(第32回)


説教日:2004年6月6日
聖書箇所:創世記1章26節〜30節
説教題:似像と似姿


 創世記1章26節〜30節には、神さまが人間を神のかたちにお造りになったことが記されています。
 26節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されています。
 これは、神さまが人間を神のかたちにお造りになったことを記す記事の中の創造のみことばを記すものです。すでにお話ししましたように、神さまの創造のみことばは、創造の御業の記事の中心です。それで、人間が神のかたちに造られたことを理解するうえでとても大切なものです。
 前回は、ここに出てくる「われわれ」という複数形がどのような意味をもっているかということについてお話ししました。今日は、神さまが人間を神のかたちにお造りになるに当たって言われた、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

ということばの中に出てくる「われわれに似るように」ということばと「われわれのかたちに」ということばに注目してお話ししたいと思います。
 新改訳では、「われわれに似るように、われわれのかたちに」という順序で出てきますが、ヘブル語本文では、「われわれのかたちに」ということばが先にあって、「われわれに似るように」ということばが後に出てきます。「われわれのかたちに」の中心は「かたち」ということばで、ヘブル語ではツェレムです。これが名詞であることは日本語でもわかります。そして、「われわれに似るように」の中心は、「似る」に当たる部分ですが、ヘブル語ではデムートという名詞です。デムートは「似ていること」を表しています。


 この二つのことばが、それぞれ、聖書の中でどのように用いられているかに注目してみましょう。
 まず、「かたち」(ツェレム)ということばですが、このことばは、旧約聖書のヘブル語本文の中に16回出てきます。このうち、この創世記1章26節、27節(2回)、5章3節、9章6節の5回は、人が神のかたちに創造されたこととのかかわりで用いられています。
 それぞれの個所を見てみますと、1章26節に続いて記されている補足説明に当たる27節には、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されています。
 5章3節には、神さまの直接的な創造の御業を記すものではありませんが、

アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。

と記されています。
 また、人類の堕落後のことを記す9章6節には、

人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。

と記されています。
 その他このことばが用いられている個所を見てみますと、次のようになっています。
 民数記33章52節ではカナンの地の住民の「鋳造」と言われています。。
 サムエル記第一・6章5節では「あなたがたの腫物の像と、この地を荒らしたねずみの像」と言われています。この「」がこのことば(ツェレム)です。以下同じですが、6章11節では「金のねずみと腫物の像」と言われています。
 列王記第二・11章18節と、これと並行する歴代誌第二・23章17節ではバアルの宮にある「」と言われています。
 詩篇39篇6節の「人は幻のように歩き回り」の「」がこのことばです。また73篇20節では「彼らの姿」と言われています。
 エゼキエル書7章20節では「忌むべきものの像」と言われており、16章17節では「男の像」と言われています。また23章14節では「カルデヤ人の肖像」と言われています。
 アモス書5章26節では「キウンの像」と言われています。
 一般に「B・D・B」として知られているヘブル語のレキシコンは、このことばが「切り抜かれたもの」を表すとしています。また、ある方(A・H・リーチ)は、詩篇39篇6節や73篇20節に基づいて、文字通りには「陰」を表すとしています。
 いずれにしましても、これらの個所での用例を見ますと、この「かたち」(ツェレム)ということばは、より具体的な形をもった「像」を表すものであると考えられます。
 もう一つの「似ていること」(デムート)ということばの用例を見てみましょう。注目すべきは、このことばがエゼキエル書1章と10章において、神さまの栄光の顕現(セオファニー)を記している部分において用いられているということです。それは、次のようなものです。
 まず、1章を見てみますと、5節では「何か四つの生きもののようなもの」、また、「何か人間のような姿」と言われています。これは「四つの生き物のデムート」、また、「人間のデムート」という言い方です。同じように、10節の「彼らの顔かたち」は「彼らの顔のデムート」という言い方です。13節の「それらの生きもののようなもの」は「それらの生きもののデムート」という言い方です。16節では「四つともよく似ていて」と言われています。これは「それらの四つは一つのデムート」というような言い方です。22節では「生きものの頭の上には ・・・・ 大空のようなものがあり」と言われています。これは「デムートは生きものの頭の上にあった。すなわち、大空」というような言い方です。26節には「王座に似たもの」が2回出てきます。これは「王座のデムート」という言い方です。また、「人間の姿に似たもの」と言われています。これは「人間の現れのようなデムート」というような言い方です。そして、28節では「主の栄光のように見えた」と言われています。これは「主の栄光のデムートの現れであった」というような言い方です。
 次に10章を見てみますと、1節では「何か王座に似たものがあって」と言われています。これは「王座のデムートの現れのような」というような言い方です。10節の「四つともよく似ていて」は、1章16節と同じで「それらの四つは一つのデムート」という言い方です。21節では「人間の手のようなもの」と言われています。これは「人間の手のデムート」という言い方です。そして、22節では「彼らの顔かたち」と言われています。これは「彼らの顔のデムート」という言い方です。
 この他の個所で、この「似ていること」(デムート)ということばがどのように用いられるかも見てみましょう。
 列王記第二・16章10節では「祭壇の図面」と言われています。この「図面」がデムートです。
 歴代誌第二・4章3節では「牛の型」と言われています。この「」がデムートです。
 詩篇58篇4節では「蛇の毒のような」と言われています。これは「蛇の毒のデムートのような」という言い方で、「デムートのような」全体が「 ・・・ のような」ということを表しています。
 イザヤ書13章4節では「おびただしい民にも似た」と言われています。これは「おびただしい民のデムート」という言い方です。また、40章18節では、

  あなたがたは、神をだれになぞらえ、
  神をどんな似姿に似せようとするのか。

と言われています。この「似姿」がデムートですが、その前の「なぞらえる」はデムートの動詞形(ダーマー)です。
 そして、ダニエル書10章16節では「人の姿をとった者」と言われています。これは「人の子のデムートの者」というような言い方です。
 これらの用例から、「似ていること」(デムート)ということばが表していることの輪郭が見えてきます。
 このことばは、基本的に、「 ・・・・ のようなもの」とか「 ・・・・ に似たもの」というような意味を表しています。
 そして、エゼキエル書では、それが主の栄光の顕現(セオファニー)を描くときに用いられています。このように、主の栄光の顕現(セオファニー)を描く場合には、もう一つの「かたち」(ツェレム)ということばが用いられることはありません。
 また、エゼキエルは、「似ていること」(デムート)ということばを用いることによって、主の栄光の顕現(セオファニー)において示されているものは、自分が知っているものそのものではなく、「何か、そのようなもの」であるということを伝えています。
 このように見ますと、神さまが人間を神のかたちにお造りになったことを記している創世記1章26節に出てくる、「かたち」(ツェレム)ということばと、「似ていること」(デムート)ということばには、意味合いの違いがあることが分かります。「かたち」(ツェレム)ということばは、「偶像」や「彫像」といった具体的な「像」を表しています。これに対しまして、「似ていること」(デムート)ということばは、それよりは抽象的な意味合いを伝えています。
 それで、そのような意味合いをもつものとして、ここでは、「かたち」(ツェレム)ということばを「似像」と訳し、「似ていること」(デムート)ということばを「似姿」と訳しておきたいと思います。
 創世記1章26節では、この二つのことばが連ねられて用いられています。それで、この二つのことばの関係について、いろいろな見方が提案されてきました。まず、それらの見方をお話ししてから、私の考えをお話ししたいと思います。
 第一に、「似像」(ツェレム)ということばと「似姿」(デムート)ということばを区別して、それぞれが別のものを表すという見方があります。この場合、創世記1章26節では後から出てくる「似姿」(デムート)ということばは、「似像」(ツェレム)ということばで表されているものの上に加えられたものを表しているとされています。そして、一般的には、「似像」(ツェレム)ということばで表されているものは、自然的なものであり、「似姿」(デムート)ということばで表されているものは、超自然的な賜物であると考えられています。これは、ローマ(カトリック)教会の「自然と恩恵の二重構造」と符合しています。
 この見方は、旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳が、「似像」(ツェレム)に当たるエイコーンと、「似姿」(デムート)に当たるホモイオーシスを、「そして」を表すカイという接続詞によってつなぐことによって、二つのことばを区別していることの伝統の上に立っています。
 この、「似像」(ツェレム)ということばと「似姿」(デムート)ということばを区別して、それぞれが別のものを表すとする見方には、いくつかの形があります。
 たとえば、オリゲネスは、人間は創造の御業によって「似像」(エイコーン、ツェレム)の尊厳性を与えられたとしています。そして、この「似像」(エイコーン、ツェレム)の完成あるいは成就は、「似姿」(ホモイオーシス、デムート)においてあり、それは将来のことであり、人間の努力と精進によるとしました。
 また、別の見方では、人間は創造の御業によって「似像」(エイコーン、ツェレム)と「似姿」(ホモイオーシス、デムート)の栄光を与えられたけれども、堕落によって、「似姿」(ホモイオーシス、デムート)の栄光を失ったとされています。この場合も、「似像」(エイコーン、ツェレム)は自然的なものであり、「似姿」(ホモイオーシス、デムート)は超自然的な賜物であるということになります。
 このような「似像」(ツェレム)ということばと「似姿」(デムート)ということばを区別して、それぞれが別のものを表すとする見方には、いくつかの問題があります。
 ヘブル語本文では、「われわれのかたちに」と「われわれに似るように」の間に接続詞はなく、二つは緊密につながっています。七十人訳ほどには「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)は区別されていません。それで、この二つのことばが、別のものを表していると考えることはできません。
 人間が神のかたちに造られていることを記している個所を見てみましょう。
 創世記1章26節では、これまで見てきましたように、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)の両方が用いられています。これに続く、1章27節では、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と言われていて、「似像」(ツェレム)が2回用いられています。また、人類の堕落の後のことを記している9章6節では、

  人の血を流す者は、
  人によって、血を流される。
  神は人を神のかたちに
  お造りになったから。

と言われていて、やはり、「似像」(ツェレム)が用いられています。
 これだけを見ますと、神さまは人間を、最終的には、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)の栄光をもつようになるものとしてお造りになったけれど、最初に造りだされた人間は「似像」(ツェレム)の栄光を与えられていた。そして、将来、人間の完全な従順によって、「似姿」(デムート)の栄光が与えられるはずであった、というような見方が成り立つような気がします。
 しかし、5章1節、2節には、

これは、アダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。

と記されています。ここでは、「似姿」(デムート)ということばが用いられています。それで、人間は、創造の御業によって、初めから、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)の栄光をもつものとして造られていたことが分かります。
 そうしますと、今度は、このことと、人類の堕落の後のことを述べている9章6節では「似像」(ツェレム)が用いられているということから、人間は、創造の御業によって、初めから、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)の栄光をもつものとして造られていたけれども、罪を犯して堕落してしまったことによって、「似姿」(デムート)の栄光を失ってしまった。そして、「似姿」(デムート)の栄光は、イエス・キリストの贖いの御業をとおして回復されるというような見方が成り立つような気がします。
 しかし、ヤコブの手紙3章9節には、

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

と記されています。これは、堕落の後の人間のことを語るものです。ここで用いられているのは、「似姿」(デムート)に当たるホモイオーシスです。ですから、ここでは、堕落後の人間に「似姿」(デムート)が当てはめられています。
 これらのことから、神のかたちのことを表す二つのことば、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)は、それぞれ別のものを表すのではなく、神のかたちという一つのものを別の面から述べていると考えられます。このような立場からも、さらに、いくつかの見方があります。
 すでにお話ししました、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)は、それぞれ別のものを表しているとする見方を第一の見方としますと、第二の見方は、この二つのことばのうち、より重要なのは「似像」(ツェレム)であるとします。このことばは、より具体的な「象」を表すことばです。それで、人間が神さまの完全な写しであるというような誤解が生じることを避けるために、より抽象的なことばである「似姿」(デムート)が付け加えられたというのです。この見方では、「似姿」(デムート)は、「似像」(ツェレム)の意味を限定するものであると考えられています。
 第三の見方は、第二の見方の逆の見方をするものです。この二つのことば、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)のうち、より重要なのは「似姿」(デムート)の方であるとします。そして、この、デムート(「似姿」)ということばと、「血」を表すダームということばの類似性に注目します。メソポタミアの伝承では、人間は「神」の血から造られたとされています。創世記の著者は、意識的にこのような考え方を拒否して、デムート(「似姿」)ということばが、そのようなことを連想させるかもしれないので、デムート(「似姿」)を限定し、定義づけるものとして、ツェレム(「似像」)ということばを付け加えたと考えます。これによって、デムート(「似姿」)が表しているのは、人間の身体的な現れであって、人間の身体の中を流れる血とは何も関係がないということを示しているとします。
 第四の見方は、この二つのことば、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)の間には何の相違もなく、二つのことばはまったく交換可能なことばであると考えます。
 そのように考える根拠として、二つのことがあげられています。一つは、1章26節に記されている神さまの創造の決意においては、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)の両方が用いられています。そして、実際の創造の御業を記している1章27節では、「似像」(ツェレム)だけが用いられています。このように、27節では「似姿」(デムート)が省略されているのですが、それによって、26節に記されている神のかたちから、何かが失われたというようなことはないというのです。
 もう一つは、すでに見ましたように、5章1節には「似姿」(デムート)ということばが用いられています。七十人訳は、ここで、このことばを訳すときに、「似姿」(デムート)に当たるホモイオーシスを用いないで、「似像」(ツェレム)に当たるエイコーンを用いています。
 これら二つのことから、この二つのことば、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)の間には何の相違もなく、二つのことばはまったく交換可能なことばであると主張されています。
 第五の見方ですが、1章26節では、まず、「似像」(ツェレム)ということばが用いられており、次に、「似姿」(デムート)ということばが用いられています。第五の見方では、「似姿」(デムート)が付け加えられたのは、「似像」(ツェレム)の意味を限定したり、割り引いたりするためではなく、むしろ、その意味を補充し拡大するためであるとされています。人間はただ単に神さまのツェレムであるだけでなく、デムート(「似姿」)なるツェレム(「似像」)であるというのです。
 このことから、人間は、ただ単に、神さまを代表するものであるだけではなく、神さまを表すものでもあると言われます。人間は、形がなく見ることのできない神さまの、形があって見ることのできる代表者であるというのです。デムート(「似姿」)は、人間が地上における神さまの十分で忠実な代表者であることを保証するものであるとされています。
 神のかたちを表すために用いられている二つのことば、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)の関係については、このように多くの見方があります。これらの見方に基づいて、いくつかのことを整理してみましょう。
 すでにお話ししましたように、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)とを明確に区別して、それぞれが別のものを表すとすることはできません。この二つのことばは、神のかたちという一つのものを表すために用いられていると考えるべきです。先ほどお話ししました第四の見方が、この二つのことばはまったく交換可能なことばであるとしているのは、この点を強調しています。
 しかし、1章26節に記されている神さまの創造のみことばにおいては、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)という、意味合いの違うことばが連ねられて用いられています。これには、それなりの意味があると考えなければなりません。この二つのことばの用例を見てみますと、ヘブル語本文の中では、同じことを言い換えるために用いられる並行することばとして用いられることはありません。これらのことから、第四の見方のように、この二つのことばがまったく交換可能なことばであるというのは、一面的であると考えられます。
 そうしますと、第四の見方が根拠としていることをどう考えるかという問題が出てきます。
 第四の見方の根拠は、神さまの創造のみことばを記す1章26節では「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)がともに用いられており、実際に人が神のかたちに創造されたことを記している27節では「似像」(ツェレム)が用いられているということです。さらに、実際に人が神のかたちに創造されたことを記している5章1節では、「似姿」(デムート)が用いられています。それで、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)は、同じものを表しておりまったく交換可能であると言われているわけです。
 これに対しましては、次のように考えることができます。神のかたちは、神さまの創造の御業の記事の中心である、創造のみことばを記す1章26節で「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)を連ねて表されているように、総合的で豊かなものであると理解します。その上で、このような神のかたちを表すためには、1章27節のように、「似像」(ツェレム)を用いることもできるし、5章1節のように「似姿」(デムート)を用いることもできるというように理解するのです。
 第四の見方では、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)同士が、お互いに交換可能なことばであるとしています。それに対しまして、この見方は、この二つのことばは意味合いが違っていて、互いに交換可能ではないと考えます。その一方で、この二つのことばは、どちらも、デムート(「似姿」)とツェレム(「似像」)を連ねることによって表される豊かさをもっている神のかたちを、等しく表すことができると考えています。このように理解することによって、人間が神のかたちに造られていることを記しているいくつかの個所に見られる表現の違いを、うまく説明することができます。
 また、このように理解することは、第二の見方や第三の見方、また、第五の見方のように、「似像」(ツェレム)か「似姿」(デムート)のどちらかをより基本的なことばとして、もう一つのことばがそれを限定したり、拡大するというように見ることではありません。この二つのことばは等しい重さをもっていると考えます。
 このように、この二つのことば、「似像」(ツェレム)と「似姿」(デムート)は、相互に深く結び合って用いられることによって、神のかたちが総合的で豊かなものであることを表していると考えられます。そして、その区別性という点では、それぞれが神のかたちという総合的で豊かなものを、別の角度から表していると考えられます。また、相互性という点では、どちらかが基本的であるという形ではなく、それぞれがそれぞれの意味合いをもっていながら、相互に補い合っていると考えられます。
 今日は、これら二つのことばをどのように理解するかということだけで終わりにいたします。神のかたちについては、さらにお話を続けます。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「天地創造」
(第31回)へ戻る

「天地創造」
(第33回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church