(第33回)


説教日:2004年7月4日
聖書箇所:創世記1章26節〜31節
説教題:似像と似姿(2)


 創世記1章26節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されています。
 これは、神さまの天地創造の御業を記す記事を構成する大切な要素となっている、神さまの「創造のことば」に当たります。このときまでの創造のことばは、「 何々よあれ。」とか「何々となれ。」というように、単純な命令の形で記されてきました。これに対しまして、人間の創造の場合には、神さまの決意という形で示されています。しかも、「われわれは造ろう」というように、神さまの人格の複数性が示される形での決意であったことが示されています。それだけ、神さまの熟慮がなされていることが見て取れます。
 前回は、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

という神さまのことばにおいて用いられている「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)という二つのことばの、それぞれの意味と、お互いの関係についてお話ししました。
 それをまとめておきますと、この「似像」(ツェレム)ということばは、基本的に、「彫像」や「偶像」など、具体的な「像」を示しています。これに対しまして、「似姿」(デムート)ということばは、「何々のようなもの」とか「何々に似たもの」というような意味合いを伝えています。そして、これを反映して、神さまの決意も、

われわれの似像に、われわれの似姿のように、人を造ろう。

となっています。このように、この二つのことばは意味合いが違っています。それで、この二つのことばが同義語として用いられている例はありません。
 同時に、この個所のヘブル語本文では、二つのことばは接続詞なしに結び合わされていて、相互に深く結び合って用いられています。それで、この二つのことばのそれぞれが違うものを表していると考えることはできません。
 ここでは、このように意味合いの違う二つのことばを切り離しがたく結びつけて用いることによって、神のかたちが総合的で豊かなものであることを表していると考えられます。この二つのことばの意味合いの違いという点からは、それぞれが神のかたちという総合的で豊かなものを、別の角度から表していると考えられます。また、二つのことばが相互に深く結び合う形で用いられているという点からは、どちらかが基本的で、もう一つがそれを修飾するという形ではなく、それぞれがそれぞれの意味合いをもっていながら、相互に補い合っていると考えられます。
 このことを踏まえて、神のかたちについて、さらに、いくつかのことを考えたいと思います。


 創造のことばにおいて神さまは、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

と言われました。また、その補足説明である27節には、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されています。
 ここでは、人間が神のかたちに造られているということが示されています。つまり、「人間が」神のかたちであるということです。これは、人間のある部分が神のかたちであり、他の部分は神のかたちではないというような考え方を退けるものです。よく、肉体の中に宿っている霊魂が神のかたちであって、肉体は動物的な生命であって神のかたちではないというようなことが言われますが、それは聖書が教えていることではありません。聖書は、肉体と霊魂から成っている人間、肉体と霊魂の統一体としての人間が神のかたちに造られていると教えています。
 肉体の中に宿っている霊魂が神のかたちであって、肉体は動物的な生命であって神のかたちではないというような、二元論的な考え方はギリシャ的な発想ですし、日本人の発想にもそのようなものがあります。聖書にはそのような発想はありません。聖書においては、肉体も霊魂もともに神のかたちに造られている人間にとって固有のものであり、そのどちらかを欠いては、人間は本来の姿ではなくなってしまうことが教えられています。
 ノアの時代の大洪水によるさばきの後に神である主が語られたことばを記している、創世記9章5節〜7節には、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
  人の血を流す者は、
  人によって、血を流される。
  神は人を神のかたちに
  お造りになったから。
  あなたがたは生めよ。ふえよ。
  地に群がり、地にふえよ。

と記されています。
 これは、一見すると、殺人を禁じている威嚇のことばのように見えます。確かにそのような面があります。しかし、この神さまのことば全体を導入する1節で、

それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。

と言われていますように、これは洪水の後の人類に対する祝福のことばの中で語られています。
 なぜ、洪水後の祝福の中でこのようなことが語られたのでしょうか。洪水の前の地上の状況を記している6章11節、12節には、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。この記事から、洪水の前には、「暴虐」によって、神のかたちの栄光と尊厳性が踏みにじられていたということが分かります。神のかたちに造られている人間のいのちが虫けらのように扱われていたということでしょう。同時に、人のいのちをそのように扱っている者たちも、ご自身がお造りになったいのちあるものを真実に支えてくださり、育んでくださっている神さまのかたちとはほど遠い、むしろ、悪魔的なものを表していたわけです。
 それで、洪水後の祝福においては、神さまが、神のかたちに造られている人間の神のかたちとしての栄光と尊厳性を守ってくださっていると考えられます。神のかたちの栄光と尊厳性は、ただ単に人間にかかわるものではありません。それは「神の」かたちの栄光と尊厳性として神さまの栄光にかかわるものですので、神さまご自身が守られるのです。
 この、洪水の後の時代において、神のかたちに造られている人間の栄光と尊厳性を守ってくださる神さまのことばにおいて強調されているのは、「」によって表されている肉体的ないのちです。そして、その「」によって表されている肉体的ないのちの尊厳性を守る根拠は、

  人の血を流す者は、
  人によって、血を流される。
  神は人を神のかたちに
  お造りになったから。

と言われているように、神のかたちの栄光と尊厳性です。ここでは、肉体的ないのちが神のかたちの栄光と尊厳性と切り離すことができないことが示されています。
 このことは、また、神さまの贖いの御業に関する聖書の教えにも表されています。神さまの創造の御業と贖いの御業の間には一貫性があります。創造の御業によって造られたもの、特に、神のかたちに造られている人間の栄光と尊厳性は、人間の罪による堕落によって損なわれてしまいました。贖いの御業は、それを、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって回復し、創造の御業によって始まったものを完成するものです。
 その贖いの御業の始まりについて、ヨハネの福音書1章14節では、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われています。このことを、私たちは永遠の神の御子の「受肉」と呼んでいます。また、ヘブル人への手紙2章14節、15節では、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と言われています。
 贖い主は、その御業を遂行するために、私たちと同じ肉体と霊魂とからなる人となって来てくださいました。永遠の神の御子であるかたが、永遠の神の御子であることを変えられたのではなく、新たに人としての性質をお取りになって来てくださったのです。それは、私たちのからだをも贖ってくださるためのことです。そのことを受けて、ローマ人への手紙8章23節には、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されています。
 その贖いの御業の完成を、聖書は、からだのよみがえりという形で示しています。もちろん、それは、これに先立つ8章19節〜22節に

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されていますように、全被造物の回復と栄光化という大きな流れの中で起こることです。復活のからだをもってよみがえる神の子どもたちが、神さまのより豊かな栄光を映し出す新しい天と新しい地に住むようになるということをも意味しています。その意味で、物質的な側面をもっているこの世界そのものが栄光化されるわけです。そして、神のかたちに造られている人間が復活のからだをもってよみがえることは、その中心に位置づけられます。
 このように、聖書においては、肉体と霊魂からなる人間が神のかたちであり、肉体的ないのちも神のかたちの栄光と尊厳性を担うものであることが示されています。
 人間が罪を犯して堕落した結果、人間は死ぬべきものになりました。その場合にも、聖書は、肉体だけが死んで霊魂は生きているというようなことは教えていません。肉体は死ぬけれども霊魂は不滅であるというのは、やはり、ギリシャ的な発想でしたし、日本人の発想でもありました。聖書は、肉体と霊魂から成っている人間が死ぬと教えています。死によって、肉体という物質的なものは朽ちていってしまいます。霊魂は物質的なものではありませんから、肉体のような形では朽ちることはありません。しかし、人間が罪を犯した結果、霊魂も、いのちの源である神さまから切り離されて腐敗し、死んでいるのです。
 このように、聖書では、肉体と霊魂から成っている人間が神のかたちであると教えられています。
 神さまの天地創造の御業の記事を見てみますと、創造の御業を遂行される神さまは、語りかけられ、ご覧になり、評価をなさり、名前をつけられ、祝福しておられます。これは、「擬人化された表現」で、目で見ることができない神さまのお働きを、人間になぞらえて表しています。これによって、神さまが単なる力ではなく、生きておられる人格的な方であることがありありと示されています。
 しかし、これには、より深い事実があります。そのより深い事実をわきまえないまま「擬人化された表現」と言いますと、誤解が生まれる可能性があります。というのは、一般に、「擬人化された表現」というのは、人格的な存在ではない動物などを、あたかも人間であるかのように、人間になぞらえて表すものであるからです。たとえば、動物はことばをもって話をするものではないけれど、あたかもことばをもって話をしているかのように表しているわけです。
 天地創造の御業の記事において、神さまを「擬人化された表現」で表しているのは、これとはまったく違います。神さまは、語りかけられ、ご覧になり、評価をなさり、名前をつけられ、祝福しておられますが、それは、神さまはそのようなことはなさらないのに、あたかもそれが人間のすることであるかのように「擬人化された表現」で表されているのではありません。むしろ、本当の意味で、語りかけられ、ご覧になり、評価をなさり、名前をつけられ、祝福されるのは、神さまご自身です。神さまこそが、究極的に、語りかけられ、ご覧になり、評価をなさり、名前をつけられ、祝福される方なのです。
 私たち人間も、語りかけ、観察し、評価をし、名前をつけ、祝福します。しかし、私たちが語ることは限られたことであり、絶対確実なことではありません。私たちが見ることは表面的なことです。私たちの評価には偏りがあります。私たちは名前をつけますが、必ずしも物事の本質を見極めたうえのことではありません。私たちは祝福しますが、それを実現するだけの力はありません。私たちは、造られたものの限界の中で、これらのことをしているのです。
 しかし、神さまにはそのような限界はありません。神さまがお語りになることは常に真実です。神さまはすべてをご覧になっておられます。神さまの評価はどの点を取っても確かなものです。神さまは、ご自身のお造りになったものの本質にそって名前をお付けになっておられます。そして、神さまの祝福はことばだけで終わらず、その祝福を現実のものとされます。ですから、神さまこそが、本当の意味で、語りかけられ、ご覧になり、評価をなさり、名前をつけられ、祝福される方なのです。
 このことから、私たち人間が語りかけ、観察し、評価をし、名前をつけ、祝福するのは、人間が神のかたちに造られているからであるからであることが分かります。神さまこそが、本当の意味で、語りかけられ、ご覧になり、評価をなさり、名前をつけられ、祝福される方であり、私たち人間は、その神さまのかたちに造られているので、語りかけ、観察し、評価をし、名前をつけ、祝福するのです。その意味で、人間が語りかけ、観察し、評価をし、名前をつけ、祝福するのは、「擬人化」ということばに合わせて言えば、人間の「擬神化」であると言うことができます。
 天地創造の御業の記事だけでなく、聖書の中には、神さまのことが「擬人化された表現」で表されていることがたくさんあります。神さまのことを「擬人化された表現」で表すことができるのは、人間が神のかたちに、いわば、「擬神化」されて造られているからです。つまり、神さまを「擬人化された表現」で表していることの奥に、人間が「擬神化」されて造られているという事実があるのです。
 このことをわきまえたうえで、聖書の中で、神さまのことが「擬人化された表現」で表されていることを理解しなければなりません。「擬人化された表現」で表されることによって、神さまが生きておられる人格的な方であることがありありと伝えられています。それによって、私たちは、神さまを親しい方として知ることができます。しかし、「擬人化された表現」は、存在においても栄光においても無限、永遠、不変の神さまを、限りのある人間になぞらえることです。このことを忘れると、神さまも限りのある人間のような方であるかのように受け止められてしまいます。
 さて、神のかたちに造られている人間の場合、語りかけ、観察し、評価をし、名前をつけ、祝福することは、肉体と霊魂の結びつきの中でなされます。口で語り、目で見、手で何かを作ります。評価をし、名前をつけ、祝福することも、最後には口で表現します。このような活動は人格的な活動ですが、人間の場合には、その人格的な活動は、肉体と霊魂の結びつきにおいてなされます。
 このことは、神のかたちに造られている人間が属しているこの世界が物質的な側面をもっていることとかかわっています。神さまは、人間をこの世界においてご自身を代表し表すものとして、神のかたちにお造りになりました。人間は、神さまがお造りになった、物質的な側面をもっているこの世界に属しています。それで、人間にも物質的な側面である肉体が与えられています。人間は、見えない神さまの見えるかたちとしてこの世界に存在しています。
 このように、肉体と霊魂から成り立っている人格体としての人間が、神のかたちであって、人間のある部分とか側面が神のかたちであるということではありません。そして、このような、肉体と霊魂から成り立っている具体的な人間が神のかたちであるということが、基本的に、偶像や彫像を表すツェレム(「似像」)ということばを用いることによって示されていると考えられます。
 このように、肉体と霊魂から成り立っている人格体としての人間が神のかたちなのですが、人間はあくまでも神さまがお造りになったこの世界に属するものであり、この造られた世界の次元で神のかたちの栄光を担っているものです。当然のことですが、神のかたちに造られている人間であっても、神さまのすべてを表しているのではありませんし、神さまをそっくりそのまま表しているのでもありません。そこには、「何々のようなもの」とか「何々に似たもの」という面を表すデムート(「似姿」)ということばによって表される面があります。
 しかし、このデムート(「似姿」)ということばが用いられていることによって、先週お話した一つの考え方のように、人間が神のかたちに造られていることにある栄光や尊厳性が割り引かれていると考えるべきではありません。なぜなら、神のかたちに造られている人間は、あくまでも神さまのデムート(「似姿」)であって、神さま以外のもの、たとえば天使などのデムート(「似姿」)ではないからです。また、すでにお話ししましたように、このデムート(「似姿」)ということばは、エゼキエル書1章や10章では「神さまの栄光の顕現」(セオファニー)を描写するのに用いられていました。それに通じるような意味で、神のかたちに造られている人間は、神さまのデムート(「似姿」)です。ですから、このデムート(「似姿」)ということばが用いられていることによって、人間が神のかたちに造られていることにある栄光の豊かさと尊厳性の高さが示されているのです。
 このこととの関連で注目したいことがあります。古い契約の下においては、「神さまの栄光の顕現」(セオファニー)は一時的な現れでしたし、限られた人々に示されたことでした。その「神さまの栄光の顕現」(セオファニー)の頂点は、ヨハネの福音書1章14節で、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われている、永遠の神の御子が人の性質を取って来てくださったことです。それは一時的で一部の人々に限られた現れではなく、インマヌエルという御名によって示されている「神さまは私たちとともにいてくださいます。」ということを私たちすべての間に実現してくださるものでした。そして、これに続いて、

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と言われていますように、人の性質を取って来てくださった神の御子においてこそ、恵みとまことに満ちている神さまの栄光がこの上なく豊かに表されています。
 この意味で、肉体と霊魂から成る「まことの人」となられた御子イエス・キリストに、神さまのデムート(「似姿」)の最終的な現れがあります。そして、その完成は、十字架にかかって死んでくださることによって、ご自身の民の贖いを成し遂げてくださり、三日目に栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストにあります。
 このように、人間が神さまのデムート(「似姿」)であるということは、神のかたちに造られている人間の栄光と尊厳性の大きさを示しています。人間が神のかたちに造られていることに対してデムート(「似姿」)ということばが用いられているということは、そのように大きな栄光と高い尊厳性を与えられている人間であったとしても、神さまの栄光の豊かさを十分には表し切れないというように理解すべきです。ですから、神のかたちに造られている人間が、無限、永遠、不変の栄光の神さまのデムート(「似姿」)であるということによって、人間の栄光と尊厳性があかしされているだけでなく、神さまの無限、永遠、不変の栄光があかしされ、守られているのです。
 このこととともに、先ほどお話ししましたように、肉体と霊魂から成り立っている人格体としての人間が、神のかたちであって、人間のある部分とか側面が神のかたちであるということではなく、肉体と霊魂から成り立っている具体的な人間が神のかたちであるということが、基本的に、偶像や彫像を表すツェレム(「似像」)ということばを用いることによって示されていると考えられることを思い起こします。この意味では、人となって来てくださった神の御子イエス・キリストにおいてツェレム(「似像」)の本来の姿があります。そして、その栄光化はやはり、イエス・キリストが栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられたことにあります。
 この二つのことを合わせて見ますと、人となって来てくださった御子イエス・キリストにおいて、本来の、神さまのツェレム・デムート(「似像」・「似姿」)の栄光と尊厳性が歴史の現実となっています。そして、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストにおいて、その神さまのツェレム・デムート(「似像」・「似姿」)の完成が、充満な栄光と尊厳性をもったものとして歴史の現実になっています。
 私たちは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、イエス・キリストの死とよみがえりにあずかっています。それによって、私たちもイエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえったものとして、神さまのツェレム・デムート(「似像」・「似姿」)としての本来の栄光と尊厳性を回復していただいています。そして、それは、最終的には、終わりの日の復活によって完成します。ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されているとおりです。
 さらに、これに続く3節では、

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

と言われています。御霊のお働きによって、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、神さまのツェレム・デムート(「似像」・「似姿」)としての尊厳性と栄光を回復していただいている私たちは、同じ御霊のお働きに頼って、イエス・キリストの聖さにあずかることを追い求めます。そのことを、御霊のお働きを中心に見ますと、コリント人への手紙第二・3章18節において、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と言われていることになります。

 


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