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説教日:2005年8月7日(夕拝) |
28節に記されている神さまの祝福の御言葉は、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 という命令から始まっています。それは、これに先立つ27節で、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と言われていることを受けています。これによって、人が生まれて、増え広がって、地を満たしていくことは、ともに神のかたちに創造されている最初の「男と女」の結びつきから始まっていることが示されています。 このように、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という造り主である神さまの祝福の御言葉は神のかたちに造られている人間に語られています。神のかたちにつきましては、すでにお話ししましたように、人間の霊魂が神のかたちに造られているということではなく、肉体と霊魂からなる人格的な存在である人間が神のかたちに造られています。神のかたちに造られている人間の本質は自由な意志をもっている人格的な存在であることにあります。そして、その人格的な特性の中心は愛にあります。それで、神のかたちに造られている人間の自由な意志は愛によって導かれて働きます。 ヨハネの手紙第一・4章16節で、 神は愛です。 と言われていますように、神さまの本質的な特性は愛です。神のかたちに造られている人間は、この神さまの本質的な特性である愛を、神さまがお造りになったこの世界において表し、あかしするものであるのです。 そのことは何よりもまず、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることに現れてきます。実際に、天地創造の初めに神のかたちに造られた人は、エデンの園を聖別してくださり、そこにご臨在してくださった神である主を礼拝することを中心として、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。 さらに、神のかたちに造られている人間が、神さまの本質的な特性である愛を、神さまがお造りになったこの世界において表しあかしすることは、同じく神のかたちに造られている「男と女」の愛における交わりから始まって、子どもたちが生まれることによって親子の愛と兄弟姉妹の愛が生じ、さらに人が増え広がることによって共同体における愛が生じるという形で愛が広がっていく中に現れてきます。すでにお話ししましたように、このことは、28節に記されている神さまの命令の前半において、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。 という命令と深く関わっています。 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。 という神さまの命令が実現することは、ただ人口が増え広がるということで終るものではありません。それは、神のかたちに造られている人間の、造り主である神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者が増え広がることであり、神さまを礼拝し、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者同士の愛の交わりが拡大することを意味しています。 造り主である神さまが与えてくださった、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という命令は、そのような愛の交わりを拡大させていくことの延長線上にあります。つまり、神のかたちに造られている人間の愛を神さまがお造りになった生き物たちにも注いでいくことによって、この命令が果たされていくのです。 造り主である神さまは、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という命令によって、神のかたちに造られている人間に、神さまがお造りになったこの世界とその中にある生き物たちを治める権威を与えられました。それはまた、神さまが、神のかたちに造られている人間をこの世界とその中にある生き物たちと結び合わされたということでもあります。このような使命を委ねられた人間には、それを果たすのに必要な能力も与えられています。人は自分に委ねられたものを治めることにおいて、自分に与えられている能力を用いることはもちろんですが、そのすべてにおいて、神である主を礼拝し、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きている者として、神さまの愛といつくしみを映し出し、あかしするものでした。言い換えますと、人がこの世界とその中に生きる生き物たちを治めることは、それらを愛といつくしみをもって育み育てること、そのために自分に与えられている能力を用いるということを意味しています。そして、これが、神のかたちに造られている人間に委ねられた使命を遂行することの本来の姿です。 この造り主である神さまの祝福の御言葉に示されている命令は一般に「文化命令」と呼ばれますが、これは、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 というように、子々孫々受け継がれていくべき使命であることを示しています。それで、これは文化を造ることを命じているだけでなく、それを受け継いでいくという時間的な面がある使命でもあります。その意味で、これは「歴史と文化を造る使命」と呼ぶことができます。それをどのように呼ぶとしましても、この神さまの祝福の御言葉によって示されている使命に従って造られる文化も歴史も、造り主である神さまを礼拝することを中心とした神さまとの愛の交わりと、神さまを中心としたお互いの交わりを特質としたものです。そして、その愛を自分たちに委ねられた生き物たちにも注いでいくことによって、さらに豊かな文化が形成され、歴史が築かれていくわけです。 さて、造り主である神さまから、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という祝福の御言葉を語りかけられた最初の人が、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落するようになる前に、どのように、この御言葉に示されている使命を果たしていたかを見てみましょう。 前半の、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。 という戒めについてはすでにお話ししました。それを簡単に補足しつつまとめておきましょう。創世記2章7節には、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と記されています。ここでは、神である主は人を「土地のちり」から形造られたと言われていますが、この「ちり」(アーファール)は地面の表面のチリや、臼などで挽いた細かい粉などを表わします。「土地のちり」の「土地」という言葉(アダーマー)は「人」という言葉(アーダーム)との語呂合わせになっていて、「人」と「土地」が深い関係にあることを示しています。 そして2章15節には、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。 地を従えよ。 と命じられた人が実際になしていたことは、その「地」を耕すことでした。この「耕す」という言葉(アーバド)は、誰かのために働くことも表す言葉で、その名詞形(エベド)は「しもべ」を意味します。このように、神のかたちに造られた人は「土地」と深い関係にあり、その「土地」に仕えるかのように「土地」を耕していたのです。 造り主である神さまの祝福の言葉の後半の、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という戒めについて見てみますと、2章19節に、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 と記されています。 ここで、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき と言われているときの「土」は、人が「土地のちり」から形造られたというときの「土地」と同じ言葉(アダーマー)で表わされています。ですから、ここでは「土地のちり」から形造られた人と、「土地」から形造られた「あらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥」とのつながりが示されています。人は、このように、「あらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥」と結ばれている者として、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を授けられているのです。 そして、人が造り主である神さまから委ねられた使命を果たしていることの最初の現われが、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 ということにありました。古代オリエントの文化の発想では、名をつけることは、権威を行使することを意味しています。また、その文化の発想では、名は、その名をつけられたものの本質的な特徴を表わすものです。ですから、ここで人は、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を授けられている者として、その権威を行使しています。そして、神さまがお造りになったそれぞれの生き物をしっかりと観察して、その本質的な特徴を見て取って、それを表す名をつけています。 これは、これに先立つ18節において、 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 と記されていることを受けており、20節に、 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。 と記されていることにつながっていきます。 このことから、神のかたちに造られている人が「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた」ことは、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を委ねられている者としての権威を行使し、与えられた能力を傾けて「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」を深く知るようになったということを意味していることが分かります。しかも、それは「ふさわしい助け手」の存在を求めてのことでしたから、それらの生きものたちと親しい関係が確立されたことを意味しています。 20節で、 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。 と言われていることは、「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた」ことによって、「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」とどんなに親しい関係を生み出したとしても、そこに「ふさわしい助け手」はいなかったということを伝えています。また、親しくなった「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」がどんなに多くても、一人の「ふさわしい助け手」に代わることはできなかったということを伝えています。 人が「ふさわしい助け手」に出会った時のことを記している、23節には、人は「ふさわしい助け手」と出会って、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。 と言ったと記されています。 これは、やはり、人が「ふさわしい助け手」に名をつけたこと記すものです。その意味でこれは、人がその権威を発揮していることを意味しています。さらに、それはその「ふさわしい助け手」の本質的な特徴を言い表しています。同時に、これは「愛の歌」でもあります。 先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られている人間の本質は自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。その人格の特性の中心は愛です。人はその愛をもって「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」に接しましたが、その愛をすべて受け止めて応える存在はありませんでした。人は「ふさわしい助け手」に出会って初めて、自分の愛を受け止めて応えてくれる存在を見出したのです。 この出会いから二人は結び合い、家庭を築きました。そして、ここから、子どもたちが生まれて親子関係が生じ、さらに子どもたちが増え広がってさまざまな社会関係が生まれてくるようになります。このようにして、最初の人とその妻の出会いにおいて現された愛が広がっていくのです。ただ実際には、最初の人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、その愛が罪の自己中心性によって腐敗してしまいました。 いずれにしましても、神のかたちに造られた人が、自分に委ねられた、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を果たすこと、そのような使命を委ねられている者としての権威を発揮することは、それらの生き物と親しい関係を確立することから始まっています。 このように、人は、自分がそこから形造られた「土地」や、同じくそこから形造られた「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」と深く結ばれています。そのような者として、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という祝福とともに、造り主である神さまから使命を委ねられています。その使命を果たすことは、神のかたちの本質的な特性である愛において、自分に委ねられたすべての生き物たちがそれぞれの特性を発揮して生きるようになるために仕えることいくことを意味していました。これが神のかたちに造られている人間に委ねられている権威を行使することの根本にあることです。 造り主である神さまが、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という祝福の御言葉をもって委ねてくださった権威を発揮することは、自分に委ねてくださった生き物たちを親しく知り、生き物たちがそれぞれの特性を発揮して生きるようになるために仕えることです。そして、そのために自分に与えられた能力を傾けていくことです。 このことは、神のかたちに造られた最初の人においては現実となっていました。けれども、その最初の人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、それらの生き物たちを支配することは、罪の自己中心性によって歪められてしまいました。その結果としてどのようなことになったかは、今日では、環境の破壊や生き物たちの絶滅という形ではっきりと見て取れるようになっています。 このような、歴史と文化の流れの中にあって、私たちの主イエス・キリストは、神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった権威の本来の姿を回復してくださいました。 ヨハネの福音書10章10節、11節には、 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 というイエス・キリストの御言葉が記されています。さらに、18節には、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。 という御言葉が記されています。 イエス・キリストは私たちが永遠のいのちに生きるようになるためにご自身の権威を発揮され、その権威によっていのちをお捨てになりました。ここに、父なる神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった権威の本来の姿があります。 また、弟子たちが、イエス・キリストのメシヤとしての権威を誤解して、この世の権威者たちの権威と同質のものと考えていた時のことを記しているマルコの福音書10章42節〜45節には、 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 と記されています。 弟子たちはメシヤとしてのイエス・キリストの権威は、人の上に立って支配することであると考えていました。メシヤの権威は、当時のローマ帝国も含めて全世界の上に立って支配することであると考えていたわけです。しかし、イエス・キリストは、それは罪によって歪められたこの世の支配者たちの権威であると教えられました。そして、神の御国における権威は、 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 という御言葉に示されていますように、仕えることにおいて発揮される権威であると教えられました。 イエス・キリストはただそのように教えられただけではありません。ご自身が、 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 と言われましたように、私たちのためにご自身のいのちをお捨てになりました。そのことにおいて、メシヤとしての権威を発揮されました。このイエス・キリストにおいて、神のかたちに造られている人間に委ねられている権威の本来の姿が回復されています。そして、先ほどの、 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 という御言葉に示されていますように、主に贖われた民も、この本来の権威を発揮するようにと召されています。それは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかっている私たちの間では、イエス・キリストにあって、神のかたちの栄光と尊厳性が回復されているからです。 |
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