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説教日:2004年10月3日 |
このように、神のかたちは人に与えられている支配権にあるという考え方には、みことばの根拠がありません。 神のかたちは人に与えられている支配権にあるという考え方は、神のかたちを人間の存在そのものに結びつけるのではなく、人間の働きに結びつけるものです。一般に言われている、ビーイング(being・存在)とドゥーイング(doing・行ない)のうち、神のかたちをドゥーイング(doing・行ない)の方にあるとするということです。 このことから、神のかたちはすぐれた能力やすぐれた機能にあるというような考え方が生まれてきます。人間はほかの生きものたちよりもすぐれた能力や機能を備えているから神のかたちである、というような考え方です。そして、そこから、さらに、能力や機能においてすぐれている人ほど、神のかたちとしての栄光が豊かであるというような考え方が生まれてくる可能性があります。日本の社会でも、ある才能に特に秀でている人がいますと、「何々の神様」というように呼ばれます。先ほどの、王族など支配者の家系が神の子の家系であるというような考え方は、このような考え方の延長線上にあります。 しかし、繰り返しになりますが、みことばは、神のかたちは人に与えられている支配権にあるという考え方を支持してはいません。それで、このような能力や機能をを中心として神のかたちを考える考え方への道を開いてはいません。 すでにお話ししましたように、神さまが、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 と言われたことや、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 というみことばが示しているのは、人間が神のかたちに造られているということです。 それで、神のかたちは霊魂にあるのであって、肉体は神のかたちではないというように考えることはできません。創世記9章6節には、 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 神は人を神のかたちに お造りになったから。 と記されています。ここでは、人のいのちを損なうことは、神のかたちの栄光と尊厳を損なうことであることが示されています。またここでは、「血を流す」ということが問題になっています。それは、肉体的なことです。その意味で、肉体と霊魂を区別して、霊魂だけが神のかたちであるというような考え方をしていません。やはり、肉体と霊魂から成り立っている人間そのものが神のかたちであり、神のかたちの栄光と尊厳を担っているのです。 ですから、神のかたちは人間の一部分のことではありませんし、人間の中にある何かでもありません。人間そのものが神のかたちなのです。人間の能力や機能は、それがどんなにすぐれていたとしても、人間に備えられたものです。その意味で、人間の一部分あるいは一面です。それを神のかたちと同一視することはできません。 ここで、 神は人を神のかたちに お造りになったから。 と言われているときには、「人を」というように一般的な言い方がされています。それは、1章27節で、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と言われているときも同じです。神さまはすべての「人を」神のかたちにお造りになったのです。その際に、1章27節ででは、男性も女性も同じように神のかたちに造られているということを述べています。その当時の文化の発想では、そこに女性が数えられない可能性があったからです。そのようなわけで、ここには、優れた能力を備えた人が神のかたちであるというように、ある特定の人を区別して、その人々を特別視するという発想はありません。 このように、人間が神のかたちに造られています。それで、神のかたちの栄光と尊厳は神のかたちに造られている人間そのものにあります。このことは、近年の能力主義・機能主義的な人間観と対立します。能力主義・機能主義的な人間観は、能力の高い人間ほどすぐれた人間であるというように、人間の価値を計る尺度を能力においています。しかし、人間の能力によって計られた価値は、相対的なものです。そのような価値は、人との比較の中でしか計ることができません。また、その能力の衰退とともに、人間としての価値も減少していくということになります。しかし、神のかたちとしての人間の栄光と尊厳は、そのような相対的なものではありません。 神のかたちの栄光と尊厳は、それが造り主である神さまのかたちであるということにあります。 神さまは生きておられる人格的な方です。神のかたちとしての人間も、造られたものとしての限界においてではありますが、神さまの知恵、力、聖、義、善、真実といった人格的な特性にあずかっている人格的な存在です。その人格的な存在であることの中心は、自由な意志にあります。そして、その自由な意志を導いているのが知恵、力、聖、義、善、真実といった人格的な特性です。これらの人格的な特性は愛を中心として働きます。人間は、そのような自由な意志をもって自らのあり方を決める倫理的な存在です。このことに、神のかたちの栄光と尊厳があります。 人間がもっているさまざまな能力は、これらの人格的な特性のうちの知恵や力の現れです。それが人間のすべてではありません。また、本来、人間のさまざまな能力は、すべて愛によって導かれるものです。 このように、 神のかたちとしての栄光と尊厳が、愛によって導かれる自由な意志を持つ人格的な存在であることにあります。それで、この神のかたちとしての栄光と尊厳は罪によってを損なわれるであって、能力や機能の低下によって損なわれるのではありません。言うまでもなく、神のかたちとしての栄光と尊厳が罪によってを損なわれるというのは、他の人の罪によって損なわれるということもありますが、それ以上に、自分が罪を犯すことによって、自らの神のかたちとしての栄光と尊厳を損なってしまうということです。それで、神のかたちの栄光と尊厳の回復は、能力や機能の回復によってではなく、罪の贖いを通して実現します。 このことからさらに考えられることがありますが、それは最後にお話しするとして、その前に考えておきたいことがあります。 フランツ・デリッチは、神のかたちと人間がこの世界を治めることの関係について、人がこの世界を治めることは神のかたちの内容ではなく、神のかたちの結果であると述べています。( New Commentary on Genesis, p.100 ) そのとおりですが、これには注意しなければならないこともあります。それは、少し微妙なことですが、人が地や生き物を支配することは神のかたちの結果であるといっても、神のかたちであることが人にそのような支配権をもたらしたのではないということです。 御使いたちは人格的な存在であるという点で、神のかたちの栄光と尊厳を担っています。しかし、御使いたちにはこの世界を治める使命は委ねられていません。ヘブル人への手紙2章5節〜8節に、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。 「人間が何者だというので、 これをみこころに留められるのでしょう。 人の子が何者だというので、 これを顧みられるのでしょう。 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。」 と記されているとおりです。 御使いたちは人間のように肉体がなく、物質的な側面がないから、この世界を治めることはできないという議論もあることでしょう。しかし、もしそれが造り主である神さまのみこころであったとしたら、御使いたちが人間を用いてこの世界を治めて歴史を造るということも可能であったと考えられます。実際、御使いたちが神である主の啓示を人間に伝える役割を果たしている例があります。また、悪霊たちは、神さまのみこころに反してのことではありますが、罪の下にある人間を支配しています。 このように、神のかたちに造られているということで、直ちに、神さまがお造りになったこの世界を支配してよいということにはなりません。むしろ、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 ということばが示していますように、この世界を誰が治めるかということは、この世界をお造りになった神さまがお決めになることです。このことをしっかりと踏まえたうえで、神さまは、その使命を、神のかたちに造られた人にお委ねになったということを受け止めなければなりません。 ですから、人が神のかたちに造られていることと、その神のかたちに造られている人にこの世界を治める使命が委ねられていることは、どちらも、造り主である神さまのみこころから出ています。決して、人は神のかたちに造られているから、この世界を治める権利をもっているということではありません。 前回は、神のかたちに造られて、この世界を治める使命を授けられている人間は、造り主である神さまを代表しているだけでなく、造られたものとしての限界の中でではあるけれども、神さまを表現しているということをお話ししました。それは、地を従え、生きものたちを支配するに当たって、それらをお造りになって、真実に支えておられる神さまの愛といつくしみを体現していくということです。自分たちの活動を通して見えない神さまを映し出すようにあかしするということです。人間は、神さまからこの世界を治める使命を委ねられているからということで、自分の思いのままにこの世界を治めてよいということではありません。創造の御業に現れた神さまのみこころをくみ取って、それにしたがって、この世界を治めていくべきものです。 それが前回お話ししたことです。今お話ししたことは、さらにその奥にあることです。人間は、自分が神のかたちに造られて、さまざまな能力を与えられているからということで、この世界を治める権利をもっていると考えてはならないということです。この世界を治めることは、この世界をお造りになった神さまから委ねられた使命です。それで、人間は、この世界を治めるに当たっては、自分が神さまから使命を委ねられていることを自覚していなければなりません。 この二つのことを合わせて言いますと、次のようになります。人は神のかたちに造られているということで、当然この世界を治める権利をもっていると言うことはできません。神さまが、人にこの世界を治める使命を委ねてくださったのです。また、神さまが人にこの世界を治める使命を委ねてくださったからといって、人は自分の好きなようにこの世界を治めていいということではありません。神のかたちに造られて、神さまを代表し表すものとして、この世界において、自らの働きを通して見えない神さまを映し出すようにあかしするように召されています。 人間が神のかたちに造られていることと、地を従え、すべての生き物を支配する使命を授けられていることの関係について、もう一つのことを注釈をしておきたいと思います。神のかたちに造られている人間に委ねられた地を従え、すべての生き物を支配する使命そのものについては、1章28節との関わりで、改めてお話しします。 人が神のかたちに造られているということと、地を従え、すべての生き物を支配する使命を委ねられているということは、ともに、人間の栄光を表しています。すでにお話ししましたように、神のかたちは人間に委ねられている支配権にあるのではありません。それで、人が神のかたちに造られているということと、地を従え、すべての生き物を支配する使命を委ねられているということは、切り離すことができませんが、区別されることです。 今日の能力主義・機能主義的な発想をもっている社会では、その力点が、人間が地を従え、すべての生き物を支配する立場にあるということに置かれがちです。この地を従え、すべての生き物を支配する使命のことは、一般には、「文化命令」と呼ばれています。改めてお話ししますが、私は、これは歴史形成に関わる命令であると理解していますので、その呼び方は「歴史形成命令」、あるいは文化ということも入れて「歴史と文化を形成する使命」というようにした方がいいと思っています。いずれにしましても、今日の能力主義・機能主義的な発想をもった社会では、人間の栄光と尊厳が、そのような文化を造る活動をすることにあるとされがちです。 これに対しては、すでにお話ししましたように、聖書は人間の栄光と尊厳は、人間が神のかたちに造られていることにあると教えていることをしっかりと心に留めておく必要があります。 言うまでもなく、地を従え、すべての生き物を支配する使命を委ねられているということは、人間に与えられた栄光の豊かさを示しています。詩篇8篇5節〜8節に、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 と記されているとおりです。 また、先ほど引用しましたヘブル人への手紙2章5節には、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 と記されていました。そして、その後で、先ほど引用しました詩篇8篇5節〜8節が引用されています。ここでは、神さまは「後の世」を御使いたちにではなく、人間に従わせられたと言われています。その点に、人間に与えられている栄光の豊かさがあります。 そうではあっても、人間に与えられている栄光と尊厳の中心は委ねられた使命にではなく、神のかたちに造られていることにあると考えなければなりません。それがみことばの示すところです。繰り返しになりますが、地を従え、すべての生き物を支配する使命を果たすということは、神のかたちに造られている人間の働きであり活動です。その奥に、また、その根底に、神のかたちに造られているという、人間の栄光と尊厳の中心があります。それで、地を従え、すべての生き物を支配する使命を果たすということにある栄光は、人間の場合には、神のかたちに造られていることにある栄光の現れであると考えられます。 これは、あくまでも、神のかたちに造られていることにある栄光の「現れ」ですので、何らかのことで、それを現すことができなくなったとしても、つまり、何らかのことで、地を従え、すべての生き物を支配することに関わる働きができなくなったとしても、それで、その人が、神のかたちとしての栄光と尊厳を失うということにはなりません。人が神のかたちに造られているということ自体が決定的なことであるのです。 人類が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった結果、人は罪と死の力に捕らえられてしまいました。また、この世界に虚無が入り込んできました。ローマ人への手紙8章19節〜21節には、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 と記されています。 このような人類の堕落の後の状況の中で、人はさまざまな原因から、何らかの機能を失うことがあります。聖書の中にもそのようなことで苦しんでおられた方々が出てきます。生まれつきの場合もあるでしょうし、病気や事故でということもあります。そのような場合に、今日の社会に一般的な能力中心・機能中心の発想では、その能力や機能を失った分だけ人間としての価値や尊厳が損なわれたかのように考えられてしまいます。しかし、これまでお話ししてきましたように、神さまの御前においてはそうではありません。 最後に、神のかたちの栄光と尊厳について、最も大切なことをお話しして終わります。 これまでお話ししてきましたように、人間は神のかたちに造られています。人間の存在そのものが神のかたちです。それで、神のかたちの栄光と尊厳は人間のものです。しかし、その神のかたちの栄光と、尊厳は造り主である神さまから与えられた栄光と尊厳です。それは、単なる賜物ではありません。なぜなら、人間の存在そのものが神のかたちであるからです。そして、その神のかたちとしての栄光と尊厳は、造り主である神さまの栄光と尊厳を、造られたものとしての限界の中でではありますが、映し出すものであるからです。その意味で、神のかたちの栄光と尊厳は人間のものでありつつ、それ以上のもの、神さまの栄光と尊厳に関わるものです。 それで、神のかたちの栄光と尊厳は、最終的には、神さまご自身が守っておられます。先に引用しました創世記9章6節に記されている、 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 神は人を神のかたちに お造りになったから。 という神さまのみことばはこのことを示しています。 さらに、マタイの福音書5章21節、22節には、 昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 というイエス・キリストの教えが記されています。ここでは、さばきが三段階に積み上げられていて、最後には「兄弟に向かって」 「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 と言われています。かなり大げさな言い方ではないかと言われそうです。しかし、このイエス・キリストの教えは、神さまが神のかたちの栄光と尊厳を守っておられるということに照らして初めて理解できることです。それは決して大げさな誇張した言い方ではありません。この場合も、「兄弟に向かって」「ばか者。」と言うことによって、兄弟の神のかたちとしての栄光と尊厳を損なうだけではありません。それ以上に、そのように言う自分自身の神のかたちとしての栄光と尊厳を損なっているのです。 また、ヤコブの手紙3章9節、10節には、 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。 と記されています。 このように、神のかたちの栄光と尊厳は人間のものでありつつ、それ以上のものであり、神さまの栄光と尊厳に関わっています。このことを踏まえて初めて、私たちは自分の罪を理解することができます。私たちは造り主である神さまに対して罪を犯してしまったことによって、自ら、神のかたちの栄光と尊厳を損なってしまったのです。神さまの栄光と尊厳に関わっている神のかたちの栄光と尊厳を損なってしまっていたのです。 神のかたちの栄光と尊厳は人間のものでありつつ、それ以上のものであり、神さまの栄光と尊厳に関わっています。それで、神さまはご自身に対して罪を犯したものをおさばきになります。それは、神さまが神のかたちの栄光と尊厳をご自身の栄光と尊厳に関わるものとして守っておられることの現れです。さらに、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いは、私たちのうちに神のかたちの栄光と尊厳を回復し、さらに完成してくださるお働きです。それも、神さまが神のかたちの栄光と尊厳を守っておられることの現れです。 |
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