説教日:2004年4月25日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:御霊によって祈りなさい(3)


 エペソ人への手紙6章18節には、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と記されています。この18節は二つに分けられます。前半は、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

で、その中心は「祈りなさい」です。後半は、

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

で、その中心は「目をさましていて」です。これら二つの中心のことばは現在分詞で表わされています。ここには独立した文を構成するために必要な定動詞がありません。そのために、これをどのように理解するかについて意見が分かれています。おそらく、これらの分詞は、新改訳の訳文のように、独立した命令を表わしていると理解するのがいちばんよいのではないかと思われます。
 そうではあっても、この命令が分詞で表わされていることには意味があると考えられます。それは、この命令が、その前の10節〜17節に記されていることとのつながりで受け止められるべきことを示しているということです。10節〜17節では、霊的な戦いにおいて「神のすべての武具」をもって霊的に武装すべきことが戒められています。18節に記されている、御霊によって祈るべきことは霊的な武装の一部ではなく、霊的に武装した者が霊的な戦いを展開していくうえで必要なことであると考えられます。
 先週は、この御霊によって祈ることが霊的な戦いの流れの中でどのような意味があるかということを、特に、エペソ人への手紙に記されていることにそってお話ししました。今日はそれをさらに補足するお話をします。


 言うまでもなく、御霊によって祈ることは御霊のお働きと密接にかかわっています。それで、御霊によって祈ることを理解するためには、御霊のお働きがどのようなものであるかを理解する必要があります。
 三位一体の神さまの本質と実体は一つであり、ただ一人の神がおられます。そして、神さまの存在と属性のすべては無限、永遠、不変であり、その存在と属性の輝きである栄光も無限、永遠、不変です。同時に、御父、御子、御霊は、それぞれ人格的に区別されますが、御父、御子、御霊は神としての本質において等しく、その存在と属性においても、等しく無限、永遠、不変の栄光の主であられます。
 三位一体の御父、御子、御霊は、創造の御業と贖いの御業において、役割分担をしておられます。御父は創造の御業と贖いの御業に関する永遠のご計画をお立てになり、御子は御父のご計画にしたがって創造の御業と贖いの御業を遂行され、御霊は御子の御業をこの世界のすべてのものに当てはめてくださいます。これをまとめますと、御父は計画者、御子は遂行者、御霊は適用者ということになります。
 父なる神さまの永遠のご計画についてはエペソ人への手紙1章3節〜6節に記されています。そこには、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されています。
 3節は、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

という賛美のことばで始まっています。実は、この3節〜14節に記されていることは、エペソ人への手紙全体への序論のような役割を果たしていますが、原文のギリシャ語では、この3節〜14節全体が長い一つの文です。そして、その中心がこの、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

という賛美のことばにあります。それで、3節〜14節全体が「私たちの主イエス・キリストの父なる神」さまに対する長い賛美のことばです。
 この3節〜14節に記されていることをどのように分析するかに関しては、いろいろな試みがなされてきました。私は、あまり一般的な理解の仕方ではないようですが、この部分は三位一体の御父、御子、御霊のお働きにそって区分するといいのではないかと考えています。
 どういうことかと言いますと、先ほど引用しましたので改めて引用しませんが、3節後半〜6節には、父なる神さまの永遠のご計画のことが記されています。
 そして、7節〜12節には、

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。

と記されています。これは、御子イエス・キリストによる贖いの御業の遂行を記しています。それは、10節で、

時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と言われているように、宇宙大の視野と意味の広がりにおいてなされた御業です。
 これに続く、13節、14節は、

またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

と記されています。これは、御霊によって、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を、私たちに当てはめてくださるお働きを記しているということです。
 そして、このように区分しますと、それぞれの区分の最後は、神さまの栄光がほめたたえられるためであるという、それぞれのお働きの目的を示すことばで結ばれているということになります。
 もちろん、この3節〜14節に記されていることの全体の主語は父なる神さまです。父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして、そして御霊によって、御業をなしておられるのです。それは贖いの御業そのものが父なる神さまの永遠のご計画から出ており、御子と御霊はその父なる神さまのみこころを実現するようにお働きになっておられることからしますと当然のことです。これと調和して、ヨハネの福音書5章19節には、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。また14章10節には、

わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 御子イエス・キリストがなさる御業は確かに御子イエス・キリストの御業です。しかし、御子イエス・キリストは父なる神さまと完全に一体であられて、また父なる神さまのみこころに完全にしたがって、御業をなしておられます。その意味で、御子イエス・キリストは、父なる神さまがご自身のうちにおられて御業をなしておられると言うことがおできになったのです。
 このように、エペソ人への手紙1章3節〜14節に記されていることは、内容的には、三位一体の御父、御子、御霊のお働きをまとめている、極めて豊かな内容をもった教えです。そのために、私たちはこの全体が父なる神さまへの賛美であるということを忘れてしまいそうになります。しかし、このことは逆に私たちの賛美に反省を迫ります。本来、神さまへの賛美は、神さまご自身とその御業に対するこのような豊かな洞察に基づいていなくてはならないのです。賛美のことばが簡潔なものであっても、それをもって賛美する私たちの理解によって豊かに裏打ちされている必要があります。
 いずれにしましても、このような全体的な構造の中で、3節後半〜6節には、父なる神さまが御子イエス・キリストにあってなしてくださったことが記されています。この部分のつながりを見てみますと、まず、3節後半で、

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と言われています。そして、このことが具体的にどのようなことであるかを説明するために4節と5節では、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と言われています。さらに、父なる神さまがこのような祝福を私たちに与えてくださったことの目的について、6節で、

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と言われています。
 このようなことを念頭において、改めて3節で、

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と言われていることを見てみましょう。
 ここでは私たちに与えられている「祝福」のことが示されています。3節後半〜5節に記されていることの主語は父なる神さまですから、この「祝福」は父なる神さまが私たちに与えてくださっているものです。
 父なる神さまは、

すべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました

と言われています。この「祝福」が「霊的祝福」であるということは、それが御霊のお働きによってもたらされる祝福であるということを意味しています。御霊が私たちの間に、また私たちのうちにご臨在してくださることによって、私たちが御子イエス・キリストのいのちによって生きるようになることが父なる神さまの祝福の本質です。
 その意味で、この「祝福」は「キリストにおいて」私たちに与えられていると言われています。この「キリストにおいて」ということは、「キリストにあって」ということで、私たちが御子イエス・キリストと一つに結び合わされているということを意味しています。この私たちとイエス・キリストが結び合わされていることには二つの面があります。一つは法的な面で、私たちがイエス・キリストを契約のかしらとしているということです。そして、そのかしらであるイエス・キリストに連なる者としての祝福を受けているということです。もう一つは実質的な面で、私たちが実際にイエス・キリストと一つに結ばれていて、イエス・キリストのいのちが私たちを生かすいのちとなっているということです。そして、このように私たちをイエス・キリストと一つに結んでくださって、イエス・キリストのいのちによって生かしてくださるのは、御霊のお働きによることです。
 また、この「祝福」は「天にある」と言われています。この「天にある」ということば(エン・トイス・エプウーラニオイス)は、「天の」とか「天的な」という意味の形容詞を中心として[形容詞エプウーラニオスの複数形を冠詞によって実体化したものに「 ・・・・ に」という前置詞エンがつけられて]表わされています。その意味で、このことばは、それが天的な性格や特質をもったものであるという意味合いを伝えています。天的な性格や特性といっても分かりにくいのですが、それがどのようなものであるかは、先ほどお話ししました「キリストにおいて」と言われているときの「キリスト」によって示されています。つまり、この「キリスト」こそが天的なものを最も豊かに表わしておられる方なのです。この点につきましては後ほどお話しします。
 この「天にある」ということばは、エペソ人への手紙にはここのほか四個所において用いられています。そして、それらの個所ではすべて場所や領域を表わしていますので、ここでも場所や領域を表わしていると考えられます。この場合の「天にある」祝福は、私たちを永遠に覆ってくださる父なる神さまの祝福ですが、遠い先のものではなく、今の私たちにも深くかかわっていて、私たちを満たし、私たちを生かしてくださっている祝福です。
 先ほども言いましたように、ここで「天にある」と訳されていることばとまったく同じことばは、エペソ人への手紙の中で、このほか四個所で用いられています。そのうちの三つは、先週取り上げてお話しした個所で用いられていますので、それを見てみましょう。
 一つは、1章20節でイエス・キリストについて用いられています。20節、21には、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されています。ここで「天上においてご自分の右の座に着かせて」と言われているときの「天上において」と訳されていることばが、3節で「天にある」と訳されていることばと同じことばです。
 イエス・キリストは私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださいました。そして、私たちを新しい栄光あるいのち、すなわちご自身の復活のいのちで生かしてくださるために、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださいました。それは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして父なる神さまからお受けになった栄光です。その意味で、ここでは、ピリピ人への手紙2章6節〜11節に、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されていることに当たることが記されています。
 もう一つは、2章6節で私たちのことを述べるのに用いられています。2章4節〜6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。言うまでもなく、ここで「ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われているときの「天の所に」と訳されていることばが、1章3節で「天にある」と訳されていることばと同じことばです。
 イエス・キリストは私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださり、私たちを新しいいのちに生かしてくださるために栄光をお受けになって死者の中からよみがえって、「天上において」父なる神さまの右の座に着座されました。私たちは御霊のお働きによってこのイエス・キリストと一つに結ばれています。それで、私たちは御霊のお働きによってイエス・キリストにあって、イエス・キリストとともによみがえって、ともに天上に座するものとなっています。
 これらのことを見ますと、私たちは栄光のキリストにあって、また栄光のキリストとともに天において(エン・トイス・エプウーラニオイス)栄光の座をもつ者としての祝福を受けていることが分かります。
 先ほど1章3節の「天にある」ということばが表わしている「天的な」性格や特質はイエス・キリストにおいて最も豊かに表わされていると言いました。その「天的な」性格や特質は、栄光をお受けになったイエス・キリストの栄光と権威を映し出すこと、あるいはその栄光と権威にふさわしいことにあります。そして、この父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストの栄光と権威は、1章10節において、父なる神さまのみこころの奥義が、

時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と言われているように、神さまがお造りになったいっさいのものが栄光のキリストをかしらとしてまったき調和のうちに存在するようになるための栄光と権威です。
 これだけですと、すべてはうまくいっているということになります。けれども、1章3節で「天にある」と訳されていることばと同じことばは、さらに霊的な戦いのことを述べている6章12節で、霊的な戦いの敵について述べるときに用いられています。そこでは、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と言われています。この「天にいるもろもろの悪霊」の「天にいる」と訳されていることばが、1章3節で「天にある」と訳されていることばと同じことばです。
 このことばは四つの個所で用いられていると言いましたが、このことばが用いられているもう一つの個所は3章10節です。文脈を見るために、3章7節〜11節を見てみますと、そこには、

私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。

と記されています。
 10節で、

これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、

と言われているときの「天にある」が、1章3節で「天にある」と訳されていることばと同じことばです。以前お話ししたことでもありますので、詳しい議論は省きますが、ここに出てくる「天にある支配と権威」の「支配と権威」は1章21節に出てきた「すべての支配、権威、権力、主権」に当たるものです。
 この二つの個所では、暗やみの支配と権威や悪霊たちも「天にある」と言われています。
 これらのことから霊的な戦いの様相が見えてきます。
 1章3節で、父なる神さまは、

キリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と言われています。そして、それが具体的にどのようなことかということが、4節、5節で、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と説明されています。そして、これらのことの目的について6節では、

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と言われています。
 霊的な戦いにおいては、このようにして父なる神さまが御子イエス・キリストにあって「天にあるすべての霊的祝福」をもって私たちを祝福してくださっていることをかき乱し破壊しようとして、暗やみの支配者と権威と悪霊たちが働いているということです。そして、暗やみの支配者と権威と悪霊たちの目的も、これによって、

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と言われている父なる神さまのご計画の目的が実現することを阻止することにあるわけです。暗やみの支配者と権威と悪霊たちは、神さまがお造りになったこの世界から、神さまへの礼拝と賛美を消し去ろうとして働いているのです。
 このように、霊的な戦いは「天において」(エン・トイス・エプウーラニオイス)の戦いです。私たちはこのような霊的な戦いを戦うように召されています。その「天において」は、すでに、私たちのための罪の贖いを成し遂げてくださって、栄光をお受けになってよみがえられた御子イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座しておられます。これによって、暗やみの支配者と権威ともろもろの悪霊たちはその主権の座を追われています。
 このように栄光をお受けになって父なる神さまの右の座に着座された私たちの主イエス・キリストは、父なる神さまの右の座において、私たちの大祭司として私たちのために執り成していてくださいます。ローマ人への手紙8章33節、34節には、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されています。またヘブル人への手紙7節24節、25節には、

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

と記されています。
 私たちも御霊によってイエス・キリストに結び合わされている者として、イエス・キリストとともによみがえって、イエス・キリストとともに「天において」座するものとなっています。私たちはそのような者として「天において」展開されている霊的な戦いを戦っています。それで、私たちも父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストを大祭司として戴く御国の祭司として、御霊によって祈るのです。今私たちは地に住んでいますが、イエス・キリストにあって、またイエス・キリストとともに天に座する者として祈ります。それは、私たちを栄光のキリストと結び合わせてくださっている御霊のお働きによって初めて可能なことです。
 この御霊は、私たちの間にご臨在してくださるとともに、私たちのうちにご臨在してくださって、私たちのために執り成してくださっています。ローマ人への手紙8章26節、27節に、

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

と記されているとおりです。
 私たちが目を覚ましていて、すべての聖徒たちのために御霊によって祈るのは、1章3節後半〜6節において、

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と言われていることがすべての聖徒たちの間に実現するようになるためです。そして、その結果、すべての聖徒たちの間で、

神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるようになる

ためです。そのためには、まず私たち自身が恵みとまことに満ちた栄光をほめたたえる賛美をもって神さまを礼拝しなければなりません。そして、この礼拝に、父なる神さまが「世界の基の置かれる前からキリストのうちに」お選びになっておられる神の子どもたちが加えられていくことによって賛美と礼拝の輪が広がっていくのです。


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