(第34回)


説教日:2004年8月1日
聖書箇所:創世記1章26節〜31節
説教題:交わりの土台と広がり


 創世記1章26章には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されています。これは、天地創造の御業の記事において大切な要素である、神さまの創造のことばを記すものです。
 これまで、この、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

という神さまのことばに用いられている「かたち」(似像・ツェレム)と「似る」(似姿・デムート)ということばを手がかりとして、人間が神のかたちに造られたということがどのようなことであるかについてお話ししてきました。今日は、そのことを踏まえて、さらにお話を続けます。
 これまでお話ししましたように、神のかたちというのは、たとえば「霊魂」が神のかたちであるというように、人間の中にあるもの、あるいは、人間の一部のことではありません。肉体と霊魂から成り立っている人間が神のかたちとして造られています。ですから、人間が神のかたちなのです。
 26節の後半には、

そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。

という神さまのことばが記されています。そして、これを受けて、28節には、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 人間は、神のかたちに造られて、神さまがお造りになったこの世界に置かれたものとして、この世界を治める使命を委ねられています。この神のかたちに造られている人間に委ねられた使命については、28節に記されていることを取り上げるようになったときに改めてお話しします。ここでは、神さまがこの世界を物質的な側面をもっている世界としてお造りになったので、神のかたちに造られている人間も、肉体と霊魂から成り立っていて、物質的な側面をもっているということを心に留めておきたいと思います。人間は、この造られた世界に置かれた神のかたちとして、肉体と霊魂を備えています。そして、肉体と霊魂の統一体として、この世界に神のかたちとして存在しています。


 このように、神のかたちに造られている人間は、物質的な側面のあるこの世界にあるものとして、肉体と霊魂の統一体としての人格的な存在です。人間が神のかたちであることについて、さらに、いくつかのことから考えてみたいと思います。
 植物の創造を記している11節、12節には、

神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。また、動物たちの創造を記している24節、25節には、

ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。
 これらの個所から分かりますように、神さまの創造の御業において、植物や動物は「おのおのその種類にしたがって」あるいは「その種類にしたがって」造られたと言われています。ところが、人間の創造の場合には、「その種類にしたがって」造られたと言われていません。26節では、造り主である神さまが、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

と言っておられます。また、27節には、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されています。
 これらのことから、人間について二つの面を見ることができます。
 一つは、人間は、神さまによって造られたものとして、植物や動物と同じく「被造物」として分類されるものであるということです。これは、すでにお話ししましたように、神のかたちに造られている人間が、神さまがお造りになったこの世界と、その中にあるすべてのものを治める使命を委ねられているということに関わっています。
 もう一つは、植物や動物は「おのおのその種類にしたがって」あるいは「その種類にしたがって」造られたと言われているのに対して、人間は神のかたちに造られたと言われています。この点で、人間は、植物や動物とは区別されて、神さまとの関わりにおいて見られるべきものです。
 このことは、創造者と被造物の間の絶対的な区別をあいまいなものにするという方向で受け止めてはなりません。そのような誤った受け止め方が、人間の罪による堕落の根底にありました。人は自分と造り主である神さまとの間にある絶対的な区別を見失って、自分も神のようになれるという思いをもって、神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。人間は、造り主である神さまの御手によって造られた被造物であるということは、人間にとって最も基本的な本質です。まず、このことをしっかりと心に銘記したうえで、人間が神のかたちに造られているということの意味を受け止めなければなりません。
 このような、創造者と被造物の絶対的な区別が根底にあるのですが、それでもなお、人間は神のかたちに造られていることからくる特質を与えられています。
 第一に、「おのおのその種類にしたがって」あるいは「その種類にしたがって」造られた植物や動物は、いわば、それ自体の中で一種の完結性をもっています。「その種類にしたがって」造られたもの同士が、群れをなして生息したりすることはありますが、「その種類」を越えての交流をするということはほとんどありません。まして、造り主である神さまを意識するというようなことは全くありません。
 これに対して、神のかたちに造られている人間は、その交わりという点において、基本的に、造り主である神さまとの交わりに生きるものです。人間は、「その種類にしたがって」造られている以上に、神のかたちに造られています。それで、何よりもまず、造り主である神さまとの交わりのうちに生きることを、その本質的な特性としています。
 聖書は一貫して、人間のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛にある交わりに生きることにあるということを示しています。詩篇36篇9節には、

  いのちの泉はあなたにあり、
  私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

と記されています。また、ヨハネの福音書17章3節には、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と記されています。この父なる神さまと御子イエス・キリストを知るというときの「知る」ことは、「交わりにおいて知る」ということで、愛するということに近いものです。このことも、神のかたちに造られている人間の交わりが、基本的に、造り主である神さまとの交わり、契約の神である主とのいのちの交わりにあるということを意味しています。
 このことの上に立って、神のかたちに造られている人間は、同じく神のかたちに造られている人間との交わりに生きるものとして造られています。このことは、創世記1章27節で、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と言われていますように、男も女も神のかたちに造られているということを土台としています。
 ここで大切なことは、人間はただ単に「その種類にしたがって」造られているということで、お互いに出会うのではないということです。それ以上に、神のかたちに造られているもの同士として、お互いに出会うのです。それは、神のかたちに造られていて、何よりもまず、神である主との交わりに生きているものとして、お互いの交わりをもつものであるということです。その意味で、神のかたちに造られている人間の間の交わりは、本来、神である主にあっての交わりであるのです。
 このように、神のかたちに造られている人間の間の交わりは、本来、神である主にあっての交わりです。それで、神である主とのいのちの交わりは、神のかたちに造られている人間の間の交わりを妨げるものではなく、むしろ、その交わりを支えるものです。また、逆に、神のかたちに造られている人間の間の交わりは、神である主との交わりを励まし、豊かにするものであるのです。本来、神である主との交わりと神のかたちに造られている人間の間の交わりは、完全な調和の中にあります。
 このように、神のかたちに造られている人間は、何よりもまず、神である主のとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものです。そして、そのことを土台として、お互いが出会って、お互いの間の交わりが始まります。このことは、神さまの律法の全体を集約した「たいせつな戒め」に表現されています。マタイの福音書22章37節〜40節には、

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

と記されています。
 この「たいせつな戒め」に表現されていることは、天地創造の初めに人間が神のかたちに造られたとき、その心の中に記されていた律法の中心であったと考えられます。そして、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後においても、人間が神のかたちに造られているということがなくなってしまったわけではありませんので、これは、人間にとって、最も基本的で「たいせつな戒め」であり続けています。
 実際には、人間が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、それぞれの人間が神のかたちに造られているものとしての栄光と尊厳性を腐敗させてしまっただけでなく、神である主との愛にあるいのちの交わりを失ってしまいました。その結果、罪と死の力にとらえられてしまっています。そして、お互いも、そのようなものとして出会いますので、お互いの交わりも、罪と死の影を映し出すものになってしまっています。そのありのままの姿がどのようなものであるか、罪と死の力がそのまま人間の交わりに現われてきたらどのようになるかということは、歴史の中で、一度だけ示されました。それは、ノアの時代の洪水の前のことです。創世記6章5節には、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されており、さらに、11節、12節には、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。人間のうちなる腐敗が極みにいたり、社会的にも暴虐が支配している状況において、神のかたちの栄光と尊厳性は損なわれ、本来の意味での交わりは失われてしまっていました。
 ただし、今は、9章8節〜11節に、

神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」

と記されている主の契約によって、歴史が主がお定めになっている終末まで存続するように配慮されています。具体的には、一般恩恵に基づく聖霊のお働きによって、人間のうちに啓発が与えられています。それで、その罪と死の力が人間を完全に支配することがなく、人間の間の交わりを破壊し尽くすことがないように守られています。
 それも、神さまが、人間がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、贖い主を与えてくださり、贖いの御業を成し遂げてくださることを約束してくださっていたからです。神さまは、時が満ちたときに、約束の贖い主を遣わしてくださり、贖いの御業をとおして、人間の神のかたちの本来の姿を回復してくださいました。そのことを実現し、完成に至らせてくださるために、人間の歴史が保たれるようにしてくださったのです。
 このように、神さまの契約の約束は、贖い主によって成し遂げられる贖いの御業によって、人間が神のかたちの本来の姿を回復していただくようになることでした。それによって、人間が、神である主との愛にあるいのちの交わりを回復していただき、同じく神のかたちを回復していただいている人間としてお互いの交わりに生きるものとなるようにしてくださるということです。それで、イエス・キリストは、

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

とお教えになった後に、そのような恵みの福音を啓示している「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっている」と言われたのです。
 このように、人間は、「その種類にしたがって」造られている以上に、神のかたちに造られています。それで、何よりもまず、造り主である神さまとの交わりのうちに生きることを、その本質的な特性としています。そして、そのことの上に立って、人間同士が、神のかたちに造られていて神である主のと交わりに生きているものとして出会い、お互いの交わりに生きるようになります。
 このことは、神のかたちに造られている人間が、自分たちの間で完結してしまっているものではないこと、自分たちの「種類」を越えて、交わりを広げるものであることを意味しています。すでにお話ししましたように、「その種類にしたがって」造られた動物は、いわば、それ自体の中で一種の完結性をもっています。「その種類にしたがって」造られたもの同士が、群れをなして生息したりすることはありますが、「その種類」を越えての交流をするということはほとんどありません。神のかたちに造られている人間は、これとは違います。それで、何よりも、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きるものですし、そのようなものとしてお互いに出会って、お互いの交わりのうちに生きます。
 神のかたちに造られている人間が自分たちの「種類」を越えて、交わりを広げるものであるということは、さらに、同じくいのちあるものとして造られている生き物や動物たちにまで広がっていきます。さらには、神さまがお造りになったすべてのものにまで、自分たちの眼差しを向けていきます。神のかたちに造られている人間の間の交わりが、それに先だって、造り主である神さまとの交わりのうちに生きているものとしての出会いと交わりであると言いましたが、それは、同じくいのちあるものとして造られている生き物や動物たちとの交わりや、神さまがお造りになった植物を初めとして、その他のすべてのものとの関わりにおいても当てはまります。人は本来、造り主である神さまとの交わりのうちに生きているものとして、神さまがお造りになった生き物や動物、さらには植物と関わっていくのです。もちろん、その関わり方や交わりの深さは、相手となるものの特質によって変わります。
 1章31節に、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されていますように、天地創造の初めにおいては、造られたすべてのものが完全な調和の中にありました。そして、2章19節に、

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。

と記されていることから分かりますように、人間とその他の生きものたちの関係は、極めて親密なものでした。ここで「名をつける」ということは、それらのものとの関係を確立することを意味しています。
 それでも、神のかたちに造られている人間の交わりは、まず第一に、造り主である神さまとの交わりであり、次いで、同じく神のかたちに造られている人間との交わりを基本としていました。先ほど引用しました19節に続く20節〜23節に、

こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。
  「これこそ、今や、私の骨からの骨、
  私の肉からの肉。
  これを女と名づけよう。
  これは男から取られたのだから。」

と記されているとおりです。
 ちなみに、生き物たちがお互いの間で、また、人間に危害を加えるようになったのは、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、この世界に虚無が入ってきてからのことです。この2章に記されているされている時点においては、そのようなことはありませんでした。
 このように、神のかたちに造られている人間は、まず第一に、造り主である神さまとの交わりのうちに生きるものです。そして、神である主とのいのちの交わりに生きているものとして、お互いに出会って交わりをもちます。神のかたちに造られている人間の関わりは、さらに、同じくいのちあるものとして造られている生き物や動物たちとの交わりや、神さまがお造りになった植物を初めとして、その他のすべてのものとの関わりへと広がっています。
 このこととの関連で、改めて1章28節を見てみますと、そこには、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 これは、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。

ということばから分かりますように、神のかたちに造られている人間に対する祝福のことばです。これを、22節に記されている、生き物たちに対する、神さまの祝福のことばと比べてみましょう。そこには、

神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」

と記されています。
 生き物たちの場合には、その祝福のもとに生まれて増え広がっていくことが期待されているだけです。当然、生き物たちは自分たちが造り主である神さまの祝福のもとにあることを知りません。
 これに対して、神のかたちに造られている人間の場合には、自分たちに委ねられた使命を受け止めて、それに応答してゆくことが期待されています。人間は、自分たちが神さまの祝福のもとに置かれていることを知っています。それは、神のかたちに造られている人間の交わりが、何よりもまず、造り主である神さまとのいのちの交わりにあることの中で受け止められるものです。それで、人間が「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」することも、造り主である神さまとのいのちの交わりのうちにあるものとして、神さまのみこころにしたがってなされることです。
 さらに、1章28節に続く、29節、30節には、

ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

と記されています。
 ここでは、神のかたちに造られている人間も生き物たちもともに、造り主である神さまのご愛による配慮として、食べ物が与えられていることが示されています。しかし、そのことは、生き物たちには知らされていません。神のかたちに造られている人間だけに知らされています。
 ですから、生き物たちは、ただ、神さまが備えてくださっている食べ物を受け取って食べるだけです。これに対して、神のかたちに造られている人間は、神さまが備えてくださっている食べ物を食べるだけではありません。そのことが、神さまのご愛による配慮によっていることを理解して、神さまの愛そのものを、それによって備えられた食べ物とともに受け取るのです。しかも、その神さまのご愛による配慮が、自分たちの上にあるということを受け止めるだけでなく、自分たちに委ねられているすべての生き物の上に及んでいるということを受け止めるのです。
 このことも、神のかたちに造られている人間の交わりが、何よりもまず、造り主である神さまとのいのちの交わりにあること、そして、その上に立って、すべての生き物へと広がっていることの中で受け止められるものです。

 


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