(第35回)


説教日:2004年9月5日
聖書箇所:創世記1章26節〜31節
説教題:神を代表し表すもの


 前回は、人間が神のかたちに造られていることの特質として第一に考えられることをお話ししました。それは、植物や動物が「おのおのその種類にしたがって」あるいは「その種類にしたがって」造られたと言われているのに対して、人間は神のかたちに造られたと言われていることにあります。
 「おのおのその種類にしたがって」あるいは「その種類にしたがって」造られた植物や動物は、いわば、それ自体の中で一種の完結性をもっています。言うまでもなく、植物はその種類を越えて、他の植物や生き物と交流することはありません。動物の場合でも、「その種類にしたがって」造られたもの同士が、群れをなして生息したりすることはありますが、「その種類」を越えての交流をすることはほとんどありません。まして、造り主である神さまを意識するというようなことは全くありません。
 これに対して、みことばは、人間は神のかたちに造られていると教えています。アウグスティヌス流に言いますと、人は造り主である神さまに向けて造られているということです。人間は、その交わりという点において、基本的に、造り主である神さまとの交わりに生きるものです。その造り主である神さまとの交わりに生きることが「永遠のいのち」の本質です。そして、人間は神さまとの交わりを中心として、お互いの交わりに生きるものです。その意味で、人間は「その種類にしたがって」造られていて、人間同士の交わりに生きるということに先立って、またそれ以上に、神のかたちに造られていて、神さまとの交わりのうちに生きることを、その本質的な特性としています。
 そのことは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落した後には、歪んだ形で現れてきます。たとえば、人間が何らかの社会的な集団を形成するときに、その集団や組織に対するある意味で宗教的とも言える献身が求められたりすることや、国家や社会が宗教的なものによってまとまったりすることに典型的に現れてきます。本来は造り主である神さまに向かうべき人間の本質的な特性が罪によって腐敗してしまったために、造り主である神さまを神とする代わりに、国家や社会や独裁的な個人などを神格化してそれに献身してしまうのです。


 今日は、人間が神のかたちに造られていることの特質として第二に考えられることをお話ししたいと思います。それは、人間は、神さまがお造りになったこの世界に置かれた神のかたちとして、神さまを代表し、表しているということです。
 1章1節には、

初めに、神が天と地を創造した。

という創造の御業の記事の「見出し文」が記されています。それに続いて2節において、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。これは「さて地は」ということばから始まっていて、2節以下の記事が「」焦点を合わせていることが示されています。人間はこの「」に置かれた神のかたちとして、神さまを代表しているだけでなく、さらに、神さまを表しているのです。
 このことは、1章26節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されていること、また、28節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることに示されています。
 これには、神のかたちに造られている人間が神さまを代表しているということと、神さまを表しているということの二つが関わっています。この二つのことは一つのことの裏表のようになっていて、互いに切り離すことはできませんが、論理的には区別されます。それで、神のかたちに造られている人間が神さまを代表しているということと、神さまを表しているということを、区別して見てみたいと思います。
 まず、神のかたちに造られている人間が神さまを代表しているということですが、それは、人間が神のかたちに造られているということだけでなく、神さまから、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を授けられているということによっています。神のかたちに造られている人間は、造り主である神さまから「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられているという点で、神さまを代表しています。(この使命は一般に「文化命令」と呼ばれていますが、「歴史を造る命令」あるいは「歴史と文化を造る命令」と呼んだほうがいいと思われます。この命令につきましては、これが記されている個所を取り上げるときにお話しいたします。)
 この世の考え方では、人間がこの世界の中心的な存在となって、この世界を支配しているのは、人間にそれだけの能力があるからであると考えられています。それは、力があるものがこの世界を支配するという論理です。確かに、無知で無能な者が世界を支配するようなことになれば、その支配の下にある人々は苦しむことになります。しかし、問題はそのような、力のある者とない者の、どちらがこの世界を治めるべきかということにあるのではありません。そこには、より深い、造り主である神さまとの関係の問題があります。
 みことばの示すところでは、本来、人間は能力があるからということで「地を従え」たり、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」したりするものではありません。造り主である神さまからその使命を委ねられているので、そのような務めを神さまに対して果たすのです。そして、神さまはそのような使命を神のかたちに造られている人間に委ねてくださったので、その使命を果たすために必要な賜物として、さまざまな能力を与えてくださっているのです。この順序が大切です。このことを離れて、ただ人間に能力があるから治めたり支配したりするというのは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった結果生まれてきた考え方です。それは、本来の治めること、支配することの本質を見失った人間の考え方です。
 人間には能力があるから、人間がこの世界の中心であり、人間がこの世界を支配しているという「人間中心」の考え方は、真の意味で人間を生かす考え方ではありません。というのは、歴史の事実が示していますように、そのような考え方は、この世界に存在する人間以外のものとの関係において、他の存在より能力のある人間が中心であるという考え方だけではなく、さらに、その考え方が人間の社会にも適用されて、力のある者が人間の社会を支配するという考え方を生み出しました。しかも、そのような考え方は、罪によって自己中心的に歪められたものですので、力のある者が自分のために支配し、その支配の下にある者たちを搾取するという事態を生み出してきました。マルコの福音書10章42節には、そのようにして生み出されたこの世の権力について、イエス・キリストが、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

と言われたことが記されています。
 そのような罪による腐敗と歪みが生じてしまっているのですが、その根底には、人間は神のかたちに造られ、造り主である神さまから「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられているということ、そして、神さまからそのような使命を遂行するために必要な賜物としてさまざまな能力を与えられているという事実があります。念のために確認しておきますが、人間に与えられているさまざまな能力が高ぶりや自己中心性を生み出すのではありません。罪による人間自身の本性の腐敗が高ぶりや自己中心性を生み出すのです。
 いずれにしましても、人間は神のかたちに造られて、神さまがお造りになったすべてのものを治める使命を委ねられ、そのために必要な賜物としてのさまざまな能力を与えられています。そのようなものとして、人間はこの造られた世界において、神さまを代表しています。
 このことを理解するうえで大切なことは、神のかたちに造られている人間に「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねてくださっている神さまは、ご自身がお造りになったこの世界から手を引かれたわけではないということです。この世界とその中のすべてのものをお造りになった神さまは、今日に至るまで変わることなく、そのすべてのものを真実な御手によって保ってくださっておられます。
 詩篇119篇89節〜91節には、

  主よ。あなたのことばは、とこしえから、
  天において定まっています。
  あなたの真実は代々に至ります。
  あなたが地を据えたので、
  地は堅く立っています。
  それらはきょうも、あなたの定めにしたがって
  堅く立っています。
  すべては、あなたのしもべだからです。

と記されています。また、ヘブル人への手紙1章2節後半から3節前半においては、

神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されています。
 人間は神のかたちに造られ、神さまから「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられていると言っても、人間がすべてを支え、すべてを治めているわけではありません。神さまが地を堅く立ててくださっているので、人間はこの地の上に存在することができます。神さまが人間ばかりでなく「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を」養い育ててくださっているので、人間はそれらのものを治めることができます。
 また、神のかたちに造られている人間が治めるようにと委ねられた「」も「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物」も、みなそれをお造りになった神さまのものです。
 詩篇24篇1節、2節には、

  地とそれに満ちているもの、
  世界とその中に住むものは主のものである。
  まことに主は、海に地の基を据え、
  また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。

と記されています。また、95篇4節、5節には、

  地の深みは主の御手のうちにあり、
  山々の頂も主のものである。
  海は主のもの。主がそれを造られた。
  陸地も主の御手が造られた。
  来たれ。
  私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。
  私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。

と記されています。
 何よりも、「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられている人間自身が、造り主である神さまのものです。詩篇100篇3節に、

  知れ。主こそ神。
  主が、私たちを造られた。
  私たちは主のもの、主の民、
  その牧場の羊である。

と記されているとおりです。
 ですから、神さまから「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられていると言っても、この世界を自分の世界として、自分の思いのままに支配してよいという意味ではありません。また、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまを代表していると言っても、人間が神さまに帰せられるべき栄誉を自分のものとしてよいという意味ではありません。
 先ほど引用しました、詩篇95篇4節、5節には、

  地の深みは主の御手のうちにあり、
  山々の頂も主のものである。
  海は主のもの。主がそれを造られた。
  陸地も主の御手が造られた。
  来たれ。
  私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。
  私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。

と記されてました。神のかたちに造られている人間は、本来、「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を遂行することの中で、造り主である神さまに栄光を帰し、神さまを礼拝するのです。また、詩篇100篇3節には、人間自身が造り主である神さまのものであることが記されていますが、それに続く4節では、

  感謝しつつ、主の門に、
  賛美しつつ、その大庭に、はいれ。
  主に感謝し、御名をほめたたえよ。

と記されていて、やはり、そのゆえに人間は造り主である神さまを礼拝すべきものであると言われています。
 このように、人間はこの「」に置かれた神のかたちとして、また、「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられたものとして、造り主である神さまを代表しています。
 そればかりでなく、神のかたちに造られている人間は神さまを表す存在でもあります。もちろん、人間は被造物に過ぎませんから、無限、永遠、不変の栄光の神さまをそのまま表すというようなことはできません。あくまでも、造られたものとしての限界の中で、また、神さまが与えてくださった人格的な特性にしたがって、造り主である神さまを表すのです。
 この世界は生きておられる人格的な神さまによって造られたものですから、造られたすべてのものが、何らかの意味で、造り主である神さまを表しています。この宇宙の壮大さと複雑さ、身近にある一つ一つのものの成り立ちの精巧さ、そして、いのちあるものの成り立ちと営みの神秘的なまでの不思議さなどは、造り主である神さまの無限、永遠、不変の知恵と力をあかししています。ローマ人への手紙1章20節に、

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる

と記されているとおりです。
 このように、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものが、何らかの形で造り主である神さまを表しあかししています。しかし、それは、この壮大でありつつ微妙で精巧な、素晴らしい世界と、その中のすべてのものをお造りになった神さまの知恵と力は無限であるというように、また、今日に至るまで変わることなく、そのすべてを保っていてくださる神さまの真実と慈しみも無限であるというように、神さまの人格的な特性を間接的にあかししているだけです。それは、たとえて言いますと、素晴しい芸術作品に触れたときに、それを創作した人の才能は豊かなものであるということを感じるのと同じです。その作品を見てその人の才能の豊かさは感じ取れますが、それ以外の点においてその人がどのような人なのかということまでは知ることができません。
 これに対して、神のかたちに造られている人間は、自分自身が人格的な存在として造られています。もちろん、人間にも、からだの仕組みや、肉体と霊魂の関係など、人格的な存在としての人間自身の成り立ちの神秘的なまでの不思議さに、造り主である神さまの知恵と力、真実さと慈しみが表されているという面があります。しかし、人間の場合にはそれだけではありません。人間は、被造物としての限界の中でではありますが、神さまの人格的な特性にあずかっています。それで、自分自身の思いとことばと行ないのすべてにおいて、神さまの人格的な特性を表しあかしする存在であるのです。
 神さまは全能の神です。その無限の知恵と力は、ご自身の愛によって集約される人格的な特性に導かれて働きます。ですから、神さまの知恵は神さまの愛を豊に表すための知恵として働きます。また、神さまの御力は神さまの愛を豊かに表す御力として働きます。これを逆から見ますと、愛に集約される神さまの人格的な特性は、ご自身の全能の知恵と力によって裏付けられていますので、神さまはご自身の愛のみこころにしたがってよしとされることをみな成し遂げられます。
 人間に与えられている知恵と能力も、神のかたちに造られているものとしての人間の人格的な特性によって導かれています。そして、本来、神のかたちとしての人格的な特性は、すべて、愛に集約されます。それで、人間の知恵とさまざまな能力は、本来は、愛に導かれて働き、その愛を具体的に表すために働きます。これが神のかたちに造られている人間の本来の姿です。
 神のかたちに造られている人間が神さまを表しているというのは、この意味でのことです。人間は、神さまがお造りになったこの世界に置かれた神のかたちとして、自分の思いとことばと行ないのすべてにおいて、愛に集約される神さまの人格的な特性を映し出すものです。言い換えますと、人間は自らの生活そのものにおいて、造り主である神さまをあかしするのです。
 先ほど、神のかたちに造られている人間が神さまを代表しているということと、神さまを表しているということは一つのことの裏表であって、互いに切り離すことはできないと言いました。けれども、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまってからは、この二つののことの間に歪みが生じてしまいました。
 たとえば時代劇の「悪代官」を考えてみますと、「悪代官」も代官として主君を代表しています。それは、代官としての身分あるいは役職によることです。しかし、「悪代官」という点では、主君を表してはいません。それは「悪代官」自身の人となりの問題です。神のかたちに造られている人間が「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられているということは、人間の使命すなわち役職に関わることです。そして、このことは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後においても取り消されてはいません。そのことは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後のことを記している詩篇8篇5節〜8節に、

  あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
  あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
  万物を彼の足の下に置かれました。
  すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
  空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

と記されていることから分かります。
 このように、堕落の後も、人間は神のかたちに造られたものであり、「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられているものとして存在し続けています。人間が今日に至るまで、さまざまな歴史と文化を築き上げてきたことは、人間が神のかたちに造られたものであり、「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられているからです。また、私たちが今この時代のこのところで、一つの文化を築いてその中で生活しているのも、そのことによっています。さらには、人間がその歴史の初めから、支配権をふるおうとして争ってきたのも、神のかたちに造られている人間に「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命が委ねられているからですし、その使命を委ねられている人間自身が罪によって堕落し、その本性が腐敗してしまっているために、この使命の遂行が自己中心的に歪められてしまっているからです。
 堕落の後も、人間は神のかたちに造られたものであり、「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられているものとして存在し続けているので、すべての人は、天地創造の御業の初めに造り主である神さまから委ねられた、この使命との関わりでさばきを受けることになります。黙示録20章11節、12節には、

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

と記されています。ここで、

死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

と言われているのは、天地創造の御業の初めに造り主である神さまから委ねられた使命との関わりでさばきを受けるということを意味しています。(私たちは御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、このさばきの下から贖い出されていますし、「いのちの書」に名前を記されています。)
 天地創造の初めに神のかたちに造られて、「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられている人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、神のかたちとしての人格的な特性を腐敗させてしまいました。その人格的な特性のすべてを集約的にまとめる愛さえも、自己中心的に歪められてしまっています。それで、実際には人間は、自らを神の位置に据えようとするほどの罪が生み出す自己中心性によって、支配権を行使してきてしまったのです。
 そのことが、先ほど引用しましたイエス・キリストの、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

ということばに示されていますように、この世の支配者たちにおいて典型的に現れてきました。
 しかし、それは程度の差こそあれ、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまっているすべての人のうちにある問題です。たとえば、何かを学ぶという、それ自体はよいことでも、それがいつの間にか、一番になるためとか良い成績を残すためというように、何かを新しく学ぶためというより、自分が他の人の上に立つための手段に変質してしまっているということは珍しいことではありません。
 このような問題は、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、神さまの御前に堕落してしまったために生じたことです。それで、この問題は、人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまった直後に、神さまが約束してくださった贖い主によって初めて解決されるものです。神さまはその約束のとおり、今から2千年前にご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。そして、御子イエス・キリストは、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。私たちは御子イエス・キリストを信じたことによって、その十字架の死にあずかって罪を完全に贖っていただきました。そして、死者の中からのよみがえりにあずかって、神のかたちの本来の栄光と尊厳性を回復していただいています。
 これによって、私たちのうちに神のかたちの本来の栄光と尊厳性が回復されているだけではありません。私たちは、天地創造の初めに神のかたちに造られた人間に与えられた「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を、御子イエス・キリストの贖いの恵の中で遂行するようにと召されています。それは、いわば種のような形ではありますが、キリストのからだである教会における交わりのうちに実現しています。私たちの間では、私たちに与えられている知恵とさまざまな賜物としての能力が、御霊の実である愛に導かれて働き、主と主にある兄弟たちに対する愛を表すように働くようになったのです。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

と言われたイエス・キリストが、さらに、

しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

と言われたことが、イエス・キリストの贖いの恵みによって、私たちの間に実現しているのです。

 


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