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説教日:2005年5月1日 |
二つの祝福の違いのもう一つのことですが、28節に記されている神さまの祝福の御言葉は、27節の後半に、 神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と記されていることにつながっています。すでに27節を取り上げた時にお話ししましたように、この、 神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 という御言葉は、男性も女性も神のかたちに造られているということを示しています。ですから、人間の場合には、それぞれ神のかたちに造られている男性と女性の結びつきによって生み、増え広がり、地を満たすということが実現していきます。この点においても、神のかたちに造られている人間の場合には、生み、増え広がり、地を満たすことは人格的なことであることが見て取れます。つまり、それは、造り主である神さまとの人格的な関係だけでなく、それとともに、同じく神のかたちに造られている男性と女性の間の人格的な関係おいて実現することであるのです。 さらに、人間の場合には、生み、増え広がり、地を満たすことは、最初の一組の男女から始まっています。他の生き物たちの場合には、群れから始まって、その群れの拡大という形で増え広がっていきますが、人間の場合には、最初の一組の男女から始まっているのです。ここには、それぞれ神のかたちに造られていて自らの自由な意志をもつ男性と女性の人格的な出会いと、愛による交わりがあります。これによって、このような男性と女性の愛による結びつきが、人が生み、増え広がり、地を満たしていくことの出発点であり中心であることが示されています。 もう一度27節の後半に記されていることと28節に記されていることのつながりを見てみますと、27節の後半には、 神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と記されており、これを受けて28節には、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。このつながりから、28節において、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。 と言われていることは、基本的に、27節でともに神のかたちに造られていると言われている男性と女性について語られているということが分かります。つまり、男性と女性がともに造り主である神さまの祝福にあずかっており、ともに、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という神さまの語りかけを聞いているのです。ですから、神のかたちに造られている男性と女性のそれぞれが、このように祝福してくださっている神さまの祝福の下に、夫と妻としての愛のうちに結び合い、それぞれが、神さまに応答して、生み、増え広がり、地を満たすという使命を果たしていくのです。 この点は大切なことですので、さらに、神のかたちに造られている人に焦点を合わせている2章の18節〜25節において、詳しく取り上げられています。 このように、神のかたちに造られている人間の場合には、造り主である神さまの祝福の下に、男性と女性の人格的な結びつきによって主にある家庭が形成され、そこに子どもたちが生まれてきて家族を形成するという形で、生み、増え広がり、地を満たすことが実現していきます。このことに関して三つのことを考えておきたいと思います。 第一のことは、すでに触れたことですが、造り主である神さまの祝福の下で人が生まれ、増え広がって地を満たしていくことの基本的な単位は家族にありますが、その中心は、それぞれ神のかたちに造られている男性と女性の結びつきにあるということです。 古代の社会に限らず、いつの時代においても親子の関係は大切なものとして尊重されています。それは、御言葉の教えにおいても例外ではありません。十戒の第5戒を記している出エジプト記20章12節には、 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。 と記されています。十戒の第1戒〜第4戒は契約の神である主との関係にかかわる戒めです。そして、第5戒〜第10戒は主の契約の民の相互の関係にかかわる戒めです。そのお互いの関係にかかわる戒めの第一に上げられているのが、 あなたの父と母を敬え。 という戒めです。そして、この戒めは、 あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。 という注釈が付いているという点でも特別なものです。 このように、御言葉においては、親子の関係はとても大切なものとして教えられています。けれども、人が生まれ、増え広がって地を満たしていくことの中心は、親子の関係にではなく、それぞれ神のかたちに造られている男性と女性の結びつきとしての夫と妻の関係にあるのです。 この点は、27節後半と28節のつながりから考えられることですが、さらに、2章24節に、 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。 と記されていることにおいてより明確に示されています。このことの意味については、2章24節を取り上げる段になりましたらより詳しくお話ししたいと思いますが、親と子という縦の関係には、子が親に依存するという面があります。そして、親と子の関係は子どもの誕生によって始まりますから、お互いが相手を選ぶことはできません。これに対しまして、夫と妻の関係は、お互いに自立し独立しているものとして出会って、愛のうちにお互いの意志によって結び合うものです。造り主である神さまの祝福の下に、人が生まれ、増え広がって地を満たしていくことの中心は、このような夫と妻の愛による結びつきにあります。 これは神のかたちに造られている人間の社会においては、それぞれ神のかたちに造られている男性と女性の結びつきとしての結婚がその基本にあることを意味しています。マタイの福音書19章4節〜6節には、離婚について質問したパリサイ人たちに対するイエス・キリストのお答えが、 創造者は、初めから人を男と女に造って、「それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。」と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。 と記されています。 第二に考えられることは、このように、人間の場合には、造り主である神さまの祝福の下に、男性と女性の人格的な結びつきによって主にある家庭が形成され、そこに子どもたちが生まれてきて家族を形成するという形で、生み、増え広がり、地を満たすことが実現していくのですが、このことには、神さまの創造の御業に類似している面があるということです。この類似性は二つの面から考えることができます。 まず考えられるのは、夫と妻が子を生み出すということが神さまの創造の御業に類似しているということです。 詩篇90篇1節、2節には、 主よ。あなたは代々にわたって 私たちの住まいです。 山々が生まれる前から、 あなたが地と世界とを生み出す前から、 まことに、とこしえからとこしえまで あなたは神です。 と記されています。ここでは、神さまが「地と世界とを生み出」されたと言われています。もちろん、これは神さまの創造の御業のことを比喩的に述べたものです。 新改訳の、 あなたが地と世界とを生み出す前から、 という訳はヘブル語本文にそった訳です。これに対して、神さまが「地と世界とを生み出」されたというのは、神さまとこの世界の連続性を意味していて創造者と被造物の区別を曖昧にしてしまう異教的な思想であると主張する人々がいます。そして、このことから、この部分は「あなた」と呼ばれている神さまを主語としないで「地と世界」を主語として、 地と世界が生み出す前から と訳すべきであるという意見があります。つまり、「地と世界」がその前の「山々」を、地の隆起、陥没によって生み出したことを述べているというのです。 しかし、そのようなことを言うのであれば、その前の、 主よ。あなたは代々にわたって 私たちの住まいです。 という告白も、神さまと私たちの区別を曖昧にするものであると言わなければならないでしょう。それに、 まことに、とこしえからとこしえまで あなたは神です。 という告白によって、永遠にいます神さまと、時間的な存在であるものとの区別は十分に示されているのではないでしょうか。 さらに、神さまの創造的な御業を生み出すことにたとえている例は申命記32章18節に見られます。そこには、 あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、 産みの苦しみをした神を忘れてしまった。 という、イスラエルの民に対するモーセの告発の言葉が記されています。この「産みの苦しみをした神」の「産みの苦しみをした」と訳されている言葉(ヒール)は、詩篇90篇2節で、 あなたが地と世界とを生み出す前から、 と言われている中で「生み出す」と訳されている言葉と同じ言葉です。 これらのことから、詩篇90篇2節前半は、新改訳のように、 山々が生まれる前から、 あなたが地と世界とを生み出す前から、 と訳したほうがいいと思われます。そして、このことに、人が子を生み出すことと神さまの創造の御業の類似性が見て取れます。もちろん、このように見ることが、創造者にして無限、永遠、不変の神さまと、有限な被造物である私たちの区別を曖昧にするものであってはならないわけです。 ここには、もう一つのより大切な類似点があります。 創世記1章26節には、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 と記されています。ここで神さまはご自身のことを「われわれ」と呼んでおられます。すでにお話ししましたように、この場合の「われわれ」は、神さまご自身のうちに複数の人格(位格)があることを示していると考えられます。そして、このことは、ただ神さまが複数の人格(位格)において存在しておられることを示すだけでなく、ここに、複数の人格(位格)においてある神さまのうちに、語りかけによる交わりがあることを示しています。つまり、ここでは、人を神のかたちにお造りになるに当たって、神さまのうちに人格的な交わりがあったことが示されているわけです。 ヨハネの福音書1章1節〜3節を見てみますと、1節、2節において、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。 と記されています。いろいろな機会にお話ししてきたことですが、1節では、 ことばは神とともにあった。 と言われており、2節では、 この方は、初めに神とともにおられた。 と言われていて、永遠の「ことば」が父なる神さまとの永遠の愛にある交わりのうちにいますことが示されています。そして、このことを受けて、3節には、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。これによって、この造られた世界の「すべてのもの」は父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちに充足しておられる御子によって造られたことが示されています。その意味において、創造の御業は、神さまがご自身の愛を、ご自身が造られたこの世界に注いでくださる御業です。 これらのことを念頭において、創世記1章26節の、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 という御言葉を読みますと、神さまが人を神のかたちにお造りになったのは、人にご自身の愛を注いでくださり、人をご自身との愛にある交わりのうちに生きるものとしてくださるためであることが分かります。 それぞれが神のかたちに造られている男性と女性が愛のうちに結びあって家庭を形成し、そこに子どもたちが生まれてくることは、その男性と女性の愛の交わりが子どもたちを包み込んで、その愛の交わりが拡大していくことです。このことは、創造の御業において神さまがご自身の愛を、神のかたちに造られている人に注いでくださり、人をご自身との交わりのうちに生きるものとしてくださったことと類似しています。 このことを踏まえて、もう一つのことを考えておきたいと思います。今お話ししましたように、人間の場合には、造り主である神さまの祝福の下に、男性と女性の人格的な結びつきによって主にある家庭が形成され、そこに子どもたちが生まれてきて家族を形成するという形で、生み、増え広がり、地を満たすことが実現していくのですが、それは、愛の交わりが拡大していくことを意味しています。 私たちは、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている状態の世界に生きています。御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いにあずかって、罪を赦され、罪と死の力から解放された主の民が生み出す歴史が造られているとはいえ、今なお、人間の罪がもたらす苦しみと叫びの絶えない世界が続いています。そのような世界において人が生まれて、増え広がり、地を満たしていく過程において、領土や主権をめぐる争い、紛争、戦いは後を絶ちません。けれども、それは神のかたちに造られている人間の罪による堕落の後のことです。本来は、神のかたちに造られている人間が、子どもたちを生み、増え広がって、地を満たすようになることは、造り主である神さまの祝福によることです。そして、それは、愛にある交わりが拡大していくことなのです。 大切なことは、このような愛にある交わりの拡大があって初めて、これに続いて記されている、 地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命が果たされるということです。それは、ただに、神のかたちに造られている人間の間において愛の交わりが拡大していくというだけでなく、その愛が、神さまがお造りになった生き物たちにも向けられて拡大していくということを意味しています。 これは、先ほどお話ししました、造り主である神さまの愛が創造の御業によって、神さまがお造りになったこの世界に向けて注がれるようになったということが、実際に、この世界の歴史の中で実現していくことを意味しています。神のかたちに造られている人間は、造り主である神さまからそのような祝福を受け、そのような使命を委ねられているのです。 このことを考えますと、今のこの世界の現実との余りの違いに驚かされます。神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによってもたらされた傷の深さを思い知らされます。 パウロはローマ人への手紙8章22節において、 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 と述べています。私たちもこの全被造物のうめきを聞かないわけにはいきません。 しかし、このうめきは、19節〜21節において、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されている約束と望みの下で、その実現を待ちつつ発せられるうめきです。その望みが確かな望みであることは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって罪を贖われ、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きている神の子どもたち、すなわち、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。 とあかしされている神の子どもたちが出現していること示されています。 今私たちは、天地創造の初めに造り主である神さまが祝福とともに語りかけてくださった、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という御言葉に示されている使命を、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの恵みにあずかって、神の家族の愛の交わりを実現し拡大するという形において担っているのです。そして、御子イエス・キリストの贖いの御業によって全被造物がまったき回復にあずかることを信じて、 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように 地でも行なわれますように。 と祈りつつ、栄光のキリストの再び来られる日を待ち望んでいます。 |
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