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説教日:2004年5月2日 |
今日ではほとんど言われなくなりましたが、創世記が記された古代オリエントの文化圏において一般的であった多神教的な発想が、26節の「われわれ」に残っているという見方があります。 しかし、創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事を読みますと、そこには多神教的な発想は見られません。天地創造の御業の記事は多神教的な発想が一般的であった文化圏の中にあって記されましたが、唯一の創造者であられる神さまと、神さまの御業を記しています。 また、著者の不注意のために多神教的な発想が残ってしまったのではないかと考えることもできません。この天地創造の御業の記事は非常に整えられたものです。いわゆる「文書資料説」という、「モーセ五書」の本文に内容的な発達があることを想定して、その基準からいくつかの文書に分類し直すという試みにおいても、この天地創造の御業の記事は、その最終段階に当たる「祭司典」に属するものであるとされていました。私たちはいわゆる「文書資料説」を採っていませんが、そのような説を採っている人々の目にも、この天地創造の御業の記事は、文書としても整えられており、思想的にも、厳格な唯一の創造者という理念の下に記されていることが認められているわけです。 ですから、この記事は、思いつきによって記されたものではありません。これを記すにあたっては、十分な準備がなされたでしょうし、推敲もなされたと考えられます。そのような著者が26節の「われわれ」を記しているのです。もし、これが著者の目に、多神教的な意味合いを伝えるものであると映ったのであれば、著者はいくらでもそれを変更することができたはずです。 ある人々は、26節の「われわれ」は「尊厳の複数」であると考えています。どういうことかと言いますと、これは、王が勅令を発するときに「われわれ」というように複数形を用いるのと同じであるということです。 ここで注意しなくてはならいのは、この26節の「われわれ」は、神さまがご自身のことを述べておられるのであって、人間が神さまのことを述べているのではないということです。いま私たちが問題にしているのは、神さまがご自身のことを述べておられるときに、ご自身のことを「尊厳の複数」で表わされることがあるかということです。 この創造の御業の記事の中で用いられている「神」という言葉(エローヒーム)は複数形です。しかし、この言葉にかかる動詞は単数形です。それで、この「神」という言葉(エローヒーム)は唯一の神さまを表わしています。これは、この記事の著者が神さまのことを述べるときに用いている「尊厳の複数」あるいは「強調の複数」です。しかし、26節の「われわれ」は、神さまがご自身のことを「われわれ」と呼んでおられるものですから、このような意味での「尊厳の複数」(「強調の複数」)ではありません。 コーランにおいては、神が自らのことを「われわれ」というように複数形で表わすことがあるそうです。けれども、今日では、ヘブル語にはそのような「尊厳の複数」の用法がないということが、広く認められています。 また、ある人々は、この複数形は自分自身に向かって語りかけるときの複数形であると考えています。これは「ゲセニウスのヘブル語文法書」の見方ですが、その具体的な論拠は記されていません。 しかし、この見方に対して、聖書の中では、誰かが自分自身に対して語りかけるときには単数形が用いられるのであって、複数形は用いられないということが指摘されています。このような場合に単数形が用いられている例を見てみますと、創世記2章18節には、 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 と記されています。また、詩篇12篇5節には、 主は仰せられる。 「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、 今、わたしは立ち上がる。 わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」 と記されています。さらに、イザヤ書33章10節には、 「今、わたしは立ち上がる。」と主は仰せられる。 「今、わたしは自分を高め、 今、あがめられるようにしよう。」 と記されています。 神さま以外の例ですと、イザヤ書14章13節、14節には、バビロンの王について、 あなたは心の中で言った。 「私は天に上ろう。 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、 北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、 いと高き方のようになろう。」 と記されています。 これに対して、神さまが「われわれ」という複数形をもってご自身に語りかけておられると考えている人々から、その例として指摘されている個所がいくつかあります。たとえば、榊原康夫『創造と堕落』(59頁)では、創世記3章22節、11章7節、イザヤ書6章8節、41章22節、23節、サムエル記第二・24章14節が挙げられています。 これを調べてみますと、このうち、イザヤ書41章22節、23節とサムエル記第二・24章14節は、誰かが自分自身に語りかけている例ではありません。それで、ここからは除外されるべきです。残りの、創世記3章22節、11章7節、イザヤ書6章8節は、神さまが「われわれ」と言っておられる例です。 ところが、他の見方を採る人々も、これらの個所を自分たちの見方に沿うものとして引用することができます。たとえば、次に取り上げる見方ですが、創世記1章26節で神さまが「われわれ」と言っておられるのは、御前に仕えている御使いたちを含めてのことであると考えている人々は、創世記3章22節、11章7節、イザヤ書6章8節に出てくる「われわれ」は、御使いたちを含むものであると主張するのです。また、創世記1章26節の「われわれ」は「尊厳の複数」であると主張する人々は、創世記3章22節、11章7節、イザヤ書6章8節に出てくる「われわれ」も「尊厳の複数」であると主張するでしょう。ですから、他にも神さまが「われわれ」と言っておられる個所を上げても、それだけでは、これらの見方のどれかを支持することにはなりません。 神さまが「われわれ」という複数形をもってご自身に語りかけておられるという見方の可能性を示すためには、神さま以外の一個の存在が「われわれ」という複数形をもって、自分自身に語りかけている例を挙げなければなりません。そして、ヘブル語にはそのような用法がある、ということを示さなければなりません。けれども、そのような用例は示されていません。 さらに、ある人々は、創世記1章26節で、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 と言われているときの「われわれ」にともなう「造ろう」は、いわゆる「伝達の複数」であるという見方をしています。つまり、神さまは、ご自身の御前で仕えている御使いたちに対して、ご自身が地上においてなそうとしておられることを伝えておられるというのです。 神さまが御前で仕えている御使いたちやご自身の民に、ご自身が地上においてなそうとしておられることをお伝えになった例は、聖書の中にいくつか記されています。たとえば、列王記第一・22章19節〜22節には、 すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。そのとき、主は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、あれこれと答えがありました。それからひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします。』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか。』と尋ねられました。彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ。』と仰せられました。」 と記されています。 また、創世記18章17節〜22節には、 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。 と記されています。この時、アブラハムはソドムとゴモラのために執り成しの祈りをささげました。 このように、神さまは、ご自身の契約の民や御使いたちとともに、ご自身の御業を遂行されることがあります。さらには、ヨブ記1章6節〜12節や2章1節〜6節に記されていますように、サタンをお用いになることさえあります。 「われわれのかたち」ということについては、この「伝達の複数」という見方を採る人々によって、御使いたちが神さまとともにある一つの群れを形成しているように、神のかたちに造られた人間も、それと同じ意味で、天使のかたちにも造られたと主張されることがあります。 この「伝達の複数」という見方は、ユダヤ教の伝統的な見方で、フィロンや「ペシクタ・ラビ・カハナ」、「エルサレム・タルグム」のミドラシュなどに示されています。また、最近の学者たちの間でも、この見方を採る人々が多くいます。 クラインはこの見方を採っていますが、神さまが御使いたちとともに「われわれ」と言われることには、法的な要素があり、大王にいます神さまの法的な宣言という性格があると述べています。これは、「造ろう」が「伝達の複数」であるという見方と、先に取り上げた「われわれ」が「尊厳の複数」であるとする見方を組み合わせるものです。 カイルは、この見方に対して、次のような反論をしています。確かに、神である主は御使いたちに囲まれていますし、御使いたちは主の命令を遂行します。しかし、創造の御業においては、神さまがいっさいのことをご自身でなさって、他の者たちはそれにあずかっていません。イザヤ書40章12節〜14節には、 だれが、手のひらで水を量り、 手の幅で天を推し量り、 地のちりを枡に盛り、 山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。 だれが主の霊を推し量り、 主の顧問として教えたのか。 主はだれと相談して悟りを得られたのか。 だれが公正の道筋を主に教えて、 知識を授け、英知の道を知らせたのか。 と記されています。もちろん、この問いかけはいわゆる「修辞疑問」で、主がお一人でそれをなさったということを伝えるものです。また、44章24節には、 あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。 と記されています。 御使いたちが神さまの御業に参与していることが聖書に記されていますが、それは、救いとさばきの御業の遂行にかかわることだけですので、このカイルの反論はそれとしての重みをもっています。先ほど引用しましたイザヤ書40章12節〜14節に記されているみことばは、創造の御業の遂行においては、神さまは誰にも相談することもなかったことを示しています。そして、13節、14節の、 だれが主の霊を推し量り、 主の顧問として教えたのか。 主はだれと相談して悟りを得られたのか。 だれが公正の道筋を主に教えて、 知識を授け、英知の道を知らせたのか。 というみことばは、ローマ人への手紙11章33節〜36節で、 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。 と言われている中の、 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。 ということばの背景となっています。 さらに、カイルは、聖書では、人間は神のかたちに造られたということが教えられているだけで、「天使のかたち」あるいは「神と天使のかたち」に造られているというようなことは教えていないと述べています。そして、ヘブル人への手紙2章6節〜8節に、 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。 「人間が何者だというので、 これをみこころに留められるのでしょう。 人の子が何者だというので、 これを顧みられるのでしょう。 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。」 と記されていることや、復活の後の人間のあり方についてのイエス・キリストの教えを記す、ルカの福音書20章35節、36節に、 次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。 と記されていることから、人間が「天使のかたち」に造られているとすることはできないと言います。 確かに、ルカの福音書20章36節で「彼らは御使いのようであり」と言われているのは、復活の後には「めとることも、とつぐことも」ないということを教えるためのことであって、人間が「天使のかたち」に造られているかどうかを示すものではありません。 また、みことばの全体的な教えにおいては、神のかたちに造られている人間が、神である主の一方的な恵みによって最終的にあずかる栄光、すなわち、終わりの日に完成する神のかたちの栄光は、御子イエス・キリストの復活の栄光にあずかるものとして、御使いたちの栄光に優るものであるということが示されています。人間が「天使のかたち」に造られたということは、聖書の中に教えられていないばかりか、このような神のかたちの栄光についての聖書の教えを歪める恐れがあります。 この「伝達の複数」という見方について、さらに、三つのことをお話ししておきたいと思います。 第一に、聖書のみことばは、創造の御業の遂行において、神さまは誰にも相談することもなかったことを示しています。それで、創世記1章26節に記されている、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 という神さまのみことばの「造ろう」が「伝達の複数」であるという見方では、天使が創造の御業に参与したとする見方の誤りを避けなくてはなりません。 ここで「伝達の複数」という見方をしているデリッチは、そのことを汲み取って、神さまが、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 と言われたのは、御前に仕えている御使いたちの関心を、人間が神のかたちに造られることへと向けさせるためのことであって、彼らを創造の御業そのものに参加させるものではないと述べています。 しかし、最初にお話ししましたように、この、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 という神さまのみことばは、天地創造の御業の記事の構成要素の中でも最も重要な「命令」に当たる、神さまの「創造のみことば」です。これが、御使いたちへの伝達の言葉であったとすることの意味はいったい何でしょうか。その点での納得できる説明が見当たりません。 第二に、先ほどお話ししましたように、神さまがご自身のことを述べられるときに、複数形で「われわれ」と言っておられる個所は、創世記3章22節、11章7節、イザヤ書6章8節、41章22節、23節です。これらの個所において、その「われわれ」に御使いたちも含まれる可能性があると言えるのは、創世記3章22節とイザヤ書6章8節だけです。それは、創世記3章24節にケルビムのことが語られており、イザヤ書6章2節〜7節にセラフィムのことが語られているというように、その前後の文脈に御使いたちが出てくるからです。しかし、創世記1章26節の文脈はおろか、天地創造の御業の記事全体においても、御使いたちの存在には一言も触れられていません。 第三に、みことば示しているところでは、神である主が「仕える霊」(ヘブル人への手紙1章14節)である御使いに、特に何かを伝えられるのは、御使いにある役割をお委ねになるときです。しかし、天地創造の御業の記事においては、御使いたちの出番はまったくありません。もちろん、御使いたちは、常に、神である主の御業に関心を寄せて、全身全霊を傾けて見ていますので、人間が神のかたちに造られたことは分かったはずです。 これらのことから、創世記1章26節に記されている、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 という神さまのみことばの中に出てくる「われわれ」は、話し手である神さまの側に複数の人格があることを示していると考えたほうがいいと思われます。このような見方があまり受け入れられていないのは、このように早い時期の啓示に神さまの人格の複数性が示されていたとは思えないというような考え方があるからでしょう。けれども、1章2節では、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われていて、創造の御業の初めから、神さまの御霊がこの世界にご臨在しておられたことが示されています。 ただし、このことから、この26節で三位一体の教理が示されていると言うことはできません。ここでは、神さまの人格の複数性が示されているだけであって、具体的に三人格ということは示されていません。しかし、この理解は、三位一体の教理と調和するものです。 このことを踏まえて、改めて、1章26に記されている、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。 という神さまのみことばが、創造の御業の記事の構成要素の中心である「命令」すなわち「創造のみことば」であることの意味を考えてみたいと思います。 これまでは、神さまが「 ・・・・ があるように。」、「 ・・・・ となるように。」と言われただけです。もちろん、それによって、神さまが言われたとおりのものが存在するようになりました。しかし、神さまが人間を神のかたちにお造りになるときには、 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 と言われて、ご自身の熟慮と決意をもってこの御業に当たられたことが示されています。人間を神のかたちにお造りになったことは、造り主である神さまご自身にとっても、重い意味をもっていたことが察せられます。 |
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