者」、「天的な者たち」ということですが、この前の「土に属する者」、「土に属する者たち」に合わせて言いますと、「天に属する者」、「天に属する者たち」ということになります。 もちろん、みことばの全体的な教えからしますと、この「天に属する者たち」を新改訳のように「天からの者」たちと考えることはできます。ヨハネの福音書3章3節に記されていますように、イエス・キリストはニコデモに、 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。 とお教えになりました。この場合の「新しく生まれなければ」の「新しく」ということば(アノーセン)には、「上から」とか「天から」という意味もあって、ここではこの二つの意味が表わされていると考えられます。実際には、このイエス・キリストの教えを聞いたニコデモがこのことば(アノーセン)を「新しく」と理解して話が進んでいきますので、このことばは「新しく」と訳されているわけです。そうしますと、先ほどの「天に属する者たち」は、イエス・キリストの教えに照らして見ますと「天から生まれた者たち」すなわち「天からの者たち」でもあるわけです。 コリント人への手紙第一・15章に戻りますが、49節には、 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。 と記されています。この「土で造られた者」は先ほどの「土に属する者」で、最初の人アダムのことです。また、後半の、 天上のかたちをも持つのです。 という訳には問題があります。「天上のかたち」の「天上の」と訳されている部分は「天に属する者」です。49節をこれまでお話ししてきたことを踏まえて訳しますと、 私たちは土に属する者のかたちを持っていたように、天に属する者のかたちをも持つようになります。 となります。 言うまでもなく、この「天に属する者」は栄光のキリストのことです。そして、私たちが、 天に属する者のかたちをも持つようになるのです。 と言われていることは将来のことで、栄光のキリストの再臨の日に完成します。「天的なもの」は終わりの日に再臨される栄光のキリストによって完全に実現し、私たちのものとなります。 これらすべてのことの根本に、45節で、 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と言われていることがあります。私たちの罪を贖ってくださるために十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされた御子イエス・キリストは、栄光をお受けになってよみがえられて、私たちをご自身の復活のいのちによって生かしてくださる方となられました。このことに基づいて、私たちを栄光のキリストに結び合わせてくださって、私たちを栄光のキリストの復活のいのちによって生かしてくださる方は、栄光のキリストの御霊としてお働きになる御霊です。 エペソ人への手紙1章3節後半で、 神はキリストにあって、天において、すべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と言われていることは、天におけることですが、栄光のキリストの御霊のお働きによって、地にある私たちの間の現実となっています。私たちは地にありますが、栄光のキリストの御霊のお働きによって、栄光のキリストと一つに結ばれて、栄光のキリストの復活のいのちによって生かされています。これによって、私たちは「天に属するもの」として生きているのです。 コリント人への手紙第一・15章49節には、 私たちは土に属する者のかたちを持っていたように、天に属する者のかたちをも持つようになるのです。 と記されていて、栄光のキリストの再臨の日における完成を待ち望む視点が示されています。御霊によって祈る者は、この栄光のキリストの再臨の日における完成を信じて待ち望みつつ、 御国が来ますように。 と祈ります。 |
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