2005年11月6日
すべてのものの完成
創世記1章26節〜31節
創世記1章31節には、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。
と記されています。これは前半に記されている、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
ということと、後半に記されている、
こうして夕があり、朝があった。第六日。
ということに分けられます。
まず、前半の、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
という御言葉について見てみましょう。
神さまはこの時まで創造の御業を遂行してこられた中で、6回ほどお造りになったものを「よし」とご覧になっておられます。それは、4節に記されている光、10節に記されている地と海、12節に記されている、地が植物を生じたこと、18節に記されている、天体が地との関係で役割を果たすようになったこと、21節に記されている、水にうごめくすべての生き物と飛ぶ生き物、そして、25節に記されている動物たちです。ですから、31節前半で、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
と言われていることは、神さまが、ご自身のお造りになったものを「よし」とご覧になったことの7回目に当たります。そして、これがその最後のことです。
これに先立つ6回のうち、最初に神さまがご自身のお造りになったものをご覧になったことを記している4節においては、
神はその光をよしと見られた。
と言われています。ここでは、神さまがご覧になったのは「光」であるということが述べられています。これに続いて、神さまがご覧になったことが、31節の前には5回記されていますが、それらでは、神さまがご覧になったものには触れられていません。ただ、
神は見て、よしとされた。
より直訳調には、
神はよしと見られた。
と言われているだけです。言うまでもなく、神さまがご覧になったのはそれに先だった造り出されたものですから、新改訳は「それを」を補足して、
神は見て、それをよしとされた。(第2版)
神はそれを見て、良しとされた。(第3版)
と訳しています。
この31節前半におきましては、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。
というように、神さまがご覧になったものが「お造りになったすべてのもの」であると述べられています。つまり、創造の御業において、神さまがお造りになったものを最初にご覧になった時と最後にご覧になった時に、そのご覧になったものが何であるかが述べられているわけです。
4節において、神さまが最初にご覧になったものが「光」であったということが、わざわざ述べられていることには意味があると考えられます。それがどのような意味であるかということに関しては、すでに4節を取り上げたとき(「天地創造」のお話の8回目)にお話ししていますので、繰り返すことはいたしません。同じように、31節で、神さまが最後に「お造りになったすべてのもの」をご覧になったと記されていることにも意味があると考えられます。
*
このことを考えるために、いくつかのことに注目したいと思います。
第一に、すでにお話ししましたように、創造の御業の中で、これに先立って神さまがご覧になったものは、4節に記されている光、10節に記されている地と海、12節に記されている、地が植物を生じたこと、18節に記されている、天体が地との関係で役割を果たすようになったこと、21節に記されている、水にうごめくすべての生き物と飛ぶ生き物、そして、25節に記されている動物たちです。これらは、神さまが創造の御業のそれぞれの段階において造り出されたものをご覧になって、それをよしとされたということを意味しています。
これに対しまして、31節において、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。
と言われているのは少し違っています。この場合は、創造の御業が進められていく中のある段階で造り出されたものをご覧になったのではありません。創造の御業が終ってすべてが完成したことを受けて、「お造りになったすべてのものをご覧になった」ということです。その意味で、これは、これまで神さまが創造の御業の中でご自身がお造りになったものをご覧になってこられたことの頂点に当たります。そのことと一致して、これは、神さまがご自身のお造りになったものをご覧になったことの7回目に当たります。言うまでもなく、「7」は完全数です。
第二に、31節においては、神さまが「お造りになったすべてのものをご覧になった」ことを受けて、
見よ。それは非常によかった。
と言われています。これは、これまで繰り返されてきた、
神はよしと見られた。
という言い方とは違っています。この、
神はよしと見られた。
ということは全体が一つの文で表されています。つまり、神さまがご覧になったこととと、よしとされたことが一つの文で表されているのです。その点は、4節で、
神はその光をよしと見られた。
と言われていることも同じで、一つの文で表されています。
けれども、31節では、
見よ。それは非常によかった。
ということは、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。
ということとは別の文で表されています。
さらに、この、
見よ。それは非常によかった。
ということでは、「見よ」という間投詞と、「非常に」という強調の言葉が加えられています。しかも、ここで、
見よ。それは非常によかった。
と言われているのは人間の目から見た評価ではありません。これは、すべてのものをお造りになって、これをご覧になった神さまご自身の評価です。これによって、神さまがご自身の「お造りになったすべてのものをご覧になった」ときの感動が鮮明に表されています。
すでにお話ししましたが、創造の御業の中で神さまがご自身のお造りになったものを改めてご覧になったことは、そこに何らかの見落としや手違いがあるかもしれないということから、点検をするためのことではありません。神さまのお働きには、そのような見落としや手違いの可能性はまったくありません。神さまがお造りなったものをご覧になったのは、神さまが生きておられる無限、永遠、不変の人格であられることによっています。神さまはご自身がお造りになったものに深くお心を注いでくださっています。そのことが、創造の御業の中でも、特に、ご自身がお造りになったもの、初めてそこに存在するようになったものを、しばし創造の御業の御手を休めるようにして、ご覧になってくださったことに現れていると考えられます。
そして、それを「よし」とご覧になったのは、見落としや手違いがないので「合格」という意味ではありません。言うまでもなく、お造りになったものが、みこころにかなったものであり、美しくよいものであったというからこそ、神さまはそれを「よし」とご覧になったのです。この点は、しっかりと踏まえておかなくてはなりません。けれども、このことには、それ以上の意味があると考えられます。それは、それをご覧になった神さまのうちに喜びがあったということです。神さまが、ご自身のお造りになったものの存在をお喜びになっておられるということです。
このようなことが、創造の御業のそれぞれの段階の中で、神さまがお造りになったものをご覧になったときに起こっていたと考えられます。それは、創造の御業の中で積み上げられるように繰り返されてきました。そして、その最後に当たる7回目のこととして、31節では、
見よ。それは非常によかった。
と言われていて、神さまのうちにある感動と深いお喜びが示されています。
第三に、人が物を作る時、個々の部分や部品はよくできていても、全体の調和が取れていないというようなことがあります。けれども、ここで神さまが「お造りになったすべてのものをご覧になった」ことを頂点として、7回ご自身がお造りになったものをご覧になってこられたことは、神さまがお造りになったそれぞれのものが、神さまの御目から見てもよかったというだけでなく、そのすべてを全体として見たときにも、まったき調和の中にあって、神さまのみこころにかなっていたことを意味しています。
機械の部品でも、その部品としてよくできているという一面がありますが、それがその本領を発揮するのは、機械が組み立てられるときに、全体の中に組み込まれて一つの機械としての働きを始めるときです。また、合唱のことを考えてみましても、ソプラノ、アルト、テノール、バスがそれぞれのパートを美しく歌うということ自体が大切なことです。けれども、それが合唱として全体としてのハーモニーを生み出すときには、それぞれのパートの寄せ集めということを越えた美しさを表すようになります。神さまが「お造りになったすべてのもの」がまったき調和のうちに完成したことにおいても、このようなことが考えられます。神さまがお造りになった一つ一つのものがよかったのですが、神さまが「お造りになったすべてのもの」の全体としての調和の中にある大きな目的との関連で、その一つ一つの存在の意味がよりはっきりとしたもの、より豊かなものとなったということが考えられます。
この神さまが「お造りになったすべてのもの」の全体としての調和の中にある大きな目的とは、これまでお話ししてきたことから分かりますように、この世界が何よりもまず神さまご自身がご臨在される世界であり、造り主である神さまのご栄光を映し出す世界であるということにあります。そして、この造り主である神さまのご臨在される世界が、イザヤ書45章18節に、
天を創造した方、すなわち神、
地を形造り、これを仕上げた方、
すなわちこれを堅く立てられた方、
これを形のないものに創造せず、
人の住みかに、これを形造られた方
と記されていますように、「人の住みか」として造られているということにあります。
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
という御言葉は、神さまがお造りになったすべてのものが、このような大きな目的にふさわしいものであったことを示しています。
*
31節に、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
と記されていることには、これらのことが含まれていると考えられます。このことを踏まえたうえで、一つの問題を考えたいと思います。
繰り返しお話ししていますように、神さまはこれまで、創造の御業のそれぞれの段階において、しばし御手を休めるようにして、お造りになったものをご覧になりました。それは、4節に記されている光、10節に記されている地と海、12節に記されている、地が植物を生じたこと、18節に記されている、天体が地との関係で役割を果たすようになったこと、21節に記されている、水にうごめくすべての生き物と飛ぶ生き物、そして、25節に記されている動物たちです。これらのことが積み上げられるように繰り返されてきて、最後の7回目のこととして、31節で、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
と言われています。
そうしますと、神さまの創造の御業の頂点としての意味をもつものとして、神のかたちに造られた人間の場合には、神さまがこれを「よし」とご覧になられたということが記されていないことになります。同じ創造の御業の第6日に造られた動物たちについては、25節で、
神は見て、それをよしとされた。
と記されています。しかし、神のかたちに造られた人間については、神さまが「よし」とご覧になったという記述がないのです。
このことをどのように考えたらいいのでしょうか。
言うまでもないことですが、このことから、神さまが神のかたちに造られた人の存在に御目を留められなかったと言うことはできません。そのことは、26節に記されている、
われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。
という神さまの創造の御言葉に示されていますように、人が神さまの熟慮による決断によって神のかたちに造られたことを考え合わせれば、すぐに分かることです。
このように、これまで神さまは、4節に記されている光、10節に記されている地と海、12節に記されている、地が植物を生じたこと、18節に記されている、天体が地との関係で役割を果たすようになったこと、21節に記されている、水にうごめくすべての生き物と飛ぶ生き物、そして、25節に記されている動物たちを「よし」とご覧になってきました。そのことからしますと、27節で、
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
と記されている後に、「光」の場合と同じように、
神は人を、よしとご覧になった。
と記されるか、30節で、神のかたちに造られた人への語りかけが終った段階で、
神は見て、それをよしとされた。
と記されてもいいのではないかという気がします。けれども実際には、そのようになっていません。
その一方で、神さまが神のかたちに造られた人に御目を留め、お心を注いでくださっていることは確かなことです。
これらのことから、逆に、神のかたちに造られた人は、それまで神さまがご覧になったものとして、4節に記されている光から始まって、25節に記されている動物たちに至る六つのものの延長線上にあるものではないこと、それらのものと同列に置かれているものではないことが感じ取れます。
確かに、人は神のかたちに造られて、28節に記されている、
生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。
という歴史と文化を造る使命を委ねられているものとして、神さまを代表し、神さまを表しています。これを被造物の側から見れば、神のかたちに造られた人が造られたすべてのものを代表して、造り主である神さまの御前に立っています。神のかたちに造られている人間は造られたすべてのものとそれををお造りになった神さまとの接点となっているということです。
このような意味をもっている人間は、その存在の物理的な大きさという点からは、神さまがお造りになった世界の一部でしかありません。しかし、造り主である神さまの御前における存在の意味という点からは、神のかたちとして造り主である神さまを代表し、神さまを表す存在でありつつ、神さまがお造りになったすべてのものを代表して、神さまの御前に立つ存在であるのです。ですから、このような意味をもっている人が創造されて初めて、神さまがこの造られた世界を全体としてご覧になり、評価なさる段階に達したということができるわけです。
このことを念頭に置きますと、31節で、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
と言われていることは、人が神のかたちに造られて、これに歴史と文化を造る使命が委ねられたことと深く結びついていると考えることができます。
先ほど、神さまがお造りになったこの世界の一つ一つのものがよいものであり美しいものであると同時に、神さまがお造りになったすべてのものが全体としての調和のうちにあって、一つ一つのもののよさと美しさを越えたよさと美しさを生み出しているということをお話ししました。けれども、これは、神のかたちに造られて、神さまを代表し、神さまを表している人間がこの世界に置かれて初めて、この世界は真の意味で、神さまの御前に全体としての調和をもつものとなっているという意味になります。造られたすべてのものをオーケストラにたとえるとしますと、神のかたちに造られている人間は指揮者に当たります。
また、31節で、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
と言われているとき、神のかたちに造られている人間は、広大な宇宙の中に埋もれてしまっているのではありません。ここで、造られたすべてのものをご覧になっているのは人ではありません。もし見ているのが人であったなら、人間は宇宙の壮大さの中に埋もれて見えないことでしょう。けれども、存在と知恵において無限、永遠、不変の神さまには、そのような被造物の限界はありません。ですから、31節で、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
と言われているとき、神のかたちに造られている人間の存在と使命は、その中心にあったと考えられます。
*
このように、人が神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられたことによって初めて、この造られた世界のすべてのものが、全体として、造り主である神さまの御目に、
見よ。それは非常によかった。
とされる状態になりました。このことは、造り主である神さまの御前にあるこの世界における人間の存在の意味の重大さを示しています。
このことから、後に、その人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった時に、それが、ただ単にこの世界の一部が、神さまがご覧になって、
見よ。それは非常によかった。
とされた状態から落ちてしまったということではないということを理解することができます。ローマ人への手紙8章19節〜22節に、
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
と記されていますように、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落したことによって、この世界全体が人間との一体性において虚無に服することになってしまったのです。
先ほどお話ししましたように、創世記1章31節に、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
と記されていることは、造られたすべてのもののよさと美しさを示しているだけでなく、これをお造りになった神さまの深い感動とお喜びをも示しています。そのことを考えますと、先ほどのローマ人への手紙8章19節〜22節にあかしされている全被造物のうめきは、被造物だけのものではありません。それは天地創造の御業の完成とともに、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
と記されている神さまのお喜びが損なわれて、悲しみと痛みに変わっていることを映し出しています。
*
創世記1章31節の最後には、
こうして夕があり、朝があった。第六日。
と記されています。
これまでお話ししてきましたように、この「第六日」においては、その一つ一つにおいても、全体としての調和においても、これをお造りになった神さまご自身がご覧になって、
見よ。それは非常によかった。
とされる世界が完成しました。そして、その中心に神のかたちに造られている人間が置かれています。その、
見よ。それは非常によかった。
という御言葉によってあかしされている、造り主である神さまご自身の感動とお喜びをもって、「第六日」の御業は終ります。そのような意味をもっている「第六日」ですが、これは創造の御業の記事の中で初めて、冠詞(ヘブル語の冠詞はすべて定冠詞です)をつけて「第六日」と言われています。確かに、この「第六日」は、造り主である神さまにとっても特別な日であったと考えられます。
これと同じように冠詞がつけられているのは、2章1節〜3節に記されている創造の御業の「第七日」です。2章1節〜3節には「第七日」という言葉が3回出てきますが、すべて冠詞がついています。この「第七日」も、神さまにとって特別な意味をもっている日です。