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説教日:2005年7月3日(夕拝) |
この造り主である神さまの命令の意味を考えるうえで大切なことは、これまで繰り返しお話ししてきたことですが、この命令は神のかたちに造られている人間に向かって語りかけられており、人間はこの命令を聞いているということです。それは、前半の、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。 という命令の御言葉に支えられて、人が最初の男女から始まってついには地を満たすに至るまでの歴史をとおして、子々孫々受け継がれ覚えられていくべき命令です。 この意味で、地を従えることも、すべての生き物を支配することも、神さまから委ねられた使命として、委ねてくださった神さまのみこころにそって果たされるべきものです。そして、それは人が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまう前には、人にとって当然のことであり、もっとも自然なことでした。 また、この、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という命令は1章28節に記されていますが、これに先だって22節には、 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」 と記されています。造り主である神さまは、最初にいのちあるものをお造りになった時に、水にすむ生き物や地にすむ生き物たちがそれぞれの生息する所で増え広がるようにと祝福してくださっておられます。すでにお話ししましたように、22節に記されている造り主である神さまの祝福は、24節、25節に記されている生き物たちにも及んでいると考えられます。 このように、造り主である神さまは、神のかたちに造られている人間を祝福してくださる前に、すでに、あらゆる生き物たちを祝福してくださっています。そして、その上で、28節において、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という命令が、造り主である神さまの祝福として、神のかたちに造られている人間に与えられているのです。ですから、人間は、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。 という命令を受けていますが、地を満たすようになるのは人間だけではありません。すでに祝福を受けている生き物たちも、地に増え広がっていくことになっています。むしろ、この点では、人間の方が「新参者」なのです。 さらに、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という命令は、造り主である神さまの祝福を受けている生き物たちを支配することを命ずるものです。 これらのことから、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という人に委ねられている使命は、神さまが生き物たちを祝福してくださっていることと深く関わっていると考えることができます。 すでに神のかたちのことを取り上げたときにお話ししましたように、神のかたちに造られている人間は、神さまがお造りになったこの世界に置かれた神のかたちとして、神さまを代表しているだけでなく、神さまを現しあかしする位置にあります。愛といつくしみに満ちておられる神さまを、この神さまがお造りになった世界であかしする立場にあるのです。そのような立場にある人間に、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命が委ねられました。そして、その生き物たちはすでに、それぞれの生息する所において増え広がるべきものとして、神さまの祝福を受けています。ということは、神のかたちに造られている人間が「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」するということは、神さまが与えてくださっている祝福が、これらの生き物たちの間に実現することに奉仕することを意味していると考えられます。 以上が、この命令が与えられた文脈から考えられることです。次に、この命令そのものを見てみましょう。 ここで、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 と言われているときの、「支配せよ」と訳されている言葉はラーダーです。この言葉は、ヨエル書3章13節で酒ぶねを「踏む」という意味で用いられている以外は、「支配する」、「治める」を意味しています。同じように「支配する」ことを表す言葉であるマーシャルが人間などの支配とともに神さまの支配をも表すのに対して、ラーダーは人間の支配を表します(TWOT、ラーダーの項)。ただし、詩篇72篇8節や110篇2節などでは、メシヤの支配のことがこのラーダーという言葉で表されています。このうち72篇8節は後ほど取り上げます。 このラーダーという言葉は、基本的に「支配する」、「治める」ということを意味していますが、これと関連して、この言葉が用いられているいくつかの箇所を見てみましょう。 列王記第一・9章23節には、 ソロモンの工事を監督する者の長は五百五十人であって、工事に携わる民を指揮していた。 と記されています。 ここで「ソロモンの工事」と言われているのは、9章1節、2節に、 ソロモンが、主の宮と王宮、およびソロモンが造りたいと望んでいたすべてのものを完成したとき、主は、かつてギブオンで彼に現われたときのように、ソロモンに再び現われた。 と記されていますように、「主の宮と王宮、およびソロモンが造りたいと望んでいたすべてのもの」を建設した工事のことです。23節で「工事に携わる民を指揮していた」と言われているときの「指揮していた」ということがこのラーダーという言葉で表されています。 これと同じことは、この記事と並行している歴代誌第二・8章10節に、 また、ソロモン王に属する者で、監督をする者の長は二百五十人であって、民を指揮していた。 と記されていることにも見られます。 これは「主の宮」の建設という目的に向かって「工事に携わる民」を指揮し導くことを表しています。このように、人々を一定の目的に向かって導いていくことは、「支配する」こと、「治める」ことの大切な一面です。 「支配する」こと、「治める」ことがどのようなことであるかを示すもう一つの箇所としてエゼキエル書34章1節〜6節を見てみましょう。そこには、 次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。 と記されています。 2節で、 人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。 と言われているときの「イスラエルの牧者たち」は、ダビデの子孫として生れた王たちを中心とする、イスラエルの指導者たちのことです。民の指導者を「牧者」にたとえることは旧約聖書だけに見られることではなく、古代オリエントの文化の中で広く見られることで、古くはシュメールの文書においても見られると言われています。そして、そのように「牧者」にたとえられる指導者たちは、「神」(「神々」)によって立てられていると理解されていました。 同じ2節で、 牧者は羊を養わなければならないのではないか。 と言われていますように、そのように「牧者」にたとえられる指導者たちは、「羊」にたとえられている民を養わなければならない立場にあります。 牧者は羊を養わなければならないのではないか。 という言い方は、そのことを「イスラエルの牧者たち」もわきまえていることを示しています。ところが3節には、「イスラエルの牧者たち」のことが、 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。 と記されています。「イスラエルの牧者たち」は「羊」を養うどころか、自分たちを肥やすために「羊」を犠牲にしているのです。これを受けて4節では、 弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。 と言われています。前半の、 弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、 という言葉は、なすべきことをなさない罪、すなわち「不作為の罪」を記しています。そして、後半の、 かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。 という言葉はなしてはいけないことをなすという罪、すなわち「作為の罪」を記しています。 この3節と4節を一つの告発としてみますと、3節前半で、 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふる と言われていることは作為の罪です。そして、後半で、 羊を養わない と言われていることは不作為の罪です。作為の罪をAとし、不作為の罪をBとしますと、3節と4節は、A・B・B・Aというキアスムスで記されていることになります。 そして、4節後半で、 かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。 と言われているときの「支配した」ということが、ラーダーという言葉で表されています。もちろん、この場合には、本来の、主のみこころにしたがって支配することから外れてしまっていることが示されています。それで、「力ずくと暴力で」支配することは、支配権を委ねてくださった主のみこころに反することであるのです。 契約の神である主のみこころにしたがって民を支配することは、ダビデに与えられた契約において約束されているダビデの子である贖い主によって実現します。そのことは、同じエゼキエル書34章の23節、24節に、 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしのべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。 と記されていることに示されています。 このダビデの子として来られる贖い主の支配を記していると考えられる詩篇72篇1節〜8節には、 神よ。あなたの公正を王に、 あなたの義を王の子に授けてください。 彼があなたの民を義をもって、 あなたの、悩む者たちを 公正をもってさばきますように。 山々、丘々は義によって、 民に平和をもたらしますように。 彼が民の悩む者たちを弁護し、 貧しい者の子らを救い、 しいたげる者どもを、打ち砕きますように。 彼らが、日と月の続くかぎり、代々にわたって、 あなたを恐れますように。 彼は牧草地に降る雨のように、 地を潤す夕立のように下って来る。 彼の代に正しい者が栄え、 月のなくなるときまで、 豊かな平和がありますように。 彼は海から海に至るまで、 また、川から地の果て果てに至るまで 統べ治めますように。 と記されています。 この詩篇はダビデに約束された永遠の王座に着座するメシヤの支配のことを、理想的な王の支配を願い求める形で表現している「メシヤ詩篇」であると考えられます。 2節〜4節において、 彼があなたの民を義をもって、 あなたの、悩む者たちを 公正をもってさばきますように。 山々、丘々は義によって、 民に平和をもたらしますように。 彼が民の悩む者たちを弁護し、 貧しい者の子らを救い、 しいたげる者どもを、打ち砕きますように。 と言われているのは、メシヤの支配がどのようなものであるかを示しています。それは義と公正をもって虐げられた者たちのためにさばきをなし、悩む者、貧しい者たちを守ることに現れてきます。 5節〜7節において、 彼らが、日と月の続くかぎり、代々にわたって、 あなたを恐れますように。 彼は牧草地に降る雨のように、 地を潤す夕立のように下って来る。 彼の代に正しい者が栄え、 月のなくなるときまで、 豊かな平和がありますように。 と言われているのは、その支配が永遠のものであることを示しています。そして、8節において、 彼は海から海に至るまで、 また、川から地の果て果てに至るまで 統べ治めますように。 と言われているのは、その支配があらゆる領域に及ぶ普遍的なものであることを示しています。この8節で、 統べ治めますように。 と言われていることが、ラーダーで表されています。 これらのことから分かりますように、支配権を委ねてくださった主のみこころにしたがって支配することは、自分に委ねられた人々を養い、その行くべき道に導くこと、また、義と公正をもって支配し、虐げられている人々を救い、貧しい人々を守ることに現れてきます。これは、自分に委ねられている人々やものを搾取して、自分を肥やすことと真っ向から対立します。 先ほど引用しましたエゼキエル書34章3節、4節には、 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。 と記されていました。これは、まさに人と生き物の関係をたとえとして用いています。この神である主の告発の御言葉にそって言いますと、造り主である神さまが委ねてくださった、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という命令は、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物」を養うことであり、弱ったものを強め、病気のものをいやし、傷ついたものを包み、迷いでたものを連れ戻すことです。決して「力ずくと暴力で彼らを支配」することを許しているのではないのです。 < |
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