(第37回)


説教日:2004年11月7日
聖書箇所:創世記1章26節〜31節
説教題:神のかたちと人格的関係性


 今日もこれまでお話ししてきました、人が神のかたちに造られていることの意味についてのお話を続けます。今日取り上げるのは、創世記1章26節、27節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されていることを受けて、神のかたちは人が男性と女性に造られたことにあるという見方です。これはカール・バルトの見方ということで知られています。神のかたちは男性と女性の区別と関係にあるというのです。
 このことをさらに広げていきますと、神のかたちは人と人との間の区別と関係、つまり「我と汝」の関係にあるということになります。それで、神さまと人との類似は存在の類比ではなく、関係の類比であるとされます。
 存在の類比というのは、「存在という概念」が絶対的な存在である神さまから始まって感覚的な存在に至るまでの段階的な存在に対して類比的に適用されるという理解の仕方です。これを神さまと人の関係について言いますと、神さまと人間の間に、存在における区別とともに類似性があるということになります。神さまと人はともに「存在している」あるいは「存在である」のですが、二つの存在は類比的であるということです。このことから、人は神さまを存在の類比によって認識するという考え方が生まれてきます。神さまの存在のことを、自分たち人間やそのほかの存在との類比によって理解するということです。
 なるほどという感じがしますが、これですと、たとえ神さまは完全な存在であり、人は限界のある存在であるというということであっても、神さまの存在と人間の存在がどこかで連続しているようなことになってしまいます。つまり、神さまと人間が存在論的につながってしまい、創造者と被造物の絶対的な区別、すなわち神さまの聖さが見失われてしまう危険があります。あるいはこれが、神さまと人に共通する「存在という概念」があるという形でとらえられますと、神さまを規定する概念、この場合は「存在という概念」ですが、そのようなものがあるということになってしまいます。そうしますと、いかなる存在であっても概念であっても、神さまを越えるものはない、ということが否定されてしまうことになります。
 存在の類比は哲学的な存在論の理解の枠内で最高存在に「神」を位置づけ、その枠の中で人間やその他の存在も位置づけるということによって成り立っています。それで、初めからその哲学的な存在論の発想によって制約されてしまっています。そのために、「神」と人間が存在論的にどこかでつながってしまって、造り主である神さまと被造物との間の絶対的な区別があいまいなことになってしまう危険性が生まれてきてしまうのです。これは、自然を基礎に据えて恩恵をその上に置くという形の、自然と恩恵の二重構造という実在の理解をするローマ教会の立場で成り立つものです。
 しかし、そのように神学的に自覚されていなくても、実質的にこれと同じように理解している人々は、私たちの間にも見られます。たとえば、この世界には、神さまもいらっしゃれば、自然や人間や生き物たちもある、というような感じ方をしてしまうことはないでしょうか。あるいは、神さまは世界の最高存在であり、その下に神さまより小さな存在がたくさんある、というような感じ方をしてしまうことはないでしょうか。そうしますと、神さまと人間が同じ世界にあるものとしてつながってしまいます。また、神さまと自然や人間や生き物たちを含んでいる世界の方が神さまより大きいということになってしまいます。このような問題に気がつかないままに、漫然と、神さまについてこのようなイメージをもってしまうことがあり得ます。
 いずれにしましても、神さまと人との関係を、存在論的にどこかでつながっているという形でとらえることは、神さまと人間との間にある絶対的な区別、すなわち神さまの聖さを危うくしてしまいます。そこからさらに、罪あるこの世界においては、人間の神格化、被造物の神格化が生み出される危険性があるわけです。それで、神さまと人との関係の基礎になっている神のかたちを存在の類比に沿って理解しないで、関係の類比で理解すべきであるという主張がこの見方の背景にあります。[実はこれには、人が神さまを知るのは「信仰の類比」によらなければならないという主張がかかわっているのですが、話がややこしくなりますので、その点は省略します。]
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 関係の類比というのは、神さまも人間も「我と汝」という人格的な関係のうちに存在しているということにおいて類似しているということです。
 創世記1章26節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されています。ここで神さまが「われわれ」と言っておられることに、神さまが「我と汝」という人格的な関係のうちにおられることを見て取ることができます。すでにお話ししましたように、ここで神さまが「われわれ」と言っておられるときの「われわれ」は、神さまの人格の複数性を示していると考えられます。その意味で、ここで神さまが、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。

と言っておられることには人格的な関係における交わりがあることが認められます。
 そして、27節には、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されています。ここで男性と女性に創造されたと言われている人の間にも「我と汝」の人格的な関係があることを見て取ることができます。これらのことから、神さまと人との間に関係の類比が成り立つと考えるわけです。そして、人が神のかたちに造られたというときの神のかたちは、人が男性と女性に造られたことにあると考えるのです。
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 今お話ししたことから、この見方はとても大切なことを示していることが感じ取れます。けれども、ここで問題としている「神のかたちとはどのようなものか」ということに限ってみますと、この、神のかたちは人が男性と女性に造られたことにあるという見方は成り立たないと思います。
 まず、27節で、

男と女とに彼らを創造された。

と言われているときの「」ということば(ザーカル)と「」ということば(ネケーバー)は、ともに生物学的なことばで、英語の male とfemale に当たります。もし、ここで男性と女性の間に「我と汝」という人格的な関係があるということを示そうとしていたのであれば、このような生物学的なことばではなく、「ふさわしい助け手」としての女性の創造を記している2章23節〜25節に用いられている「」(イーシュ)と「」(イッシャー)ということばを用いていたことでしょう。
 また、27節に記されていることをそれぞれの部分に分けてみますと、第一に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。

第二に、

神のかたちに彼を創造し、

第三に、

男と女とに彼らを創造された。

というように三つの部分に分けられます。
 新改訳では、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。

が独立していて、

神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

というように最後の二つがつながっているようになっています。しかし、ヘブル語本文の区切りでは、最初の二つがつながっていて、その後に文の中の大きな区分を示す記号があります。ですから、最後の、

男と女とに彼らを創造された。

がその前の二つとは区別されるわけです。
 神のかたちは人が男性と女性に造られたことにあるという見方では、

男と女とに彼らを創造された。

と言われているのは、

すなわち、男と女とに彼らを創造された。

というように、それに先だって人が神のかたちに造られたと言われていることの「定義」を述べているということになります。けれども、この、

男と女とに彼らを創造された。

ということばは、必ずしも、このように理解しなければならないわけではありません。むしろ、これは、男性も女性も神のかたちに造られているということを示すために加えられたことばであると考えた方がよいと思われます。それで、次に、この点について、いくつかのことをお話ししたいと思います。
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 すでに繰り返しお話ししましたが、創造の御業の記事にはそれを構成しているいくつかの要素があります。その中心は神さまの「創造のみことば」です。それはこの場合には、26節に記されている、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。

という神さまのことばです。そして、27節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されているのは、それに対する補足的な説明文です。また、この補足的な説明文は27節で終わっているのではなく、28節〜30節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

と記されていることにまでつながっています。
 このことを視野において見ますと、26節に記されている、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

という神さまの創造のみことばにおいては男性と女性のことは触れられていません。男性と女性のことは、補足的な説明文である27節において述べられています。
 そして、この27節に記されている、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

ということばは、26節に記されている、神さまが言われた、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

ということばを受けて、それを説明しているのですが、それとともに、28節に記されている、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

ということへの導入ともなっていると考えられます。というのは、28節に記されている神さまの祝福のことばの冒頭の、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。

ということは、人が男性と女性に造られたことを前提としているからです。その意味で、この神さまの祝福のことばは、27節に記されている、

男と女とに彼らを創造された。

ということばにつながっています。しかも、先ほどお話ししましたように、この27節で用いられている「男と女」という言葉は生物学的なことばですから、よりいっそう、28節に記されている神さまの祝福のことばの冒頭の、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。

ということへのつながりが感じられます。
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 これと同じように人が神のかたちに造られたことを記している創世記5章1節、2節を見てみましょう。そこには、

これは、アダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。

と記されています。冒頭の、

これは、アダムの歴史の記録である。

ということばは、5章1節〜6章8節に記されている記事の「見出し」に当たります。それに続く部分において、1節は、

神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、

で終わっています。ですから、これは、

神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られた。

というように、独立しているわけです。そして、これに続く、

男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。

ということは、2節に記されています。
 このように、5章1節、2節においては、人が神のかたちに造られたことと、男性と女性とに造られたことはより明確に区切られています。そして、人が男性と女性に造られたことは、その後になされた祝福と結び合わされています。2節に「神は彼らを祝福して」と記されていることは、1章28節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることに当たると考えられます。
 このことは、すでにお話ししました、1章27節で、

男と女とに彼らを創造された。

と言われていることが、28節に記されている

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

ということを導入する役割も果たしているということを支持します。
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 これらのことから、27節の最後に記されている、

男と女とに彼らを創造された。

ということは、28節に記されている、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。

という神さまの祝福のことばにつながっているということが分かります。
 そうであれば、5章1節、2節に記されているのと同じように、27節の最後に記されている、

男と女とに彼らを創造された。

ということは、28節の方にもってきて、28節を、

そして神は、彼らを男と女に創造された。そして神は彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。 ・・・・

というようにした方がよかったような気がします。
 そればかりでなく、文章としましても、このようにした方がすっきりすると思われる点があります。
 一つには、そのようにしますと、28節は「彼ら」という複数形でまとまりますし、27節は、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造された。

というように、「」と「」という単数形でまとまります。
 もう一つは、新改訳でもなんとか分かりますが、27節のこの部分は、

神は人を創造された(a)、ご自身のかたちに(b)
神のかたちに(b)、彼は彼を創造された(a)

というように、交差対句法(キアスムス)によって表わされていて、ひとまとまりをなしています。
 ですから、27節を、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造された。

で終らせて、

男と女とに彼らを創造された。

ということを28節の方にもってきて、28節を、

そして神は、彼らを男と女に創造された。そして神は彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。 ・・・・

というようにした方が文章としてもすっきりします。
 けれども実際にはそうなっていなくて、

男と女とに彼らを創造された。

ということは27節に置かれています。
 これらのことを考え合わせますと、この、

男と女とに彼らを創造された。

ということが27節に置かれて、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造された。

ということの後に記されていることは意図的になされたこと、あえてそのようにされたことであるという感じがします。
 そうしますと、なぜそのようにしたのかということが問題となります。それは、やはり、

男と女とに彼らを創造された。

ということを、27節に記されている、人が神のかたちに創造されたことと結びつけることによって、男性も女性も神のかたちに創造されているということがより明確に示されることになるからであると考えられます。
 繰り返しになりますが、もし、

男と女とに彼らを創造された。

ということを28節に含めて、

そして神は、彼らを男と女に創造された。そして神は彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。 ・・・・

としますと、27節の方は、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造された。

ということになります。この方が数がそろいますし、主題的にも統一感が出てきます。けれども、そうしますと、神のかたちに造られたのは「」(ハーアーダーム)すなわち男性だけで、女性は子どもを産むために造られたというような考え方が生まれてくる可能性もあります。実際、それは、罪によって堕落した人類の歴史の中で、根深く残ってきた考え方です。そのような誤解を避けるためにも、ここではあえて、

男と女とに彼らを創造された。

ということを、27節に記されている、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造された。

ということの後に記しているのだと考えられます。
 このように、27節において、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と言われている中の、

男と女とに彼らを創造された。

ということばは、その前に記されている「」が神のかたちに造られているということの「定義」を記しているのではなく、男性も女性も等しく神のかたちに創造されていることを示していると考えられます。
 それで、創世記1章26節、27節に記されていることから、神のかたちは人が男性と女性に造られていることにあるという結論を導き出すことはできないと言わなければなりません。
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 これと関連して、さらに、注目すべきことがあります。それは、聖書の全体をとおして言えることですが、神のかたちのことが記されているときに、神のかたちが男性と女性の関係を意味しているという形で取り上げられている個所がないということです。聖書において、男性と女性の関係が神さまに関わることとして取り上げられているときには、一貫して、主とその契約の民の関係、キリストとそのからだである教会の関係を表すために用いられています。そして、三位一体の神さまの位格の間の関係を表すために、この男性と女性の関係が用いられることはありません。言うまでもなく、三位一体の神さまの位格の間の関係を表すためには、父と子の関係が用いられています。
 このことも、神のかたちは男性と女性の関係にあるのではないという方向を示しています。
 このように、神のかたちは、男性と女性の関係、さらにより広く、「我と汝」の関係といった関係性にあると理解すべきではなく、男性であれ女性であれ、一人一人の人間が、それぞれ神のかたちに造られていると考えるべきです。
 このことは、これまでお話ししてきました、肉体と霊魂が結び合って成り立っている人格としての個々の人間が神のかたちに造られており、一人一人の人間が神のかたちである、という考え方を支持するものです。

 


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