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説教日:2005年4月3日(夕拝) |
この神さまの祝福の御言葉は、先に引用しました26節に記されている、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。 という神さまの創造の御言葉に基づいて語られています。すでに、神さまはこの創造の御言葉に沿って人を神のかたちにお造りになっておられます。当然、神さまは、神のかたちに造られている人間に、 そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。 というみこころを実現するために必要な能力を備えてくださっています。そうしますと、そのような能力を与えられている人間は放っておいても「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配」するようになるのではないかというような気がいたします。 けれども、実際には神さまは、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という祝福の御言葉を人に語っておられます。そして、このことに、この神さまの祝福の御言葉の語りかけの意味があるわけです。人は、神さまから「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配」するための能力を与えられているから、自然と、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配」するというのではなく、神さまの祝福の御言葉を聞いて、それに自覚的に応答する形で、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配」するのです。 ですから、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配」することには、二つの面があります。一つは、言うまでもなく、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配」することです。もう一つは、造り主である神さまに自覚的に応答することです。 このことの意味は、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後のことを考えますと、よりはっきりとしてきます。人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後にも、創造の御業によって与えられた「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配」するための能力は残っています。それで、人は、その能力に物を言わせて「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配」し続けています。ただし、それは自らの能力を傾けてそれらの生き物に仕え、そのお世話をするというのではなく、それらの生き物を搾取するという形で現れてしまっています。そればかりか、人間は、お互いの間でもその能力を競って、お互いを支配しようとするまでになってしまっています。 人間の罪による堕落の後に失われたものは、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配」するための能力ではなく、造り主である神さまの祝福の御言葉を聞いてそれに自覚的に応答することです。そして、このことを失ってしまったことが、どんなに重大な結果を生み出してしまっているかをしっかりと見据えておきたいと思います。 このこととの関連で注意しておきたいことがあります。ここでは、「自覚的に応答する」ということが大切なことです。罪による堕落の後には、人間は、神さまの祝福の御言葉に耳を塞ぎ、自分たちが神さまから使命を委ねられており、神さまに応答すべきものであるということを認めようとはしません。その意味では、人間は神さまの祝福の御言葉に自覚的に応答してはいません。しかし、そのことさえも、造り主である神さまに対する「応答」としての意味をもっています。神さまのみこころを踏みにじることも、敵対的なものではありますが、神さまへの応答であるのです。 神さまの祝福の御言葉については、すでに、22節に記されている祝福の御言葉についてお話ししたときに、いくつかのことをお話ししました。それを振り返りながら、改めて、28節に記されている神のかたちに造られている人間に対する祝福の御言葉との関連でまとめておきたいと思います。 まず、注目したいのは、神さまの祝福の御言葉は命令の形で語られているということです。これは神さまの創造の御言葉と同じ形です。 神さまは創造の御言葉をもってすべてのものをお造りになりました。神さまの祝福の御言葉は、神さまが創造の御言葉をもってこの世界のすべてのものをお造りになったということと結びついています。そして、真の意味で祝福をなしうる方、祝福の最終的な源は、御言葉をもってすべてのものをお造りになった神さまであるということを示しています。もちろん、聖書の中には、人間が祝福をしたことが記されています。けれども、人の祝福は、神さまの祝福を踏まえており、神さまの御名によってなされるものです。 また、この神さまの祝福の御言葉と創造の御言葉の結びつきは、神さまの祝福の御言葉は創造の御言葉のように力があり、祝福の御言葉において語られたことは必ず実現するようになるということを意味しています。 それは、特に、22節に記されている、 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。 という生き物たちへの祝福の御言葉の場合に、はっきりしています。その祝福の御言葉は神さまが一方的に宣言されたもので、生き物たちは、その祝福の御言葉を聞いていません。生き物たちはただその祝福にあずかって、生れて増え広がっているだけです。 すでにお話ししましたように、神のかたちに造られている人間への祝福の場合には、人はその祝福の御言葉を聞いて、それに自覚的に応答していきます。そのような人間の場合にも、神さまの祝福の御言葉の前半の、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 という御言葉は、先ほどの生き物たちへの、 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。 という祝福と同じく、神さまの一方的な祝福によることがよりはっきりしています。 とはいえ、これは生き物たちに与えられた祝福とまったく同じであるということではありません。生き物たちは自分たちが生れて増え広がることが造り主である神さまの祝福によることであることを知りません。しかし、神のかたちに造られている人間の場合には、それが造り主である神さまの祝福によっていることをわきまえて、神さまを信頼し、神さまをあがめることができます。 また、神さまの人への祝福の御言葉の後半の、 地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という御言葉に示されている使命も、神さまの祝福の御言葉の支えがあって初めて成し遂げられることです。一つには、この使命も、神さまの祝福によって、人が生まれて地に増え広がっていくことがあって初めて成し遂げられることです。また、人にはこのような使命を成し遂げる能力が与えられていると言っても、その能力を発揮することも神さまの御手のお支え、具体的には御霊のお支えとお導きによることです。さらには、その能力を駆使してなされる働きによって生み出される実は神さまの祝福によってもたらされるものです。コリント人への手紙第一・3章6節には、 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。 と記されています。これは、キリストのからだである教会を建て上げることに関することを述べるものですが、それが植物の生長にたとえられています。それは、植物の生長が神さまの祝福によることを踏まえています。 このように、神さまの祝福の御言葉は創造の御言葉と密接に結びついています。けれども、それは創造の御言葉と同じものではありません。神さまの創造の御言葉は、創造の御業において、新しいものや新しい状態を造り出すものです。これに対して、祝福の御言葉は、そのように新しいものや新しい状態を造り出すものではありません。むしろ、神さまが創造の御言葉によって造り出されたものをや造り出された状態を踏まえて、それに向けて語られています。 それでは、具体的に何に向けて語られているのでしょうか。創造の御業において神さまが祝福の御言葉を語っておられるのは2回だけです。最初の祝福の御言葉については、22節に、 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」 と記されています。そして、二つ目が28節に、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されているのです。 このほか、2章3節には、 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 と記されています。ここでは、神さまが創造の第七日を祝福されたと言われていますが、具体的な祝福の御言葉は語られていません。 1章22節と28節に記されている祝福の御言葉は、神さまの創造の御業において、新しい段階を迎えたことを受けて語られています。22節の祝福の御言葉は、それに先だつ21節において、 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。 と記されていることを受けています。 この21節には「創造された」という言葉(バーラー)が用いられています。この「創造された」という言葉は。1節の、 初めに、神が天と地を創造した。 という創造の御業の記事全体の見出しに当たる文に用いられてから、この21節に至るまで用いられることはありませんでした。21節でこの言葉が用いられているのは、この創造の第五日において初めていのちのあるもの、生き物が造り出されたからであると考えられます。その意味において、これは創造の御業の進展において新しい段階に至ったことを標す御業であるのです。 この言葉が次に用いられているのは27節において、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と記されている中でのことです。ここには「創造された」という言葉(バーラー)が3回用いられています。これによって、創造の御業の進展の中で決定的に新しい段階に至っていることが示されています。 これは創造の御業の第六日の御業におけることですが、同じ創造の御業の第六日には、25節に、 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。 と記されていますように、動物たちも造られています。しかし、そのことを記す記事には「創造された」という言葉(バーラー)は用いられていません。その意味で、この動物たちは、第五日に造られた生き物たちと同じ範疇に分類されます。そして、22節の、 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。 という祝福の御言葉の下にあると考えられます。 このように、27節に記されている、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 という御言葉は、神さまが人を神のかたちに創造されたことによって、創造の御業は新しい段階を迎えたことを示しています。そして、これを受けて、28節には、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されているわけです。 これらのことから分かりますように、神さまの祝福の御言葉はいのちあるものが造り出されたことを受けて語られています。それで、生き物たちへの祝福も、神のかたちに造られている人間への祝福も、 生めよ。ふえよ。・・・を満たせ。 と言われている点で共通しています。新改訳では訳文が違っていますが、22節に記されている祝福の御言葉と28節に記されている祝福の御言葉の 生めよ。ふえよ。・・・を満たせ。 という部分は、同じ言葉で表されています。 ですから、神さまの祝福の御言葉はいのちあるものに対して語られています。つまり、創造の御業の中で語られた神さまの祝福の御言葉は、神さまが造り出されたいのちあるもののいのちの豊かさに関わるものであるのです。 生き物たちの場合には、神さまの一方的な祝福の宣言として語られており、生き物たちはそれを聞いてはいません。そのいのちの営みの豊かさは、神さまの祝福の御言葉によって一方的に支えられています。 神のかたちに造られている人間の場合には、いのちの本質は造り主である神さまとの愛にある交わりにあります。それで、神さまは、その交わりのうちにある「人」に、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という祝福の御言葉を語りかけてくださいました。そして、その祝福の御言葉を聞く人間は、神さまとの愛にある交わりのうちにあって、自覚的に、その祝福の御言葉に応答していくのです。 さらに、この神さまの祝福の御言葉は命令の形で語られています。それは、すでにお話ししましたように、創造の御言葉のように、語られたことを実現する力をもっている御言葉としての命令形です。同時に、その御言葉を聞く人間は、それを主権者の御言葉として聞き、主権者の御言葉として受け止めます。それで、 地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という祝福の御言葉に自覚的に応答することは、造り主である神さまを主として告白し、礼拝しあがめることのうちでなされます。当然、「地を従え」、「空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」することは、造り主である神さまのみこころに沿ってなされることです。 そのようにして、神のかたちに造られている人間が、造り主である神さまの祝福の御言葉に支えられて文化を造り、その継承である歴史を形成することは、神さまを主としてあがめる礼拝と讃美と感謝を中心とする神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちになされます。 |
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