![]() |
説教日:2005年10月2日 |
聖書の記事とは逆ですが、まず、30節に記されている、 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。 という神さまの御言葉について、いくつかのことに注目しておきたいと思います。 ここで注目すべきことは、「すべての」という言葉(コール)が繰り返されているということです。このことから3つのことを考えることができます。 第一に、「獣」、「鳥」、「はうもの」は単数形で、その一つ一つに「すべての」という言葉がつけられています。これによって、これには例外がないことが示されています。神さまがすべての生き物たちの一つ一つを例外なく省みてくださっていることが示されています。 第二に、「緑の草」も単数形で、これにも「すべての」という言葉(コール)がついています。これによって、神さまがお造りになったすべての「緑の草」が例外なく、生き物たちの食べ物として備えられていることが示されています。これによって神さまが備えてくださっているものの豊かさが示されています。 第3に、「獣」、「鳥」、「はうもの」の一つ一つが例外なく、「緑の草」を食べ物として与えられているというは、最初に造られた状態においては、どのような生き物も、他のいのちあるものを損なうことはなかったということを意味しています。さらに、神さまがお造りになったすべての「緑の草」が例外なく、生き物たちの食べ物として備えられていることも、そこには生き物のいのちを損なうような草、いわゆる毒草がなかったということを意味しています。ですから、最初に造られた状態においては、いかなる意味においても、神さまが祝福してくださっているいのちが損なわれるようなことはなかったわけです。 メシヤの支配を預言的に記しているイザヤ書11章1節〜5節には、 エッサイの根株から新芽が生え、 その根から若枝が出て実を結ぶ。 その上に、主の霊がとどまる。 それは知恵と悟りの霊、 はかりごとと能力の霊、 主を知る知識と主を恐れる霊である。 この方は主を恐れることを喜び、 その目の見るところによってさばかず、 その耳の聞くところによって判決を下さず、 正義をもって寄るべのない者をさばき、 公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、 口のむちで国を打ち、 くちびるの息で悪者を殺す。 正義はその腰の帯となり、 真実はその胴の帯となる。 と記されています。これを受けて続く6節〜9節には、 狼は子羊とともに宿り、 ひょうは子やぎとともに伏し、 子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、 小さい子どもがこれを追っていく。 雌牛と熊とは共に草を食べ、 その子らは共に伏し、 獅子も牛のようにわらを食う。 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、 乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。 わたしの聖なる山のどこにおいても、 これらは害を加えず、そこなわない。 主を知ることが、 海をおおう水のように、地を満たすからである。 と記されています。これは、メシヤのお働きが神さまが創造の御業によって造り出されたこの被造物世界の本来の姿を回復することを預言的に示しています。 29節には、 見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。 という神さまの御言葉が記されています。これは神のかたちに造られた人に対する語りかけです。 この神さまの御言葉についても、注目すべきことがいくつかあります。 第一に、この御言葉においても「すべての」という言葉(コール)が繰り返し出てきます。ここには「草」と「木」が出てきますが、ともに単数形です。この場合にも、神さまがお造りになったあらゆる実を結ぶ草と木が、神のかたちに造られている人の食べ物として与えられていることが示されています。そして、そこには、人のいのちを損なうような毒草や毒のある実はなかったことも示されています。 第二に、少し分かりにくいかもしれませんが、「全地の上にあって」の「全地」という言葉(コール・ハーアーレツ)も「すべての地」で、「すべての」という言葉があります。これも、例外がないことを示していると考えられます。つまり、神さまがお造りになったこの地の最初の状態においては、文字通り「全地」に「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」が生えていて、その一部にでも、不毛の地というべき地域はなかったということです。 第3に、人間の場合には、他の生き物の食べ物と違って、「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」と言われていますように「種」のことが繰り返し出てきます。 これは、神さまが創造の御業において地から植物を芽生えさせてくだったことを記している11節、12節に、 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。 と記されていることと呼応しています。11節は神さまの創造の御言葉とその成就を記しています。そして、12節はそれに対する補足説明を記しています。そのどちらにおいても、「種」のことがていねいに繰り返されています。 この11節、12節に記されていることと29節に記されていることの呼応関係を見ますと、神さまが神のかたちに造られるようになる人間のことをお心に留めてくださって創造の御業を遂行してくださっていることがよく分かります。 それとともに、30節に記されている、 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。 という生き物たちへのご配慮には、「種」のことは触れられていません。このことは、マタイの福音書6章26節に記されている、 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 というイエス・キリストの教えを思い出させてくれます。 創世記1章に戻りますが、このように、29節に記されている、 見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。 という神さまの御言葉においては、他の生き物たちの場合と違って「種」が語られていることが特徴となっています。これは、人間が神のかたちに造られて、28節に記されている、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という祝福による使命を与えられていることと関連していると考えられます。 人は食べ物として「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」を与えられていますので、この「種」を収穫し、それを食べ物としていただくとともに、またその収穫した「種」を蒔くという働きに携わります。そこから農耕文化が生まれてきます。 2章15節には、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。神のかたちに造られた人は、神である主がご臨在される場所として聖別されていた「エデンの園」に住まい、そこを耕していました。それが、神のかたちに造られた人が、歴史と文化を造る使命を果たしている姿です。そして、その働きが「エデンの園」でなされていたということが示していますように、その働きの中心はそこにご臨在される神である主を礼拝することにありました。 ですから、人は、ただ「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」がならせる「種」を食べるということで終るものではありません。何よりも、神さまが創造の御業において自分たちを心にかけてくださって、「種」をならせる植物を備えてくださり、それを食べ物として与えてくださったことを啓示によって知らされています。 そればかりではありません。自分たちが蒔いた「種」が芽を出し、生長して再び「種」をならせるようになるために、神さまはこの地に「種」が育つために必要なものを備えてくださいました。さらに、大気の循環のメカニズムを備えてくださり、地が適度に潤い、適度に乾燥するようにしてくださいました。神のかたちに造られている人間にはこれらのことすべてが啓示されています。 それで、神のかたちに造られている人間は、「種」を蒔き、「種」を収穫する働きが神さまの備えてくださったことであることをわきまえるようになります。このことをわきまえている人は、食べることにおいて神さまとその恵みの備えに思いを向けるようになります。コリント人への手紙第一・10章31節には、 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 と記されています。ここで言われていることは、天地創造の初めから、人の基本的な在り方でした。 逆に、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間は、大地そのものに力があるために「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」が生え出てきて、生長して、「種」をならせていると考えるようになってしまいました。これが「豊饒の祭り」という、堕落後の人類に共通した宗教的な行為を生み出しています。これに対して、主に贖われた民は、そのすべての栄光を神である主に帰するように戒められています。たとえば、申命記14章22節、23節には、 あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。 と記されています。 これまでは創世記1章29節と30節に記されていることを別々に見てきましたが、ここで改めて、29節、30節を全体として見ますと、ここには、 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。 と記されています。 神のかたちに造られている人には、神さまが自分たちに「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」を与えてくださっていることが知らされているだけではありません。神さまが、 地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える ということも知らせてくださっています。 先ほどお話ししましたように、神さまが人にこのことを示してくださる前に、生き物たちはすでに神さまが備えてくださっている食べ物を食べていました。その意味で、ここで神さまが、人に、 地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。 と言われたことは、生き物たちに食べ物を食べることを許可されたことではありません。むしろ、神のかたちに造られている人に、神さまがすべての生き物に食べ物を備えてくださっていることを示してくださったものです。 それでは、どうして人にそれが示されたのかと言いますと、人が神のかたちに造られて、28節に記されている、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を委ねられているからです。神さまは神のかたちに造られている人間に、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を委ねてくださいました。そして、ここでは、そのように神さまから委ねられた生き物たちを、基本的にというか、根本的に支えてくださっているのは神さまご自身であられるということが示されているのです。そのように、神さまがすべての生き物たちを養い、育んでくださっておられるので、人はそれらの生き物たちを治めることができるということです。そして、すでにお話ししましたように、人が自分に委ねられている生き物たちを治めるということは、それらの生き物の一つ一つをよく知り、それを神さまの御手の作品としていつくしみ、一つ一つの生き物が造り主である神さまから与えられた特徴にしたがって豊かないのちに生きるようになるために仕えることを意味していました。そのすべての働きは、神さまがそれらの生き物を根本的に支えてくださっていることにあずかることに他なりません。 同時に、このこととの関連で言いますと、29節で、 見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。 と言われていることは、神のかたちに造られている人が、神さまのみこころに従って、委ねられた使命を果たしていくときに、神さまはそれに必要な能力を備えてくださっているだけでなく、人の生存に必要な食べ物も備えてくださっているということが示されています。これは、マタイの福音書6章31節〜33節に記されている、 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 という、イエス・キリストの教えと響き合っています。 |
![]() |
||