(第40回)


説教日:2005年3月6日
聖書箇所:創世記1章26節〜31節
説教題:歴史と文化を支える祝福


 創世記1章26節、27節においては、神さまが人を神のかたちにお造りになったことが記されています。それを受けて、28節には、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。これは、一般に「文化命令」と呼ばれている神さまの祝福の言葉を記すものです。
 先月は、神さまの祝福の言葉を導入する、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。

と記されている言葉についてお話ししました。
 ここでは、神さまが神のかたちに造られている人とその妻を祝福してくださったことと、その祝福の言葉をもって彼らに語りかけてくださったことが同じ重みをもっていて、同じように大切なこととして記されています。これは、同じく創造の御業の中での神さまの祝福を記している22節と比べてみるとよく分かります。そこには、

神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」

と記されています。この22節における導入の言葉は、

神はまた、それらを祝福して仰せられた。

となっています。この「仰せられた」という言葉は定動詞で表されているのではなく、分詞で表されています。そして、この分詞は直接話法をを導入するもので、日本語のかぎかっこに当たるものであると考えられます。つまり、ここ22節では、造り主である神さまが生き物たちに対する祝福を宣言されたということが記されているのであって、その祝福の言葉が生き物たちへの語りかけになっているわけではありません。生き物たち自身は神さまの祝福の言葉の下にありますが、その祝福の言葉を聞いて理解し、それを受け止めて生きているわけではありません。
 これに対しまして、神のかたちに造られている人に対する祝福の場合には、神さまは祝福の言葉をもって人に語りかけてくださっています。それで、人は造り主である神さまの祝福の言葉を神さまからの語りかけとして聞いており、それを理解し受け止めて、自覚的にそれに従って生きるようになっています。人は、与えられている自由な意志を、神さまのみこころに沿って働かせて、神さまに応答して生きる者であるのです。
 造り主である神さまの人に対する語りかけの形で示された祝福の言葉は、26節において、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されていることを受けています。この26節に記されている「われわれ」は、神さまに複数の人格があることの表れであると考えられます。そして、ここにおいては、人を神のかたちにお造りになるに当たって、神さまがお互いの間で語り合われたことが示されています。神さまはこのお互いの間での語り合いにおいて定められたとおりに、人を神のかたちにお造りになり、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という祝福の言葉を語りかけてくださったのです。
 このように、神さまはご自身の人格間の語り合いにおいて定められたみこころを、神のかたちに造られている人への語りかけの形で啓示してくださいました。


 人は、これを主権者であられる神さまの祝福の言葉として聞き、自らの自由な意志によって進んで従うことによって、造り主である神さまを主として認め、告白し、あがめることができるようになりました。
 先週詳しくお話ししましたように、これによって、人は意味と価値という点においても、何もない虚空の中を生きるのではなく、神さまが啓示してくださったみこころに照らして、派生的にではありますが、自らの存在の意味を全うし、価値を発揮するとともに、意味あるものと価値あるものを生み出していく者となりました。そのようにして、自らの存在の意味を全うし、価値を発揮するとともに、意味あるものと価値あるものを追い求めたり、生み出して行くことが、人間にとっての文化的な活動となっていきます。それで、この、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という造り主である神さまの祝福の言葉は、一般に「文化命令」と呼ばれています。
 確かに、これは神のかたちに造られている人間の文化的な活動を支えてくださっている祝福です。そして、人間の文化的な活動は、先ほど触れました、造り主である神さまを主として認め、告白し、あがめる礼拝が中心となり、目的となっていきます。神のかたちに造られている人間にとって、礼拝を中心とする造り主である神さまとの愛にある交わりこそが、いのちの本質であり、神さまの祝福の中心です。
 本来、人間の文化活動の中心には造り主である神さまへの礼拝があります。人が神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまった後には、この点が歪められてしまっています。人が文化的な活動をしなくなってしまったのではなく、その活動の目的が造り主である神さまへの感謝と讃美を伴う礼拝ではなくなってしまったのです。そのことが、ローマ人への手紙1章21節〜25節には、

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

と記されています。
 繰り返しお話ししていますように、造り主である神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という祝福の言葉に表されている使命は、天地創造の御業において中心的な位置を占めている、神さまの創造の御言葉に基づいています。神さまの創造の御言葉は、それが表していることを実現する御言葉です。ですから、神さまは、創造の御業において、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。

という創造の御言葉に示されていることを実現されました。人を神のかたちにお造りになり、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配」するという使命を委ねてくださいましたが、そればかりでなく、その使命を果たすために必要なさまざまな能力を人に与えてくださっています。
 この能力の中には、普通私たちが考える能力、すなわち、さまざまなことを成し遂げるための能力や才能だけでなく、より基本的な、意味あるものや価値あるものをわきまえるとともに、それらを追い求める「指向性」とも言うべき、根本的な動因が含まれています。これは、造り主である神さまが神のかたちに造られている人の本性に植え付けてくださった「指向性」です。それで、人が人であるかぎりこの意味あるものや価値あるものに対する「指向性」をもっています。そして、この意味あるものや価値あるものに対する「指向性」の中心に、造り主である神さまへの「指向性」としての「神の観念」、「神への思い」があります。これは、アウグスティヌスが、神さまは人をご自身に向けてお造りになったと告白していることに当たります。
 このように、人は自らの本性に「神の観念」、「神への思い」を植え付けられており、それによって必然的に神を求めます。このことは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっても変わることはありません。人は罪によって造り主である神さまの御前に堕落してしまった後にも神を求めます。ただ、造り主である神さまを神としてあがめることがなくなってしまったのです。それが、先ほど引用しましたパウロの、

彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

という言葉に表されています。
 神のかたちに造られている人間の本性には、この「神への思い」を中心として、意味あるものや価値あるものへの「指向性」が植え付けられています。それで、人は罪によって堕落してしまった後にも、意味あるものや価値あるものを追い求めています。ただ、本来は、その意味や価値の中心に造り主である神さまを礼拝することの中で、神さまをあがめ、感謝することがあるのですが、罪によって堕落してしまったことによって、造り主である神さまをあがめ、感謝することはなくなってしまったのです。それは、神さまを中心とする本来の価値観が罪によって腐敗して、自己中心的に歪んでしまっているからです。
 人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、人の文化的な活動は、造り主である神さまを礼拝することという目的を見失って、自らを神の位置に据え、自らが意味と価値の基準となってしまっています。本来、意味と価値の基準は造り主である神さまとそのみこころにありますが、その基準が自分自身であるとすることは、被造物である人間には負いきれない重荷です。しかし、人は罪によって造り主である神さまの御前に堕落してしまったことによって、それを背負い込むことになりました。そこから、意味と価値についての相対化が生まれ、自らの存在の意味と価値、人生の目的などをめぐって、さまざまな混乱と苦しみが生れてきています。
 私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって罪の力から解放され、造り主である神さまを神として礼拝し、あがめ、神さまに感謝するものとなりました。それは、神のかたちに造られているものとしての文化的な活動の中心にあるものが回復されているということです。また、私たちの生涯の目的と、意味と価値が神さまを中心としたものに回復されているということでもあります。
 このように、創世記1章28節に記されている、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という造り主である神さまの祝福の言葉は、神のかたちに造られている人間の文化的な活動に深く関わっています。これは、人間の文化的な活動の出発が造り主である神さまの祝福によっているということを示しています。そして、その後の人間の活動は、造り主である神さまの祝福の下にあります。人間の文化的な活動は人間がなすものですが、それは、神さまの祝福のことばを聞くことから始まっており、神さまの祝福の言葉への応答としてなされます。
 この造り主である神さまの祝福の言葉の意味については改めてお話ししますが、今お話ししていることとの関わりで一つのことに触れておきます。それは、この祝福の言葉が、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。

という言葉から始まっているということです。これは、最初の人アダムとその妻エバから始まって、ついには人が地を満たすようになるということを意味しています。これは、何世代にもわたる子孫の伝播があって初めて実現することです。
 それとともに、神のかたちに造られている人間がこのように増え広がって地を満たすようになることは、1章22節に、

神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」

と記されている生き物たちの場合とは違っています。生き物たちは、造り主である神さまがお与えになった本能にしたがって地と海に満ちていくのですが、神のかたちに造られている人間は、今お話ししていますように、本来、造り主である神さまの祝福の言葉を受け止めて、地に増え広がっていきます。その際に、文化的な活動がそれにともなっています。そして、その文化的な活動の中心に、造り主である神さまを礼拝し、あがめ、神さまに感謝することがあります。
 生き物たちの場合には、与えられた環境に順応するための変化はありますが、基本的に、それぞれがそれぞれの本能にしたがって、その一生を始めて、それを閉じていきます。その意味では、生き物たちは文化を造るわけではありませんし、文化を継承していくことはありません。これに対して、神のかたちに造られている人間の場合には、本来、造り主である神さまを礼拝することを中心として、それぞれの生涯において意味あるものと価値あるものとを追い求めつつ、文化的な活動をするだけではありません。その文化的な活動を子々孫々に継承していきます。それは、その文化的な活動の中心にある造り主である神さまへの礼拝も継承されていくということです。
 人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後にも、このことは変わっていません。すでにお話ししましたように、罪による堕落の後には、造り主である神さまを神として礼拝し、あがめることがなくなってしまったのであって、自分たちの考えにしたがってさまざまな偶像を作り出して、これに仕えながら文化的な活動をするようになってしまっています。そして、私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、造り主である神さまを神として礼拝し、あがめ、感謝する者へと回復されているのです。
 22節に記されている、

生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。

という造り主である神さまの生き物たちに対する祝冨の言葉と、神のかたちに造られている人間に対する、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。

という祝福の言葉は、形の上では同じで、どちらも、それぞれの住む所に増え広がることを支えてくださっています。その意味で、すでに22節との関わりでお話ししましたが、造り主である神さまの祝福はいのちの豊かさに関わっています。しかし、形の上で同じと見える造り主である神さまの祝福の言葉も、その意味するところはかなり違っています。神のかたちに造られている人間の場合には、この祝福の言葉によって、造り主である神さまを礼拝することを中心としたさまざまな文化的な活動をなし、それによって生み出された文化が継承されていくのです。
 先ほど言いましたように、神のかたちに造られている人間のうちには意味と価値についてのわきまえと価値あるものや意味あるものへの「指向性」があります。その中心に造り主である神さまへの「指向性」としての「神への思い」があります。それによって、人は、造り主である神さまへの礼拝を中心として、意味あるものや価値あるものを追い求める文化的な活動をいたします。そして、その活動が、子々孫々と受け継がれていくのです。それは、造り主である神さまを礼拝することを中心とした意味あるものと価値あるものの追及が受け継がれていくということでもあります。
 このことは、造り主である神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった使命は、人間が文化的な活動をすることにあるだけでなく、その文化と文化的な活動を継承していくという、歴史的な使命でもあるということを意味しています。神のかたちに造られている人間は、それぞれが造り主である神さまから存在の意味と価値を与えられています。それぞれの存在が意味あるものであり価値あるものです。そして、造り主である神さまの祝福の下に、神さまを礼拝することを中心として、意味あるものと価値あるものを生み出す文化的な活動をします。それとともに、その文化と文化的な活動を受け継ぐ形で造られていく人間の歴史全体にも、意味と価値があるということを意味しています。
 このことは、後ほどその個所を取り上げるときにお話ししますが、2章1節〜3節に記されているように、天地創造の御業の記事の中では、神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福してくださり聖別してくださったことと関わっています。この天地創造の第七日は、神のかたちに造られて、この世界のすべてのものを治める使命を委ねられている人間が造り出す歴史となっています。
 いずれにしましても、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という造り主である神さまの祝福の言葉は、神のかたちに造られている人間がなす、神さまへの礼拝を中心とした文化的な活動を支えているとともに、それが子々孫々と受け継がれて歴史を造り出すことをも支えています。また、歴史は文化の継承という形で造られていきますので、歴史を造ることには文化的な活動が含まれています。その意味で、この造り主である神さまの祝福の言葉は、「文化命令」と呼ぶよりは、「歴史形成の命令」と呼んだ方がいいと思われます。あるいは、一般的に通用している「文化命令」と関わらせて「歴史と文化を造る命令」とすれば分かりやすいかもしれません。

 


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