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説教日:2005年9月4日 |
神さまがお造りになったこの世界には物質的な側面があります。けれども、この世界をお造りになった神さまは、この世界の一部ではありませんから、神さまには物質的な側面はありません。これに対して、人間は肉体と霊魂からなる神のかたちとして、物質的な側面をもっています。その意味で、人間は神さまがお造りになったこの物質的な側面をもっている世界に属するものです。 先月もお話ししましたように、神のかたちに造られている人間が、どのように造られたのかという観点から記されている2章の7節には、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と記されています。先月お話ししましたので、詳しい説明は省きますが、ここでは神のかたちに造られている人(アダム)と、人がそこで生きる「土地」(アダーマー)の結びつきが語呂合わせによって示されています。 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。 という使命を委ねられている人間は、その「地」との一体のうちに置かれています。また、2章19節には、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 と記されています。ここで人はそれらの生き物たちに名をつけていますが、それは、古代オリエントの文化圏の発想においては、権威を発揮することを意味しています。その意味で、これは、神さまが、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 と命じられた使命を遂行することの現れです。そのようなことを記している中で、この「地」の上に生息するすべての生き物たちが「土」(アダーマー)から造られたことが示されています。これは、先ほど引用しました7節の、 その後、神である主は、土地[アダーマー]のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 という御言葉と呼応して、神のかたちに造られている人間とこれらの生き物の結びつきの深さを示しています。 このように、人間は造り主である神さまのみこころに従って治めるべき「地」と支配すべきすべての生き物たちと深く結び合っています。 その一方で、人間は神のかたちに造られているという点で、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとして造られています。人間のうちには「神への思い」が植え付けられており、人間は外から教えられなくても造り主である神さまを求め、神さまとの愛の交わりに生きるものです。それが、神のかたちに造られている人間の本来の姿です。ですから、神のかたちに造られている人間は、造り主である神さまと神さまによって造られたこの世界のすべてのものの間に立つものという意味での「仲保者」としての役割を負っています。 神さまはこの世界をご自身の栄光を現すものとしてお造りになりました。神さまの栄光は神さまがお造りになったこの世界の一つ一つものをとおして、また、その全体的な調和をとおして現されています。神さまがお造りになったものは実に多様なものですが、その一つ一つがそれぞれの特性を現すことのうちに、造り主としての神さまの栄光が現されるようになります。すでにお話ししてきましたように、造り主である神さまから、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を委ねられた人間は、自分が従える「地」や支配する生き物たちと深く結び合っているものとして、それらの特性を観察し、それが生かされるように、それらに仕えていくものです。そのようにして仕えることこそが、神さまがお委ねしてくださった権威の特質であり、使命の特質です。 その際に、神のかたちに造られている人間は、ただに、自分に委ねられている一つ一つのものを見ているだけではありません。それ以上に、この世界が神さまによって造られた世界であり、この世界をとおして、神さまの恵みとまことに満ちた栄光が現されているということをくみ取って、自覚的に神さまを礼拝し、その栄光を讚える立場にあります。この世界とその中のすべてのものが、神さまの御手の作品としてどんなに素晴らしいものであっても、そして、そのすべてが神さまの栄光を現しているとしても、この世界とその中にあるものは人格的な存在ではありませんから、神さまを知りませんし、自らの意志によって神さまを礼拝し、自らの意志によって神さまの栄光を讚えることはありません。 確かに、詩篇19篇1節〜4節には、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、 夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、 その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、 そのことばは、地の果てまで届いた。 と記されています。しかし、これも、それを受け止める神のかたちに造られている人間がいなければ空しいことになってしまいます。というのは、ここに記されていることは、神のかたちに造られている人間に対する啓示としての意味をもっているからです。ここに記されていることは、神さまに何かを伝えることではなく、神さまが神のかたちに造られている人間にご自身を啓示してくださることです。そうであるからこそ、ローマ人への手紙1章18節〜20節には、 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 と記されているのです。この世界のすべてのものが神さまの御手の作品として、神のかたちに造られている人間に対して、造り主である神さまをあかししています。それは、神さまが神のかたちに造られている人間に対してご自身を啓示してくださっているということに他なりません。それで、これらの啓示に触れているのに造り主である神さまを神として礼拝し、その栄光を讚えない人間の罪が糾弾されているのです。逆に言いますと、先ほどの詩篇19篇1節〜4節に記されている、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、 夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、 その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、 そのことばは、地の果てまで届いた。 ということは、神のかたちに造られている人間がこのような啓示としての意味をもっている「声」を聞き取って、それによってあかしされている造り主である神さまを礼拝し、その栄光を讚えることによって、その意味がまっとうされるということになります。 いずれにしましても、自らの意志に基づいて、自覚的に神さまを礼拝し、神さまの栄光を讚えることは、神のかたちに造られて、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を委ねられている人間がなすべきことです。そして、神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった歴史と文化を造る使命を遂行することは、最後には神さまを礼拝し、神さまの栄光を讚えることに至るものです。ですから、神さまを礼拝し、神さまの栄光を讚えることを欠いては、歴史と文化を造る使命を果たしたということにはなりません。 このように、神のかたちに造られている人間に委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことは、自らが、従わせるべき「地」と支配すべきすべての生き物と一つに結ばれていることを自覚することから始まります。そして、自分に委ねられている「地」とすべての生き物をとおして現されている造り主である神さまの栄光を見出し、それをもって、神さまを礼拝することと、神さまの恵みとまことに満ちた栄光を讃美することに至ります。その意味で、神のかたちに造られている人間がささげる礼拝は全被造物にかかわっており、全被造物の礼拝の中心に位置しています。 詩篇148篇1節〜8節には、 ハレルヤ。 天において主をほめたたえよ。 いと高き所で主をほめたたえよ。 主をほめたたえよ。すべての御使いよ。 主をほめたたえよ。主の万軍よ。 主をほめたたえよ。日よ。月よ。 主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。 主をほめたたえよ。天の天よ。 天の上にある水よ。 彼らに主の名をほめたたえさせよ。 主が命じて、彼らが造られた。 主は彼らを、世々限りなく立てられた。 主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。 地において主をほめたたえよ。 海の巨獣よ。すべての淵よ。 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。 みことばを行なうあらしよ。 山々よ。すべての丘よ。 実のなる木よ。すべての杉よ。 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。 翼のある鳥よ。 と記されています。 ここでは、神さまによって造られたすべてのものによる礼拝、天と地におよぶ礼拝が見て取れます。ここで、造られたすべてのものに向かって、造り主である神さまを礼拝するようにと呼びかけているのは、自らの意志をもって自覚的に礼拝している主の民です。これまでお話ししてきたことから分かりますが、これは、神さまが委ねてくださった、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という歴史と文化を造る使命を果たすことの核心にあることです。 造り主である神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった歴史と文化を造る使命を考えるうえで、もう一つ大切なことがあります。それは、この使命が歴史的な使命、歴史を造る使命であるということです。すでにお話ししたことですが、この使命が歴史を造る使命であるということは、この使命自体が、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 というように、子々孫々と受け継がれていくべき使命であることに表れています。それと同時に、神さまが治めるようにと委ねてくださったこの世界が歴史的な世界、時間とともに進展する世界であることによっています。 知恵と力において無限、永遠、不変の神さま、すなわち全知全能の神さまは、一瞬にして完成したこの世界をお造りになることができます。けれども、神さまは創造の御業の六つの日にわたって御業を遂行されました。しかも、より初期の基本的なものから始まって、その上にさらに積み上げる形で御業を進めていかれました。神さまが最初に造り出されたこの世界の状態を記している創世記1章2節には、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と記されています。そして、創造の御業の完成を記している31節には、神さまがお造りになったこの世界のことが、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されています。この世界は神さまの御手の作品として、最後には、いっさいのものを見通しておられる神さまがご覧になっても、 見よ。それは非常によかった。 と言われている世界として造られたのです。 このことは、神さまの天地創造の御業自体が歴史的な特質をもっていることを意味しています。そして、そのようにして造り出されたこの世界は、歴史的な世界であるのです。 この世界が歴史的な世界であるということは、ただ単に、この世界が時間とともに変化していく世界であるということを意味しているだけではありません。それは、「この世界には目的がある」ということを意味しています。その目的は、これまでお話ししてきたとおり、造り主である神さまを礼拝し、その恵みとまことに満ちた栄光を讚えることにあります。その意味で、この世界は造り主である神さまとの関係で目的をもっている世界です。さらに、言うまでもないことですが、その目的は、この世界をお造りになった神さまが与えてくださったものです。その意味でも、この世界は造り主である神さまとの関係で目的をもっています。 そのように、造り主である神さまが与えてくださったこの世界の目的は、造られたこの世界の中にあるものではありません。この世界の中にあるもの、すなわち、造られたものは永遠のものではなく、時の流れとともに過ぎ去ってしまいます。そのようなものを目的としていますと、たとえ、その目的が達せられたとしても、その目的そのものが過ぎ去るべきものですので、そのために生きたことが空しいことになってしまいます。私たちはバビロンやローマなどの古代の王国や帝国の栄華を耳にしています。権力者たちがその頂点に上り詰めようとして戦い、ある者たちはそれを実現しました。その「成功者」たちが目指したものは今はありません。彼らはそのようなもののために地上での生涯を使い果たしました。これが、造られたこの世界にあるものを目的とすることの実態です。いつまでも続くものの中心は、造り主である神さまを礼拝し、その恵みとまことに満ちた栄光を讚えることにあります。 この世界が造り主である神さまとの関係で目的をもっていることは、神さまが生きておられる方で、明確なご意志をもっておられ、そのみこころにしたがってこの世界をお造りになったことから十分に推測できます。 実際に、神さまは創造の御業の過程の中で、繰り返し、ご自身がお造りになったものをご覧になって、それを「よし」とされました。そして、1章31節では、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われています。 このように、この世界が、神さまのみこころにしたがって造られたのであれば、この世界は、決して、無意味な世界ではありえません。成り行き次第でどのようにでも転がっていくというような、世界ではありません。この世界は確かな目的をもっている世界として造られました。 この世界が、造り主である神さまとの関係において目的をもっている歴史的な世界であることは、創造の御業の第六日のこととして、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されているこの世界が、さらに、創造の第七日の祝福と聖別のもとに置かれたことによって示されています。2章1節〜3節では、 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 と言われています。 造り主である神さまによって、このように祝福されて聖別されている天地創造の第七日が、この世界の歴史となっていて、今日までも続いています。そして、終わりの日に完成します。この天地創造の第七日は神さまの安息の日ですが、神である主の律法では、安息の日において神さまを礼拝し、その栄光を讚えることが定められています。このことも、この世界の歴史の目的が、神さまを礼拝し、神さまの栄光を讚えることにあることを示しています。 けれども、造り主である神さまを礼拝し、神さまの愛と恵みとまことに満ちた栄光を讚えることは、この世界の歴史の目的である以前に、この世界の存在そのものの目的です。また、すでにお話ししましたように、この世界におけるすべてのものの礼拝の中心に、神のかたちに造られて、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という歴史と文化を造る使命を委ねられている人間があります。この使命は神さまを礼拝し、恵みとまことに満ちた神さまの栄光を讚えることをもってまっとうされます。それは、やがて歴史の終わりになって達成されることではなく、すでに、最初の人が神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた時から、真実な礼拝がささげられていたと考えられますから、歴史の初めから、それとしてまっとうされていたことです。。 このような特徴をもっている歴史と文化を造る使命が歴史的であるということはどういうことでしょうか。結論的に言いますと、それは、造り主である神さまへの礼拝がより栄光に満ちたものとなるということ、神さまの栄光をより豊かに現すものとなるということを意味しています。 どういうことかと言いますと、神のかたちに造られている人間が、神さまの恵みによって、神さまの栄光により豊かにあずかることによって、神さまの栄光をより豊かに現すようになります。また、神さまの栄光により豊かにあずかることによって、人間は神さまのご臨在にさらに近づいて、豊かな栄光にある礼拝をささげるようになります。その意味で、人間が神さまの恵みにあずかって栄光あるものに造り変えられることは、歴史と文化を造る使命を果たすことと深くつながっています。 実際、神のかたちに造られている人間は、神である主が与えてくださった最初の契約、一般に「業の契約」と呼ばれる「創造の契約」の中で、最後まで主に従いとおすことによって、その従順への報いとして栄光を受けるべきものでした。そして、その従順は歴史と文化を造る使命を遂行することの中での従順でした。 実際には、最初の人アダムは「善悪の知識の木」をめぐってサタンの試みにあい、罪を犯して堕落してしまいましたので、何となく、「善悪の知識の木」から取って食べないことが従順であるというように考えがちです。確かに、「善悪の知識の木」に関する戒めは神である主のすべての戒めの核心にあるものです。(このことにつきましては、「善悪の知識の木」に関する戒めのことを記している2章16節、17節を取り上げる段になりましたらお話しします。)けれども、「善悪の知識の木」から取って食べないという、あることを「しないこと」が、主に従順であることのすべてではありません。人は歴史と文化を造る使命を遂行する中で、神さまを礼拝し、神さまの恵みとまことに満ちた栄光を讚えることに徹することにおいて従順であることができました。そして、その従順に対する報いとして、より豊かな栄光にあずかることが約束されていました。これによって、人はさらに豊かな礼拝をささげるものとなることできました。このことを、自分たちと、この世界に実現することが、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人間が歴史を造るということの中心にあります。 実際には、人類は最初の人アダムにあって罪を犯し、神である主の御前に堕落してしまいました。しかし、それで、神のかたちに造られている人間に委ねられた歴史と文化を造る使命は、空しくなってしまったのではありません。この使命は、人の性質を取って来てくださって、十字架の死に至るまで神さまに従われた御子イエス・キリストによってまっとうされました。イエス・キリストはその十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして、栄光あるいのち、復活のいのちを獲得してくださいました。そして、父なる神さまの右の座に着座されて、この世界のすべてのものを治めてくださり、終わりの日の完成に向けて導いてくださっています。これは、まさに、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という神のかたちに造られている人間に委ねられた歴史と文化を造る使命をまっとうすること、本来の意味での歴史を造ることの核心にあることです。そのことの中で、私たちも、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生かしていただいています。私たちはこのイエス・キリストの恵みにあずかって、神さまを礼拝し、神さまの恵みとまことに満ちた栄光を讚えています。 |
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