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説教日:2004年12月5日 |
私たちそれぞれが神のかたちに造られているものとして我と汝の人格的な関係の中にあるということには、より根源的な基盤があります。1章26節に記されているように、神さまは、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 と言われました。このことは、神さまご自身のうちに人格の複数性があり、真の意味での我と汝の人格的な交わりがあるということを意味しています。それは、この1章26節からは明確に分かりませんが、後の啓示の光に照らして言いますと、御父、御子、御霊の間の人格的な交わりです。無限、永遠、不変の人格であられる御父、御子、御霊の間の無限に豊かで永遠に変わることがない交わりがあるのです。これこそが、この造られた世界における人格的な存在の間における我と汝の交わりの土台となる根源的な交わりです。 このことは、いろいろな機会にお話ししましたが、何よりも、ヨハネの福音書1章1節〜3節に記されているみことばにおいて示されています。そこには、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。 1節で、 初めに、ことばがあった。 と言われているときの「初めに」は、創世記1章1節に、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されているときの「初めに」に当たります。ヘブル語の旧約聖書においては、それぞれの書の最初のことばがその書のタイトルとなっています。それで、創世記のヘブル語のタイトルは「初めに」です。ですから、ヨハネの福音書の最初の読者たちにとっては、 初めに、ことばがあった。 ということが天地創造の初めのことを述べているということは、私たち以上に理解しやすかったと考えられます。 また、この、 初めに、ことばがあった。 の「あった」ということば(エーン)は未完了形で、過去における継続を示しています。それで、天地創造の初めにすべてのものが造り出された時には、「ことば」はすでに継続して「あった」のです。それで、「ことば」はこの世界とその時間の中にある方ではなく、それらを越えた方であることが示されています。3節では、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と言われていて、この方が、実際に天地創造の御業を遂行されたということが示されています。 今お話ししていることとのかかわりで注目すべきことは、1節で、 ことばは神とともにあった。 と言われていることです。この「神とともに」ということば(プロス・トン・セオン)は、永遠の「ことば」が父なる神さまの方を向いているという意味合いを伝えています。このことは、18節において、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と記されている中で、永遠の「ことば」のことが「父のふところにおられるひとり子の神」と呼ばれています。これは、永遠の「ことば」が父なる神さまの愛のうちにおられることを示しています。 さらに、1節で、 ことばは神とともにあった。 と言われていることは、2節において、 この方は、初めに神とともにおられた。 と言われていて、繰り返されているだけでなく、「初めに」ということばによって、それが永遠のことであることが強調されています。このように、父なる神さまと御子との間には永遠に愛の交わりがあります。それは、三位一体論的に言いますと、御霊による交わりであるということになります。この御霊による御父と御子の交わりが、今お話ししていることとのかかわりでは「根源的な交わり」です。 3節に記されている、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 ということは、造られた「すべてのもの」は、御霊によって永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる方によって造られたということを意味しています。つまり、創造の御業は、御霊による御父と御子との永遠の愛の交わりが、永遠の「ことば」であられる御子をとおして、造られたこの世界に向けて表現されたものであるということになります。そして、それは父なる神さまのみこころから出たことであり、御霊のお働きによって、この世界に実現しているということになります。 このようなわけで、神さまがお造りになったこの世界には、神さまの愛といつくしみが満ちあふれています。このような世界にあって、神のかたちに造られている人間は、造られたものとしての限界においてではありますが、御霊による父なる神さまと御子との永遠の愛の交わりを映し出すものとして造られています。それは、まず、自分たちの間における我と汝(わたしとあなた)の人格的な交わりにおいて、御霊による父なる神さまと御子との永遠の愛の交わりを映し出すことから始まります。そして、神さまがお造りになったすべてのものを治めるという、神のかたちに造られている人間に委ねられた使命を遂行することにおいて、自分たちの愛を外に向かって表現していくことにつながっています。それは、今お話しした、ヨハネの福音書1章1節〜3節に記されていることにおいて、1節、2節に記されている、父なる神さまと永遠の「ことば」の愛の交わりが。3節に記されている、永遠の「ことば」による創造の御業において、ご自身の外、すなわち造られた世界に向けて表現されていることと対応しています。 このように、神のかたちに造られている人が我と汝の人格関係のうちに生きるものとして造られていることは、造り主である神さまご自身のあり方を、この造られた世界の中で映し出すことであるのです。そのような重い意味をもっていることであるので、人の創造に当たって、神さまは、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 という、熟慮による決意をされたわけです。 念のために申しますと、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 という神さまの決意は、神さまが創造の御業を遂行しておられる中でなされた決意です。もちろん、これは創造の御業を遂行してこられた神さまがこの時になって初めてこのようなことを考えつかれたということではありません。エペソ人への手紙1章3節〜5節に、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されていますように、これは神さまの永遠の聖定に基づくものです。神さまは永遠の聖定に基づいて創造の御業と摂理の御業、そして贖いの御業を遂行されます。 そうしますと、すでに永遠の聖定において決定されていることなのにどうして、創造の御業を遂行される中で、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 という決意をされたのかという問題が出てくるかもしれません。 これに対しては、創造の御業がこの世界に対する神さまの働きかけであり、神さまは創造の御業をこの時間的・歴史的な世界に合わせて遂行しておられることに注目しなければなりません。神さまは、一瞬のうちに完成した世界をお造りになることができます。けれども、実際には、そのような形で創造の御業を遂行なさいませんでした。時間的にも空間的にも秩序立てられた過程を経て、つまり、その一つ一つの過程を生かす形で、創造の御業を遂行されました。神さまは、ご自身が永遠の聖定において定められたことを創造の御業をとおして実現しておられるのですが、擬人化した言い方になりますが、お造りになる一つ一つのものに心を注いでお造りになっておられるのです。それが、創造の御業の中で繰り返しなされている、神さまがみことばの語りかけをもって一つの一つのものをお造りになり、ご自身のお造りになったものを改めてご覧になってよしとされたということに現れてきています。そして、いよいよ人を神のかたちにお造りになるに当たっては、造り出される人により深く心をお注ぎになって、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 という決意を新たにされたということです。 創造の御業の中で神さまがこのような決意をされたときには、そこに神さまの位格の間の意志の通わしがあります。それも神さまの位格の間の交わりの現れですが、先ほどお話ししましたように、それは創造の御業を遂行される中でのことです。神さまの位格の間の交わりそのものは、このことのさらに奥にあります。無限、永遠、不変にして自己充足の神さまは、永遠に御父、御子、御霊の無限の愛の通わしのうちに存在しておられます。創造の御業においては、その愛がご自身の外に向けて表現されています。そして、神さまがお造りになった世界においてその愛を映し出す存在が、神のかたちに造られている人間です。神のかたちに造られている人間は、また、この造られた世界において、神さまの愛を受け止める存在でもあります。 神のかたちに造られている人間が、神さまがお造りになったこの世界において神さまの愛を映し出す存在であることと、この世界において、神さまの愛を受け止める存在であることは、一つのことの裏表です。神のかたちに造られている人間は、神さまが創造の御業においてこの世界に向けて表しておられる愛を受け止めることによって、自分たちの間において愛を表し、三位一体の神さまの位格の間の愛の交わりを映し出すのです。そして、このすべてのことは、神のかたちに造られている人間の間でお働きになる御霊によって、現実のものとなります。 そうしますと、神のかたちに造られている人間が、神さまがこの世界に向けて表しておられる愛を受け止めることは、ただ、人間が造られた世界を眺めて、そこに表されている神さまの愛といつくしみを受け止めるというだけのことではありません。神さまの愛は、造られた一つ一つのものにふさわしく、一つ一つのものに合わせて表されています。神のかたちに造られている人間に向けられた神さまの愛は、神のかたちに造られている人間にふさわしい形で表されています。それで、その神さまの愛を受け止めることは、何よりもまず、自らが神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることの中でできることです。ですから、人はまず造り主である神さまの愛に包まれて、神さまご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることにおいて、神のかたちに造られているものとしてのいのちを表します。その神さまとの愛にあるいのちの交わりの中で、お互いに出会い、我と汝の人格的な関係を築いていきます。 このように、神のかたちに造られている私たちの人格的な関係は造り主である神さまとの人格的な関係を最も基本的な関係としており、その上に立って私たちお互いの出会いと交わりがあります。このこととのかかわりで、さらにいくつかのことを心に留めておきたいと思います。 まず、復習になりますが、私たちが神のかたちに造られているということ自体の意味を確認しておきたいと思います。私たちが神のかたちに造られているというときの、神のかたちは私たちの一部分のことではなく、肉体と霊魂からなる私たち自身が神のかたちであるということです。そして、この神のかたちについては、造り主である神さまご自身が「われわれのかたち」、「われわれの似姿」と言っておられます。このことから分かりますように、私たちが神のかたちに造られていて神のかたちであるということは、私たちが特別な意味で造り主である神さまの栄光を映し出すものであることを意味しています。 このように神のかたちは造り主である神さまの栄光を映し出すものとしての、いわば派生的な栄光と尊厳性を担っています。もちろん、派生的であるからといって軽いものではありません。それは、神さまご自身が「われわれのかたち」、「われわれの似姿」と言っておられることにある栄光であり尊厳性です。このような、私たちの神のかたちとしての栄光と尊厳性は、私たちが人格的な存在であることにあります。その意味で、私たちの神のかたちとしての栄光と尊厳性は私たち自身の存在そのものにあります。 このことを踏まえたうえでさらに考えるべきことですが、私たちが神さまの栄光を映し出すということは、神のかたちに造られている私たちが、それゆえに人格的なものとして、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることと、そのような者としてお互いが出会ってお互いの愛にある交わりに生きることに、具体的に現れてきます。そして、私たちには、この造り主である神さまとの愛にある交わりと、お互いの愛による交わりを具体的に現すためにさまざまな能力が与えられています。その意味で神のかたちに造られている私たちに与えられている能力は、神さまとの愛にある交わりとお互いの間の愛にある交わりの中で用いられるべきものであるのです。言い換えますと、神のかたちとしての人間に与えられているさまざまな能力は、本来は愛の中でその力を発揮し、愛を表現するものであるのです。 このことは、御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただき、イエス・キリストのよみがえりにあずかって新しく生まれている者たちの共同体としてのキリストのからだである教会において、その本来の姿、あり方を回復されています。それは、二つの点に現れてきます。 一つは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって罪を贖われ、新しく生まれている者の共同体である教会においては、私たちに与えられているさまざまな能力は「賜物」としての意味をもつようになっています。それは、コリント人への手紙第一・12章7節に、 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。 と記されていますように、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊の現れとしての賜物で、「みなの益となるために ・・・・ 与えられている」のです。それは、自分たちに与えられたさまざまな賜物を用いて、お互いに仕え合うためのものです。その意味で、私たちに与えられている賜物は、愛の中で用いられるべきものであるのです。そして、そのような理由によって、同じコリント人への手紙第一・12章31節には、 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。 と記されています。これは、私たちがお互いに対してよりよく仕えることができるようになるためのことです。それで、この31節では、これに続いて、 また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。 と言われており、続く13章1節〜3節においては、 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 と言われているのです。 もう一つのことは、いまお話ししましたように、私たちそれぞれに与えられている賜物は、私たちが愛にある交わりの中で、その賜物をもってお互いが仕え合うために与えられていますが、そのことによって、私たちそれぞれが御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていき、全体としてはキリストのからだである教会がキリストのからだとして成長するようになるということです。ですから、賜物を持つことは、愛を具体に現してお互いに仕え合うための手段であって、賜物を持つこと自体は目的ではありません。さらに、私たちが愛にある交わりの中で、それぞれに与えられた賜物をもってお互いに仕え合うことは、それによって、お互いが御子イエス・キリストの栄光のかたちに似た者に成長していくため、また、キリストのからだである教会がキリストのからだとして成長していくためです。 ですから、私たちそれぞれが御霊のお働きによって御子イエス・キリストの栄光のかたちに似た者として造り変えられて、成長することが賜物を与えられて持っていることの目的です。そして、私たちが御子イエス・キリストの栄光のかたちに似た者となるということは、天地創造の御業の初めに人が神のかたちに造られたときの、神のかたちの栄光と尊厳性がより充満な栄光と尊厳性を帯びたものとなるということを意味しています。それによって、私たちが、愛といつくしみに満ちた神さまの栄光を、私たちがお互いの間で我と汝(わたしとあなた)の人格的な出会いと交わりをとおして映し出し、あかししていくようになるのです。 |
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