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説教日:2004年4月18日 |
御霊によって祈るということは、御霊のお働きにあずかって祈るということです。御霊の基本的なお働きは、私たちをイエス・キリストと結び合わせてくださって、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づく恵みを私たちに当てはめてくださることにあります。 ヨハネの福音書15章26節には、この御霊のお働きについてのイエス・キリストの教えが記されています。そこには、 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 と記されています。 御霊は私たちにイエス・キリストがどなたであるかをあかししてくださいます。私たちのあかしは、しばしば誰にも受け入れないままに終わってしまいます。しかし、御霊のあかしは確かで力あるものです。御霊は私たちの心を照らして、イエス・キリストがどなたであり、イエス・キリストのお働きがどのようなお働きであるかを悟らせてくださいます。後ほどお話ししますが、霊的な戦いにおいて決定的に大切なことは、イエス・キリストがどなたであり、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業と、今もなされているお働きがどのようなものであるかということです。 そして、その御霊のお働きは16章13節、14節に、 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。 と記されていますように、私たちに福音のみことばに示されている真理を示し、悟らせてくださることによっています。 祈りにおいて大切なことは、私たちがイエス・キリストの御名によって祈るということです。イエス・キリストの御名によって祈るということは、ただ祈りの終わりに「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。」と言うということではありません。私たちがイエス・キリストのうちにあるものとして、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を頼みとして祈るということです。イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づく恵みは、私たちの罪をまったく贖ってくださっているだけでなく、この世にある私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるために必要なすべてを備えている恵みであることを信じて祈るということです。それは、御霊のお働きにあずかって初めてできることです。そして、それが御霊によって祈るということの中心にあります。 このことと霊的な戦いがどのようにかかわっているかということにはいろいろな面がありますが、今日はその一つの面をお話しします。 私たちが霊的な戦いを戦う理由は、私たちが霊的な戦いの中で救われており、霊的な戦いへと救われているからです。すでにいろいろな機会にお話ししましたが、神である主が備えてくださった救いは、最初の人であるアダムとその妻であるエバが神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後に約束されました。創世記3章15節には、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されています。 ここで「おまえ」と呼ばれているのは、エバを誘惑した「蛇」です。しかし、「蛇」は神である主がお造りになった生き物の一つですから人格的なものではありません。それが神である主の戒めをめぐってエバとやり取りをしています。ですから、この「蛇」の背後にあって働いていた人格的な存在があるわけです。それが霊的な存在であるサタンでした。神である主はサタンが用いた「蛇」をお用いになって逆にサタンへのさばきを宣言されました。 そのさばきは、次のようなものです。この時、すでにサタンは「蛇」をとおして「女」と呼ばれているエバを誘惑して、成功していました。エバは神である主に罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、サタンと一つになっていました。それは、エバがその後に、夫であるアダムが神である主に対して罪を犯すように誘っていることによって分かります。そのようにサタンと一つになってしまっている「女」と呼ばれているエバが、神である主が置いてくださる「敵意」によって、サタンに立ち向かうようになるというのです。そればかりでなく、その「敵意」は「女の子孫」たちにも受け継がれていって、サタンとその霊的な子孫との間に霊的な戦いが展開されると言われています。そして、最後には、「女の子孫」として来られる贖い主がサタンに致命的な打撃を与えて、サタンに対するさばきを執行されると言われています。 このようにして、「女」と「女の子孫」は、神である主が置いてくださった「敵意」によって、サタンとその霊的な子孫に対して敵対して立つようになります。それは、神である主に逆らっているサタンとその霊的な子孫に対する霊的な戦いを戦うことにおいて、神である主の側に立つものとされているということです。その意味において、「女」と「女の子孫」は神である主の民として回復されることになるのです。そして、その回復は、「女の子孫」として来られる贖い主のお働きによってもたらされます。 実際、「女」と呼ばれているエバは、神である主が置いてくださった「敵意」によって、サタンに立ち向かうようになりました。それは4章1節に、 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。 と記されていることに現われています。 どこに霊的な戦いの痕跡があるのかと問われるかもしれません。確かに、ここには一般に考えられているようなエクソシズムとしての悪霊との対決は見られません。しかし、これは神である主が与えてくださった福音の真理をめぐる霊的な戦いであって、血肉のぶつかり合いによる戦いではありません。エバは神である主が約束してくださった「女の子孫」として来られる贖い主への信仰によって、言い換えますと、「女の子孫」として来られる贖い主を約束してくださった神である主を信じる信仰によって、サタンに立ち向かっているのです。霊的な戦いにおいては、いくら悪霊が追い出されても、そのこと自体が目的となってしまって、福音のみことばに約束された贖い主への信仰が見失われてしまったら、それは敗北を意味しています。 エバは自分たちに最初に生まれた男の子が約束された贖い主であると考えて、 私は、主によってひとりの男子を得た。 と言っています。実際には、その時に生まれたカインは「女の子孫」に属する子ではありませんでしたが、この時、エバが「女の子孫」として来られる贖い主に関する主の約束を信じていたことは示されています。 このエバの信仰は、さらに試されます。約束された贖い主ではないかと思ったカインは、こともあろうに、自分の弟アベルを殺してしまうに至ります。それは、まさに自分たちの罪の性質がカインに受け継がれていたという現実を示しています。カインの誕生の時の信仰に基づく期待は失望に終わりました。また、カインがアベルを殺してしまったこと、そして主の御前から離れ去ってしまったことに対する深い悲しみもあったはずです。けれども、エバは約束の贖い主への信仰を捨てませんでした。4章25節には、 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」 と記されています。セツの誕生においてなおも主の約束への信仰の告白をしています。これは、御霊のお働きに支えられ、導かれてのことに他なりません。 このように、エバは「女の子孫」として来られる贖い主を約束してくださった主を信じ続けることによって、霊的な戦いにおいて主の側に立ち続け、サタンに立ち向かっています。それは、そのまま、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という主のみことばがエバにおいて実現しているということです。 このようにして、最初の人アダムとエバから始まって、神である主が約束してくださった「女の子孫」として来られる贖い主への信仰、また「女の子孫」として来られる贖い主を約束してくださった神である主を信じる信仰によって、霊的な戦いにおいて主の側に立ち続けた者たちの歴史が築かれていきました。私たちも、主の恵みによってその歴史の流れにさおさす者としていただいています。それで私たちは、霊的な戦いを戦う者であり、実際に霊的な戦いを戦うように召されています。 しかし、私たちはアダムとエバと同じ立場にあるのではありません。というのは、アダムとエバを初めとする古い契約の下にある主の民にとって「女の子孫」として来られる贖い主は、まだ約束された存在でした。けれども、私たちにとっては、その方はすでにおいでになって、贖いの御業を成し遂げてくださっています。 約束の贖い主であるイエス・キリストは、無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、今から二千年前に人の性質を取って来てくださって、その生涯の最後に私たちの罪をその身に背負って十字架にかかって死んでくださいました。イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪に対する父なる神さまのさばきをお受けになって、私たちの罪をまったく贖ってくださいました。そればかりでなく、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとしての栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。ピリピ人への手紙2章6節〜11節に、 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 と記されているとおりです。 これらすべては、ご自身のためではなく、私たちのためになされたことです。イエス・キリストが十字架に付けられて死なれたことが私たちの罪を贖ってくださるためであったことはもちろんですが、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことも私たちのためでした。もしイエス・キリストがご自身の栄光を求めておられるのでしたら、イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の主なのですから、わざわざ人の性質を取って来られなくてもよかったのです。 ですから、無限、永遠、不変の栄光の主であられる方が人の性質を取って来てくださったのは、私たちの贖い主となってくださるためでした。私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、栄光ある者とされています。 これを、エペソ人への手紙に記されていることにそって見てみましょう。私たちがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、栄光ある者とされていることは、2章4節〜6節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されています。 これだけを見ますと、ここでは私たちがイエス・キリストとともによみがえって、天の御国に座を持つようになったことが記されているということになります。もちろん、その点はそのとおりです。けれども、4節には「しかし」という接続詞(デ)があって、それがその前の1節〜3節に記されていることと、対比する形でつながっていることを示しています。言うまでもなく、1節〜3節には、5節で「罪過の中に死んでいたこの私たち」と言われている、かつての私たちの姿が記されています。1節〜3節には、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と記されています。 1節、2節で、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 と言われていることに、かつての私たちが霊的な戦いにおいて、サタンの主権の下に捉えられてしまっていたことが示されています。ちなみに、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」は単数です。そして、そのような私たちのことが、4節〜6節において、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と言われているのです。ですから、これは、霊的な戦いの流れの中で「女の子孫」として来てくださった贖い主であられるイエス・キリストを信じる信仰によって、私たちもイエス・キリストの復活の栄光にあずかっているということを示しています。 エペソ人への手紙の流れでは、これはさらに2章1節〜3節に先立つ1章20節〜23節に記されていることにつながっています。実は、新改訳には訳し出されていませんが、2章1節の冒頭には、「そして」という意味の接続詞(カイ)があります。つまり、2章1節から話題が変わっているのではなく、2章1節〜3節で、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と言われているのは、それに先立つ1章20節〜23節に記されていることを受けているのです。 その1章20節〜23節には、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されています。 ここに記されていることについては、すでにお話ししましたが、いろいろなことがかかわっています。ここでは、贖いの御業を成し遂げて栄光をお受けになったイエス・キリストによる万物の回復も示されていますが、今お話ししていることとの関連では、それとは別のことに触れておきたいと思います。20節、21節では、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と言われています。問題は、この「すべての支配、権威、権力、主権」はどのような存在かということです。これは、それに先立って、イエス・キリストのことが、 天上においてご自分の右の座に着かせて、 と言われていることとの関連で理解すべきことです。この、 天上においてご自分の右の座に着かせて、 ということは、旧約聖書の詩篇110篇1節に、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 と記されていることに触れるものです。 このことから、この「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節で約束の贖い主の「敵」(複数)と呼ばれている存在であることが分かります。またこのことから、さらに、1章20節〜23節では、「女の子孫」として来てくださった贖い主であられるイエス・キリストが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、霊的な戦いにおいて勝利されていることが示されているということが分かります。 これらのことを受けて、2章1節以下のことが記されています。改めてその流れを確認しておきましょう。 まず、1節、2節で、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 と言われています。私たちはかつて、霊的な戦いにおいて、サタンの主権の下に閉じこめられていました。その私たちが、4節〜6節で、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と言われているように、イエス・キリストの贖いの御業にあずかって、サタンの暗やみの主権の下から贖い出されて、イエス・キリストの栄光にあずかるものとなっています。 それは、1章20節、21節で、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と言われているイエス・キリストの栄光にあずかることであったのです。 そして、1節21節で栄光のキリストの主権に服していると言われている「すべての支配、権威、権力、主権」こそが、エペソ人への手紙6章12節で、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 と言われているときの「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」のことです。 ですから、私たちは先行きの分からない戦いを戦っているのではありません。私たちは、1章20節、21節に記されている、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 という、霊的な戦いにおいてイエス・キリストに起こっている決定的な事実と、2章4節〜6節に記されている、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 という、すでに私たちに起こっている事実の上に立って、霊的な戦いを戦うように召されています。 この霊的な戦いの勝利は、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と言われていることがそのまま私たちの現実となることによってもたらされます。そして、このことを、実際に、私たちの現実としてくださるように働いてくださる方が御霊なのです。 6章18節で、 どんなときにも御霊によって祈りなさい。 と戒められていますが、それは、また、 そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 と記されているように、私たちがお互いのために執り成し祈り合うことでもあります。私たちは「すべての聖徒」たちが、2章4節〜6節で、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と言われている恵みにあずかるようになることを願って、お互いに祈り合います。 そして、このことには、さらに深い目的があります。それは、2章4節〜6節に続く7節に、 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。 と記されています。すべては栄光のキリストの再臨の日において、神である主の恵みに満ちた栄光が充満な形において現されるようになるためであり、永遠にその恵みに満ちた栄光がほめたたえられるようになるためです。 |
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