説教日:2004年4月4日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:御霊によって祈りなさい(1)


 エペソ人への手紙からのお話が中断してちょうど5年が経ってしまいました。再びエペソ人への手紙に戻ってお話を続けたいと思います。今日取り上げました聖書個所は6章18節〜20節ですが、この個所の全体的な見通しについてはすでに「霊的な戦いと祈り」ということで12回ほどお話ししております。しかし、それも5年前のことですので、お話を続けるために、すでにお話ししたいくつかのことをまとめておきたいと思います。
 新改訳では、18節は独立した戒めとして訳されています。原文のギリシャ語では、18節の中心は、前半の「祈りなさい」と訳されていることばと、後半の「目をさましていて」と訳されていることばですが、どちらも現在分詞で表わされています。つまり、中心の二つの動詞が現在分詞であるので、普通ですと、ここで言われていることは独立していないで、どこかにつながっていると考えられるわけです。これらの現在分詞をそのまま生かして18節を直訳調に訳しますと、

すべての祈りと願いをとおして、あらゆる機会に御霊によって祈りつつ、そしてこの目的のために、すべての聖徒たちのためのあらゆる忍耐と願いにおいて、目を覚ましつつ

というようになります。
 さらに、19節と20節には、新改訳で「祈ってください」と訳されたことばはありません。その部分を直訳調に訳しますと、

そして私のために、私が口を開くときにことばが私に与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように。このことのために、私は鎖につながれた大使となっています。このことにあって、私が語るべきときには大胆に語ることができるように。

というようになります。19節が「そして私のために」ということばで始まっていて、「何々できるように」という言い回しから、パウロが、自分のための祈りを要請していることは分かりますので、「祈ってください」ということばを補っているのです。
 このようなことから、この18節〜20節はひとまとまりのものと見ることができます。そして、その中心は18節前半の「祈りつつ」と18節後半の「目を覚ましつつ」です。そして、それが現在分詞で表わされています。それで、この部分がその前の部分とどのような関係にあるかが問題となります。これについては、色々な見方があります。
 順序に意味があるわけではありませんが、第一に、18節の「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という分詞を命令形の代用と考えて、これが独立した命令であるとする理解があります。これは、18節には新しい命令が記されていると理解するものです。新改訳はこの理解を取っています。
 第二に、18節の「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という分詞が、直前の動詞にかかるとすれば、17節の「受け取りなさい」にかかることになります。そうしますと、「あらゆる機会に御霊によって祈りつつ」また「すべての聖徒たちのためのあらゆる忍耐と願いにおいて、目を覚ましつつ」「救いのかぶと」と「御霊の剣である神のことば」を「受け取りなさい」と戒められているということになります。
 第三に、15節、16節の「腰には真理の帯を締め」、「胸には正義の胸当てを着け」、「足には平和の福音の備えをはき」、「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取り」は、すべて分詞で表わされていて、14節の「立ちなさい」にかかっています。それと同じように、18節の「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という分詞も、14節の「立ちなさい」にかかる、という見方があります。
 この見方では、「神のすべての武具」を取って武装することによって「しっかりと立つ」だけでなく、「あらゆる機会に御霊によって祈」ることによって、また「すべての聖徒たちのためのあらゆる忍耐と願いにおいて、目を覚まし」ていることによって「しっかりと立つ」ようにと戒められているということになります。
 これらのうちのどの見方をとるべきかということですが、おそらく、新改訳のように、18節の「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という分詞を命令形の代用と取って、この部分は独立した戒めであると理解するのがいちばんいいのではないかと思われます。
 というのは、18節の「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という分詞がその前の部分の「受け取りなさい」ということばか、「立ちなさい」ということばにかかるとする第二の理解と第三の理解は、ともに、この祈ることが霊的な武装の一つ、すなわち、七つ目の武具を取ることと理解することになります。(そして、これで七という完全数になると主張されています。)しかし、14節〜17節では、当時のローマの兵士の武装をたとえとして、霊的な戦いのための「神のすべての武具」を身に着けることが語られていますが、18節〜20節の祈りについての教えには、そのような当時の兵士の武装にたとえた描写がありません。それで、18節〜20節に記されている祈りについての教えは、それに先立つ14節〜17節に記されている霊的な戦いのための武装についての戒めと区別されると考えられます。
 同時に、この18節〜20節がまったく独立した命令であることを示すためには、単純に、命令形を用いて表わせばいいのに、わざわざ前の部分とのつながりを思わせる分詞を用いていることには、意味があると考えられます。これによって、この戒めが、その前の部分全体と緩やかにつながっていることを示していると思われます。それで、18節〜20節の祈りについての教えは、それに先立つ霊的な戦いのための武装についての戒めから区別されるために武装のことは語っていないけれども、霊的な戦いについての戒めの一部であると考えられることになります。そうしますと、霊的な戦いのためには、神の子どもたちが「神のすべての武具」を身に着けて霊的に武装するだけでは十分ではなく、それとともに、すべての聖徒たちのために、いつも目を覚ましていて、御霊によって祈り続けなくてはならないと教えられているということになります。


 18節前半で、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

と言われているときの「祈りと願い」については、いろいろな理解の仕方があります。これと同じ「祈りと願い」の組み合わせは、ピリピ人への手紙4章6節にも見られます。そこには、

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

と記されています。
 この「祈り」(プロスューケー)と「願い」(デエースィス)はほぼ同じ意味のことばですが、一般的に「祈り」はより意味が広く、それには感謝や賛美や嘆きのことばなども伴います。これに対して「願い」ということばは、より必要を訴えるという意味合いが強いと考えられます。
 ある人々は、エペソ人への手紙6章18節では「祈りと願い」という二つのことばが一緒になって「あがめること」を表わしていると考えています。その場合には、主をあがめることをとおして、御霊によって祈ることが示されているということになります。しかし、ここでは、ほぼ同じ意味で、少し意味合いが違うことばを連ねることによって、また、それに「すべての」ということばを加えることによって祈りが強調されていると考えられます。このことは後でお話しすることともかかわってきます。霊的な戦いにおいては、賛美や感謝や嘆きなどを伴う祈りや切なる願いをささげる祈りにおける父なる神さまとの交わりが大切な意味をもっています。
 この、

すべての祈りと願いを用いて[直訳・すべての祈りと願いをとおして

ということばに続いて、

どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と言われています。
 最初の、

どんなときにも御霊によって祈りなさい。

の「祈りなさい」ということば(プロスューコマイ)は、先ほどの「祈りと願い」ということばのうちの「祈り」ということば(プロスューケー)の動詞に当たります。そして、それに続く、

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。[直訳・そしてこの目的のために、すべての聖徒たちのためのあらゆる忍耐と願いにおいて、目を覚ましつつ

の「祈りなさい」ということばは動詞ではなく、先ほどの「祈りと願い」ということばのうちの「願い」ということば(デエースィス)と同じことばです。それで、

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

ということばは、

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして願いなさい。

としたら分かりやすくなります。
 このことから、最初に、

すべての祈りと願いを用いて[直訳・すべての祈りと願いをとおして

と言われているときの「祈り」が表わしていることが、それに続く、

どんなときにも御霊によって祈りなさい。

ということばにおいて展開されており、もう一つの「願い」が表わしていることが、その後の、

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして願いなさい。

ということばにおいて展開されていると考えることができます。
 しかし、これに対して、ある人々は、「願い」ということばについて、このように見てはいません。その人々が今お話ししたことを念頭において反対しているわけではありませんが、その人々は、最初の、

すべての祈りと願いを用いて

と言われているときには「願い」という意味で用いられているけれども、後の方で、

すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい[直訳・すべての聖徒たちのためのあらゆる忍耐と願いにおいて

と言われているときには「執り成し」という意味で用いられていると考えています。つまり、同じことば(デエースィス)が二つの別の意味で用いられているというのです。
 通常、同じことばが前後して繰り返されているような場合には、そのことばの意味は同じであると考えるのが原則です。ところが、この18節では、同じことばが二つの異なった意味合いで用いられていると考えられるということから、先ほどありましたように、最初の「祈りと願い」ということばでは、その二つのことばが一緒になって「あがめること」を表わしているという見方が生まれてきます。
 けれども、ここでは、同じことば(デエースィス)が二つの別の意味で用いられていというように考えなくてもいいと思われます。むしろ、そのように考えないことによって、ここでパウロが言おうとしていることが、よりよくくみ取れるのではないかと思われます。
 どういうことかと言いますと、最初に、

すべての祈りと願いを用いて

と言われているときの「願い」ということばは、確かに具体的な必要を覚えて願うという意味合いがあります。そうしますと、私たちはつい、これは自分や自分たちの必要を願うことだと考えてしまうわけです。けれども、ここでパウロが語っているのはそのようなことではなく、その「願い」ということばが表わしている具体的な必要は、自分や自分たちの必要である以上に、「すべての聖徒たち」の必要のことであるのです。そのことが、その「願い」のことを展開して述べている後半の、

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして願いなさい。

ということばによって明らかになっているということです。
 これに先立って、パウロは、

どんなときにも御霊によって祈りなさい。

と言っています。「御霊によって」祈る祈りについてはいろいろなことが考えられますが、今お話ししていることとの関連で言いますと、「御霊によって」祈る祈りにおいては、それほど「すべての聖徒たち」の必要に対する関心が高められ、深められるようになるのです。イエス・キリストの十字架の死とよみがえりにあずかって、古い自分に死んで新しい自分に生きている者の祈りから、自己中心の陰が取り除かれていくということでしょう。
 実際に、この手紙の読者たちはそのような人々でした。1章15節、16節には、

こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。

と記されています。この手紙の読者たちの「すべての聖徒に対する愛」は広く知れ渡っていました。
 18節の、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

という戒めでは、「すべて」とか「あらゆる」という意味のことばが4回用いられています。それは、新改訳の順序で言いますと、まず「すべての祈りと願い」があります。次に「どんなときにも」ですが、これは直訳では「あらゆる機会に」という言い方です。そして「すべての聖徒のために」があります。ちなみにこの「すべて」だけが複数形です。そして、「忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」と言われていますが、これは直訳で「すべての忍耐と願いにおいて」です。これによって、霊的な戦いに参与する神の子どもたちの祈りが、時間的にも空間的にも限りなく広がっていることが示されています。そして、その広がりは、すべての聖徒たちの必要を覚える心遣いによって特徴づけられています。
 このように、18節〜20節はひとかたまりになっていますが、ここで語られている祈りと願いは、自分のための祈りや願いも含まれているでしょうが、その中心には「すべての聖徒のため」の祈りがあります。19節と20節では、パウロは自分をその祈りに覚えてくれるように要請しています。先ほどお話ししましたように、19節と20節は、

そして私のために、私が口を開くときにことばが私に与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように。このことのために、私は鎖につながれた大使となっています。このことにあって、私が語るべきときには大胆に語ることができるように。

というようになっていて、新改訳で「祈ってください」と訳されていることばはありません。このことは、パウロが自分のための祈りをそれとして独立したものと考えているのではなく、18節で、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と戒めている祈りの中で覚えてもらうものであると考えていたことを示していると思われます。
 エペソ人への手紙の読者たちに霊的な戦いを戦うために「神のすべての武具」で霊的に武装することを勧めているパウロは、自分自身が霊的な戦いの最前線にいるわけです。それで、パウロ自身が「神のすべての武具」で霊的に武装しているのですが、やはり、それだけでは十分ではなく、エペソ人への手紙の読者たちの執り成しの祈りが必要であることを切実に感じているのです。しかも、その際に、パウロは自分だけに特別な注意を注いでくれるように要請しているのではなく、「すべての聖徒のため」の祈りの中で、自分のことも覚えてくれるようにと要請しています。
 これは、18節〜20節に記されている祈りに関する戒めが、その前に述べられている霊的な戦いにおいて「神のすべての武具」で霊的に武装することとのかかわりで記されているということを考えますと意味深いこととです。
 先ほども引用しました1章15節、16節で、パウロは、

こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。

と述べています。エペソ人への手紙は回覧された手紙であったようで、エペソにある教会も含めて小アジアにあったいくつかの教会に宛てて書かれたと考えられます。その中で、パウロは、小アジアの諸教会の聖徒たちの「主イエスに対する ・・・・ 信仰と、すべての聖徒に対する愛」のことを耳にして、

あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。

と述べています。
 またローマ人への手紙1章8節〜10節でパウロは、

まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。

と述べています。

何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。

と言われていますように、パウロはこのときまだローマにいる聖徒たちに会ってはいませんでした。それでも、

私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、

とあかししています。
 パウロ自身が「絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために」祈り続けています。そのことによって、主がいかに聖徒たちの祈りに応える形で、ご自身のご計画を実現してくださるかを味わってきていたと考えられます。そして、そのお互いが祈りをもって支え合うことの中に自分も身を置いて支えられているということを信じているのだと考えられます。パウロ自身が「絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために」祈り続けているので、自分も「絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために」祈り続けている人々から祈られていること、そして主がその祈りに応えてくださっていることを信じていたということでしょう。
 これは、目には見えませんが、そして、誰かが提案して管理しているわけではありませんが、祈りのネットワークが相互に網の目のように張り巡らされているという状態として捉えることができます。そのことは、パウロが、エペソ人への手紙の読者である小アジアの諸教会の聖徒たちについて、

私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、

と述べており、ローマにある聖徒たちについて、

それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

と述べていることからうかがわれるすべての聖徒たちへの関心の広がりと連動しています。まさに、「絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし」て祈り続けているその心遣いが、お互いのための情報を駆け巡らせ、見えない祈りのネットワークとなっているのです。ですから、この祈りのネットワークを現実的で確かなものとして感じ取る最上の道は、自分自身が「絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために」祈り続けていくことにあります。
 その祈りのネットワークは、すべて教会のかしらであられる栄光のキリストの御名によって、父なる神さまにささげられる祈りによって成り立っています。その意味で、ただ相互につながっているネットワークではありません。すべての祈りは御子イエス・キリストにあって父なる神さまに向けられており、父なる神さまに至るという点でつながっているのです。
 エペソ人への手紙6章12節には、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と記されています。そのような敵と戦うわけですから、「神のすべての武具」で霊的に武装する必要があるわけです。
 すでにお話ししましたように、「神のすべての武具」のほとんどは防御的なものです。それに対して、攻撃的な武具は17節に記されている「御霊の与える剣である、神のことば」です。17節に記されている戒めを直訳しますと、

救いのかぶとと御霊の剣―― それは神のことばです。―― を受け取りなさい。

となります。新改訳は、この「神のことば」と「御霊」の関係を、御霊が私たちに「神のことば」を与えてくださることにあると考えて、「御霊の与える剣」と訳しています。
 しかし、「」にたとえられている「神のことば」を含めた「神のすべての武具」は、この17節になって初めて出てくる「御霊」が与えてくださるものではなく、霊的な戦いに関する戒めの最初の、

主にあって、その大能の力によって強められなさい。

という戒めに出てくる「」、すなわち、栄光のキリストであると考えられます。そして、この戒めに出てくる「御霊の剣」ということばの「」と「御霊」の関係は、「」に「」としての威力を与えてくださる方が「御霊」であるということにあると考えられます。ここでは、この「」が「神のことば」にたとえられています。ですから、これによって、霊的な戦いにおいて「神のことば」に「神のことば」としての威力を与えてくださる方、「」の切れ味や「」を振るうときの効果を生みだしてくださる方は「御霊」であるということが示されていると考えられます。
 パウロは、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と述べた後に、その祈りが自分のためにも必要であることを示して、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

と続けています。
 まさにパウロは、「御霊の剣」である「神のことば」をもって「福音の奥義を大胆に知らせ」ようとしています。それを効果あるものとしてくださるのは御霊のお働きです。それで、自分が「鎖につながれていても」失望していません。「神のことば」とそれを用いてくださる御霊はつながれてはいません。その御霊のお働きは、パウロを含めて「すべての聖徒」たちがお互いのために、御霊によって祈り合うことの中で現実のものとなっていきます。父なる神さまは、「すべての聖徒」たちがイエス・キリストの御名によってお互いのために祈り合うことの中で「御霊の剣」である「神のことば」を有効に働かせてくださり、福音のみことばのうちに示されたみこころを実現してくださり、霊的な戦いにおける勝利を生み出してくださるのです。

 


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