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説教日:2005年6月5日(夕拝) |
天地創造の第六日には、人が神のかたちに造られただけでなく、それに先立って、地の上に住む生き物たちが造られています。その御業を記している24節、25節には、 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。 と記されています。 ここに記されていることについては、すでにこの個所を取り上げたときにお話ししました。それで、今お話ししていることとかかわりのあることをまとめておきますと、24節で、神さまが、 地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。 と言われたことは、神さまがこれらの生き物たちを創造されるに当たって、何らかの意味で「地」をそれにかかわらせてくださったことを示していると考えられます。言うまでもなく、これは、 地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。 と言われた神さまの御業であって、「地」が自分の力でこれらの生き物たちを生み出したということではありません。それで、補足的な説明を記している25節では、その点を明確にして、 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。 と記されています。このことから、神さまは、ご自身がすでに形造っておられた「地」の中に、これらの生き物たちを造るための素材あるいは原料を用意しておられて、それを用いて生き物たちをお造りになったのだと考えられます。 繰り返しお話ししていますように、創造の御業の記事を構成する要素のうちで最も大切なものは神さまの創造の御言葉です。その創造の御言葉は、24節に記されている、 地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。 という御言葉です。そして、この御言葉において、神さまがこれらの生き物たちを創造されるに当たって、何らかの意味で「地」をそれにかかわらせてくださったことが示されています。ですから、ここでは、神さまが「地」にこれらの生き物を生じさせるという形で、これらの生き物をお造りになったことが大切であるわけです。このことは、これらの生き物たちと「地」との結びつきの深さを示しています。 これに対しまして、同じ天地創造の六日の御業として、人間の創造のことを記している26節、27節には、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と記されています。 ここに記されている人間の創造の記事においては「地」の役割のことは記されていません。実際には、2章7節に、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と記されていますように、神さまは「土地のちり」で人を形造られました。その意味で、人間と「地」の結びつきには深いものがあります。けれども、1章26節、27節では、このことには触れられていません。ただ、人間が神のかたちに造られたということだけが記されています。 このことには、目的があると考えられます。それは、人間は神のかたちに造られているという点で、同じ天地創造の六日目に造られた生き物たちと区別されるものであることを示すためであるということです。ここでは、神のかたちに造られている人間は「地」との結びつき以上に、造り主である神さまとの結びつきを深くもっているものであることが示されています。言い換えますと、生き物たちの生きる「環境」は「地」にあります。これに対して、神のかたちに造られている人間の生きる「環境」は「地」である以上に造り主である神さまご自身であるということです。 そのように、神のかたちに造られている人間の生きる「環境」が造り主である神さまご自身であられることは、御言葉の中にもあかしされています。たとえば、詩篇90篇1節、2節には、 主よ。あなたは代々にわたって 私たちの住まいです。 山々が生まれる前から、 あなたが地と世界とを生み出す前から、 まことに、とこしえからとこしえまで あなたは神です。 と記されています。ここでは、永遠にいます方であり、天と地を治めておられる「主」(アドナイ)が私たちの「住まい」であると言われています。また、同様のことは、申命記33章27節に、 昔よりの神は、住む家。 永遠の腕が下に。 と記されています。ここで「昔より」と訳された言葉(ケデム)は人類の歴史の「昔より」ではなく、人類が出現する前の「昔より」、すなわち太古の「昔より」を表しています。その意味で、これは、その次に出てくる「永遠」と同じことを意味していると考えることができます。いずれにしても、ここでは、そのように太古の「昔より」います神さまが、ご自身の民の「住む家」であると言われています。これに続く、 永遠の腕が下に。 ということは少し分かりにくい気がします。これは、主の民が「住む家」は、永遠の主の御腕によって下から支えられ守られているということを示していると考えられます。その主の御腕は、救いとさばきの御業において力強い働きをなす御腕です。 このように、生き物たちは「地」から出て「地」に属するものであり、「地」を住み処としています。生き物たちの生きる「環境」は「地」にあり、「地」を越えるものではありません。これに対して、人間は神のかたちに造られているものとして「地」に住んでいますが、その生きる「環境」は「地」で終るものではなく、「地」を越えて、造り主である神さまご自身にあります。人は神のかたちに造られており、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることを本質としています。そして、「地」に置かれた神のかたちとして、造り主である神さまを代表するとともに、神さまを表現するものであるのです。人間はそのような存在として、造り主である神さまから「地」を従わせる使命を委ねられています。 神さまは、人とその妻に、 地を従えよ。 と言われました。この場合の「従える」という言葉はカーバシュで、これは意味が強い言葉です。この言葉が用いられているいくつかの箇所を見てみましょう。 民数記32章22節には、 その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。 と記されています。 これは、ヨルダン川の東岸に相続地をもつことを願ったルベン族とガド族の人々に語ったモーセの言葉の一部です。彼らが、他の部族とともにヨルダン川を渡ってカナンの地を征服するための戦いに参加し、その後に、東岸の相続地に帰ってくることを求めるものです。ここで、 その地が主の前に征服され と言われているときの「征服され」と訳されている言葉が、カーバシュの受け身形(ニファル語幹)です。ですから、ここでは、カーバシュは「征服する」ことを表しています。 また、歴代誌第二・28章10節には、 今、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従えて自分たちの男女の奴隷にしようとしている。しかし、実はあなたがた自身にも、あなたがたの神、主に対して罪過があるのではないか。 と記されています。 これはユダの王アハズが主の御前に罪を重ねたので、主がアハズをアラムの王と北王国イスラエルの王の手に渡されたので、彼らがユダを攻撃したときのことを記しています。北王国イスラエルはユダの人々20万人を虜として首都サマリヤに帰ってきました。その時に、主の預言者オデデが北王国イスラエルの軍勢に向かって警告を発しました。その中に、今引用しましたことばがあります。ここで、 今、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従えて自分たちの男女の奴隷にしようとしている。 と言われているときの、「従えて」と訳されている言葉がカーバシュです。これも「力尽くでする」ことを表していますので、この部分は文字通りには、 力尽くであなた方の男奴隷、女奴隷にしようとしている ということになります。 これと同じようなことは、ネヘミヤ記5章5節に、 現に、私たちの肉は私たちの兄弟の肉と同じであり、私たちの子どもも彼らの子どもと同じなのだ。それなのに、今、私たちは自分たちの息子や娘を奴隷に売らなければならない。事実、私たちの娘で、もう奴隷にされている者もいる。しかし、私たちの畑もぶどう畑も他人の所有となっているので、私たちにはどうする力もない。 と記されています。 これは、バビロンの捕囚から帰還したユダヤ人たちの間に貧しく社会的な立場の弱い者たちがいて、同胞であるユダヤ人たちに身売りをしなければならない状態にあることを、その貧しくて弱い立場の人々が告発しているものです。ここで、 今、私たちは自分たちの息子や娘を奴隷に売らなければならない。事実、私たちの娘で、もう奴隷にされている者もいる。 という訴えの言葉の中にカーバシュという言葉が2回用いられています。最初のものは「奴隷に売らなければならない」の「売らなければならない」と訳されているもので、これに「奴隷に」という言葉が続いています。これは、文字通りには「力尽くで(奴隷の状態に)する」ということです。もちろん、この場合は、本人たちの意志に反して奴隷として売らなければならないことを表しています。もう一つは「奴隷にされている」と訳されている言葉です。これには、「奴隷に」という言葉が続いていませんが、文脈から「奴隷にされている」ことであると分かりますので、そのように訳されています。 他にもいろいろな事例がありますが、これで十分でしょう。このカーバシュという言葉は「力尽くで従える」ことを表します。このことから、ここでは、被造物が人間の命令に進んで従うわけではないので、力をもって従わせなくてはならないことを示しているという見方もあります(たとえば、TWOT #951)。けれども、ここでは、 地を従えよ。 と言われていて、神のかたちに造られている人間が従えるのは「地」です。「地」が人間の命令に進んで従うことがないということはどういうことでしょうか。 もしこれが、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後のことであれば、そのようなことを考えることができます。罪を犯した人に対する神である主のさばきのことばを記している3章17節、18節には、 あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 と記されています。 けれども、この1章28節に記されている造り主である神さまの祝福の御言葉が語られたときには、のろわれている状態にあるものは何もありません。さらに、「地」は自らの意志をもっているわけではありませんので、人間に逆らうということもありません。それで、この、 地を従えよ。 という造り主である神さまの祝福の御言葉に用いられている「従わせる」ということは、人間に進んで従うことがない「地」を力尽くで従わせることであると理解することはできません。 このこととの関連で、二章一五節を見ますと、そこには、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。これは、 地を従えよ。 と命じられている人が、実際に何をしていたかの記録です。 エデンの園は、そこに神である主がご臨在しておられた所です。そこで人は「いのちの木」が礼典的に表示している神である主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。これは、最初にお話ししましたように、神のかたちに造られている人間の「環境」が「地」である以上に造り主である神さまご自身であることの実際的な現れです。そして、そのように神さまのご臨在の御前を歩んでいた人は、自分が置かれたその園を耕していました。この「耕す」という言葉(アーバド)の名詞形(エベド)は「奴隷」や「しもべ」や「役人」などを意味しています。これをあまり広げてはなりませんが、実際に、神のかたちに造られている人間は、神さまのしもべとして、神さまがご臨在されるエデンの園を耕して守っていました。いわば、エデンの園のお世話をしていたわけです。これは、「地」を力尽くで従わせるというイメージからはほど遠いものです。 その一方で、ここで神さまがカーバシュという意味の強い言葉を用いておられることは、この神さまの祝福の御言葉に示されている命令を遂行するためには、相当の力を尽くす必要があることが示されています。 それで、この場合の「地」を「従わせる」ことの意味は、次のような、いくつかのことをまとめ合わせる方向で理解するのがいいのではないかと思われます。 まず、すでにお話ししましたように、ここに記されている神さまの祝福の御言葉は、大きく二つに分けることができます。そして、この、 地を従えよ。 という命令は、神さまの祝福の御言葉の前半の、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。 という命令の頂点と見ることができます。言い換えますと、この、 地を従えよ。 という命令は、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 というように、積み上げられてきた戒めの上に、さらに付け加えられているものです。そして、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 という戒め自体が、すでにお話ししましたように、最初の一組の男性と女性の出会いと交わりから始まっています。そして、最初の男女の夫と妻としての交わり中に子どもが誕生して家庭が形成され、さらにその子どもたちが新たな家庭を形成して社会が形成されていくという形で、人の交わりが拡大していきます。このこと自体が、一朝一夕のうちに実現することではありません。その社会的な広がりが大きくなればなるほど、その交わりを豊かに保つための工夫と努力は必要になってきます。ですから、これは、神のかたちに造られている人間が自分の全身全霊を傾けて実現してゆくべきことです。しかも、それが、 地を満たせ。 ということを実現するに至るためには、それだけの時間を要することです。 そのような、神のかたちに造られている人間の交わりの拡大の過程において、しかも、その過程を通して、 地を従えよ。 という使命が果たされていきます。それは、個人的なことで終るものではなく、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 という祝福のもとで、歴史的に親から子へと受け継がれて行くべきことであると同時に、社会的にそれを拡大していくべきことであるわけです。これらのことは、造り主である神さまの祝福の御言葉に示されている使命に対する強い自覚を必要とすることです。そして、その使命感を子々孫々と継承していかなければなりません。 次に、この、 地を従えよ。 ということは、その使命を子々孫々受け継いでいくというだけではなく、この「地」のうちに造り主である神さまが備えてくださっている、計り知れない可能性を秘めた富を探り出し、開発してゆく働きをともなうものです。神さまが「地」のうちに備えてくださっているものは、さまざまな作物を育てて、それらが実を結ぶに至ることを支えています。それは、今日に至るまでいのちあるものを支え続けています。 また、神さまが「地」のうちに備えてくださっているものには、さまざまな鉱物資源も含まれます。それらは、人間の社会的文化的な活動にとってなくてはならないものでもあります。これらのものを探り出して開発していく働き自体も、神のかたちに造られている人間に与えられているさまざまな能力を結集して当たらなければならないことです。 さらに、この神さまの祝福の御言葉においてカーバシュという「征服すること」や「奴隷とする」ことを意味する言葉が用いられていることは、その治めることの「徹底性」を示していると考えられます。それは、この場合は、従わせる「地」を奴隷のように搾取するという意味における「徹底性」ではなく、 地を満たせ。 という御言葉に示されているように、「地」のあらゆる所においてその使命を果たすという「徹底性」と、造り主である神さまが「地」に備えてくださっている多様で豊かな可能性を余すところなく発見して、引き出し、それらを用いていくという意味での「徹底性」を意味していると考えられます。 言うまでもなく、神のかたちに造られている人間は、そのことをとおして、造り主である神さまの豊かな恵みの備えを感謝し、神さまご自身を礼拝するようになります。 |
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