(第39回)


説教日:2005年2月6日
聖書箇所:創世記1章26節〜31節
説教題:語りかけによる祝福


 これまで、創世記1章26節、27節に記されていることに基づいて、神さまが人を神のかたちにお造りになったことについてお話ししてきました。そのお話は前回のお話をもって終ることにいたします。今日から、これに続く28節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されている御言葉についてお話しいたします。
 ここに記されています、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という神さまの命令は、一般に「文化命令」と呼ばれています。それは、この神さまの命令が人間の文化的な活動の基礎になっているという理解によっています。この点については改めてお話しすることとしまして、今日は、この28節に記されていることを、創造の御業の記事の流れの中で見たときに考えられることについてお話ししたいと思います。
 28節の書き出しを直訳調に訳しますと、

そして、神は彼らを祝福された。そして、神は彼らに言われた。

となります。新改訳にある「このように」という言葉は原文にない補足です。ここでは、「神は」という主語が繰り返されており、「祝福された」ということと「言われた」ということが定動詞で表されています。ここでは「そして、神は『何々』された。」という同じ構造の二つの独立した文が組み合わされています。これによって、神さまが神のかたちに造られた人を祝福してくださったことと、神さまが神のかたちに造られた人に語りかけてくださったことが同じように大切なこととして記されているのです。
 このことは、意図的になされたことであると考えられます。それは、これを22節に記されている生き物たちへの祝福に関する記事と比べるとよく分かります。22節には、

神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」

と記されています。
 この導入に当たる言葉は、

神はまた、それらを祝福して仰せられた。

と訳されています。これですと、神さまが祝福されたことと「仰せられた」こととの意味の上での重さははっきりしません。実は、ここでは、中心となる定動詞は「祝福して」と訳されていて、「仰せられた」と訳されている言葉は、定動詞ではなく分詞(レーモール)で表されています。ですから、これは、神さまが、

生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。

と仰せられて、彼らを祝福されたということを示しています。そして、この分詞で表されている「仰せられた」と訳されている言葉(レーモール)は、直接話法を導入する言葉で、日本語で言えばカギカッコに当たるものです。その意味で、これは、天地創造の御業の記事に繰り返して出てくる、神さまの「創造の御言葉」を導入する、

そして、神は「何々」と仰せられた。

という言葉に出てくる「仰せられた」ということと違っています。これらの「創造の御言葉」を導入する言葉の中の「仰せられた」は定動詞によって表されています。
 このように、22節に記されている生き物たちへの祝福においては、神さまは祝福の言葉を語られましたが、それは、神さまの主権的で一方的な祝福の宣言であって、生き物たちに対する語りかけではありません。生き物たちはその神さまの祝福の言葉を聞いているわけではありませんし、理解し受け止めているわけでもありません。
 これに対しまして、28節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されている、神のかたちに造られている人間に対する祝福においては、神さまはその祝福の言葉を人間に向かって語りかけておられます。そして、人間は、造り主である神さまの祝福の言葉を聞いており、それを理解し受け止めているのです。もちろん、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という神さまの祝福の言葉は、天地の造り主である神さまの主権的な御言葉です。それは神さまの一方的な恵みによる祝福を宣言するものです。けれども、生き物たちへの祝福の場合と違って、神のかたちに造られている人間は神さまの祝福の言葉を聞いて理解し、受け止めるているのです。


 この神のかたちに造られている人間に対する祝福の宣言による語りかけは、26節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されていることを受けています。ここに記されている神さまの「創造の御言葉」に当たる言葉の後半において、

そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。

と言われている言葉が、28節に記されている、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という祝福の言葉に反映しています。ですから、28節に記されている神さまの祝福の言葉は、26節に記されている神さまの「創造の御言葉」に基づいて語られています。
 このつながりに注目して、改めて、26節を見てみますと、そこには、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されています。すでにお話ししましたように、啓示の歴史のこの段階では、神さまが三位一体の神であられることが示されているわけではありませんが、ここに記されている神さまの言葉における「われわれ」は、神さまの人格の複数性を示しています。ここには、天地創造の御業の遂行の中で、神さまの人格間の語りかけが記されています。
 そして、これを受ける形で、28節には、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。先ほどお話ししましたように、ここでは、神さまが、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という祝福の言葉をもって、神のかたちに造られている人間に語りかけておられるということが示されています。つまり、26節の段階で神さまの人格間の語り合いであったことが、28節の段階においては、神さまによる神のかたちに造られている人間への語りかけとして表されているのです。
 この点において、神のかたちに造られている人間の特徴が表されています。同じく、造り主である神さまの主権的で一方的な恵みによる祝福を受けていますが、神のかたちに造られている人間は、他の生き物たちと違って、神さまのうちにあるご計画を、神さまからの語りかけを聞くことによって理解することができます。
 けれども、それは、神さまの人格間の語り合いに参加することとは根本的に違います。神さまの人格間の語り合いは、神のかたちに造られている人間の存在と使命のあり方を決定する、いわば「根源的な」語り合いです。それに、被造物である人間は参加することはできません。ローマ人への手紙11章33節〜36節には、

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

と記されています。
 創世記1章28節に記されている、造り主である神さまの神のかたちに造られている人間への語りかけは、26節に記されている神さまの人格間の語り合いにおいてすでに定められていることを啓示してくださるための語りかけです。そのために、その語りかけの言葉は命令の形で語られています。これによって、創造者としての神さまの主権性が明確に示されています。
 このように、私たち人間がどのような存在であり、神さまがお造りになったこの世界においてどのような位置と使命を委ねられているかという、私たちの存在にとって最も基本的な意味は、26節に記されている、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。

という、神さまご自身の人格間の語り合いにおいて決定されています。
 大切なことは、神さまがこれを神のかたちに造られている人間に語りかける形で啓示してくださっているということです。それによって、人間は、造り主である神さまが自分たちを御前に意味のある存在としてお造りくださったこと、したがって、自分が自分の存在の意味を究極的に決定する者ではないということをわきまえます。もちろん、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、自分が自分自身の存在の意味を決定する者であるかのように錯覚してしまっています。しかし、それは神のかたちに造られている人間の本来の姿ではありません。神のかたちに造られている人間は、その本来の姿においては、造り主である神さまが自分の存在に意味を与えてくださっておられることを認めます。その上で、神さまが啓示してくださった人間の存在のあり方と、その位置と使命をわきまえ、自覚的にそれに沿って生きることによって、いわば「派生的に」意味を生み出す者であるのです。
 この点に、神のかたちに造られている人間の自由の基礎があります。人間の自由は神のかたちとしての人格的な自由です。その自由は、自らに与えられている自由な意志によって生きることにあります。神のかたちに造られている人間はすべて、自らの自由な意志によって生きるものとして造られていますので、自分の意志で自ら生き方を選び取っています。しかし、それでただちに自由であると言うことはできません。自分の意志で生きている者が、意味のない活動を繰り返し選び取っているとしたら、それは真の意味で自由であるということはできません。ヨハネの福音書8章34節に記されていますように、イエス・キリストは、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。

と教えておられます。
 このことから、人間の自由には二つの面があることが見て取れます。これは、キリスト教弁証学において言われる形而上的な面と倫理的な面の区別と関係に対応しています。
 一つは、形而上的な面に当たることです。すべての人は神のかたちに造られていて、自由な意志を与えられているということです。そして、実際に、自分の意志で自らのあり方、生き方を選び取っているということです。これは、原理的に、すべての人に当てはまります。そして、このことは、人が神のかたちに造られている者であることが変わらない以上、変わることはありません。
 ここで「原理的に」と言いましたのは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後の時代においては、自由な意志の働きに重い障害をもって生れてこられる方々がおられるからです。すでにお話ししましたように、その方々も神のかたちに造られており、神のかたちです。神である主の選びの恵みの中にある方々は、主の贖いの御業を通して回復され、イエス・キリストの栄光のかたちにまったくあずかることになります。
 もう一つの面は、倫理的な面です。これは、今お話ししました形而上的な面を踏まえて、その上に成り立っている面です。今お話ししましたように、すべての人は神のかたちに造られていて、自由な意志を与えられてもっています。そして、実際に、自分の意志によって生きており、自分の意志によって自らのあり方と生き方を選び取っています。このために、神のかたちに造られている人間は、造り主である神さまに対して責任を負っています。これが倫理的な面です。
 人は自分の自由な意志によって自らのあり方と生き方を選び取っていますが、その自由な意志が真に自由であることは、それによって自らの存在の意味を満たすことにあります。無意味なあり方や生き方を選び取ることは、真の意味で自由ということはできません。そして、人間の存在の意味の源は、神さまが人間を神のかたちにお造りになったということにあります。ですから、神のかたちに造られている人間は、神のかたちとしての特性を発揮すすることにおいて、自由であることができます。そして、神のかたちに造られた人間のいのちの本質は造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることと、隣人との愛にある交わりに生きることにあります。それで、人間は、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりと、隣人との愛の交わりに生きることにおいて、真の意味で自由であることができます。
 この点において、すなわち、倫理的な面において、人は自由を失うことがあります。人が神のかたちに造られていて、自由な意志を与えられている、それで、実際に、自分の意志で自らのあり方、生き方を選び取っているということがなくなるということではありません。そのような自由な意志が罪によって腐敗してしまうことがあるのです。そして、実際に、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、人の本性が腐敗したために、その自由な意志も腐敗してしまいました。その結果、人は自分の意志で、神さまを神としては認めず、自分を神の位置に据えるような生き方を選び取っています。
 それが、自分の意志によるという形而上的な面では変わりがありません。しかし、罪の自己中心性によって自分の意志の働きが導かれているという倫理的な面では、罪の腐敗が、その意志の働きを歪めているのです。この状態が、イエス・キリストが、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。

といわれた状態です。
 かつて私たちは、そのような状態にありました。しかし、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって、真の自由をもつものとして回復されています。先ほど引用しましたヨハネの福音書8章の36節には、

ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。私たちの贖い主となってきてくださった神の御子が、私たちをその贖いの御業を通して私たちを自由にしてくださるなら、私たちは真の意味で自由な者となります。また、ガラテヤ人への手紙5章13節、14節には、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。

と記されています。
 人は造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして、また隣人への愛の交わりに生きるものとして、神のかたちに造られています。それが、人の自由の特性を決定しています。私たちの自由な意志が愛に導かれ、愛を表わすように働くときに私たちは、神のかたちに造られている者としての真の自由のうちにあります。
 それとともに、神のかたちに造られている人間には、神さまがお造りになったこの世界とその中に生きるものを治める使命が委ねられています。詳しいことは改めてお話ししますので、ここでは結論的なことしか言えませんが、その使命も、神のかたちに造られている者としての愛を、神さまがお造りになったものに向けて表していくことによって果たされます。その意味で、造り主である神さまが親しく語りかけてくださって委ねてくださった使命も、神のかたちに造られている者としての自由の中で果たされていきます。

 


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