(第30回)


説教日:2004年4月4日
聖書箇所:創世記1章26節〜31節
説教題:創造の御業の頂点としての人の創造


 天地創造の第6日の御業は、24節、25節に記されている、地の上のさまざまな生き物の創造と、26節〜30節に記されている、人の創造に分かれます。地の上の生き物たちの創造については、すでにお話ししました。今日から何回かにわたって、26節〜30節に記されている、人の創造についてお話しします。26節〜30節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

と記されています。
 この26節〜30節は、大きく26節と27節〜30節の二つに分けることができます。26節は創造の御業の記事の要素である「創造のみことば」を記しており、27節〜30節は、その創造のみことばが実現したことを示す補足的な説明を記しています。
 26節に記されている創造のみことばでは、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

という、人をご自身のかたちにお造りになるという神さまの決意と、

そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。

という、人にご自身がお造りになったものを支配する使命をお委ねになる決意が表わされています。そして、補足的な説明を記している27節〜30節も、これに対応して二つに分けられます。27節には、人が神のかたちに造られたことが記されています。そして、28節〜30節には、神のかたちに造られた人に対する使命が授けられたことが記されています。
 この、人が神のかたちに造られたことにおいて、神さまの創造の御業は頂点に達しています。そのことは、この天地創造の御業の記事の中のいくつかのことから見て取ることができます。今日はそのことを三つほどお話ししたいと思いますが、そのことを見ることは、神さまの創造の御業を全体的に見ることにつながっていきます。


 第一に、26節には、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。

という神さまの創造のみことばが記されています。この中で神さまは、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

と言われて、ご自身のかたちに人をお造りになる決意を表わしておられます。そして、27節の補足的な説明において、それが実現したことが記されています。その補足的な説明を記す27節においては、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されています。
 ここには、神さまの創造の御業を記している1章1節〜2章3節の記事において、創造の御業の新しい段階を表わすものとして用いられていると考えられる「創造した」ということば(バーラー)が三回繰り返して用いられています。このことばは、すでにお話ししましたように、1章1節〜2章3節の記事において五回用いられています。最初に出てくるのは、1章1節で、そこでは、

初めに、神が天と地を創造した。

と言われています。これは独立した文で、天地創造の御業の記事の「見出し」に当たります。ここでは、この世界のすべてのものが、その存在ばかりでなく、それぞれのものの特性や、お互いの関係と全体的な調和も含めて、すべて神さまの創造の御業によって造り出されたものであることが宣言されています。そして、そこに「創造した」ということばが用いられています。
 この「創造した」ということばが、次に用いられているのは21節で、そこには、

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。
 これは、天地創造の第五日の御業の記事の中の補足的な説明です。この日の御業において、初めて「いのちのあるもの」が創造されました。その意味で、創造の御業は新たな段階を迎えました。そのことを表わすために「創造した」ということばが用いられていると考えられます。
 このように、「創造した」ということば(バーラー)は、天地創造の御業の記事の中で特別な意味合いを伝えるものとして用いられていると考えられます。そのことばが、人が神のかたちに創造されたことを伝える27節では、三回繰り返して用いられています。このことばが三回も繰り返して用いられているのは強調のためで、それによって、創造の御業においては、人が神のかたちに創造されたことが大切な意味をもっていることが示されていると考えられます。
 これが、人が神のかたちに造られたことにおいて、神さまの創造の御業が頂点に達していということを示す第一の点です。第二と第三のことを考えるために、まず、その背景となっていることを、いくつかお話ししたいと思います。
 神さまの天地創造の御業は、何かを試しに造ってみて駄目だったらやり直すというような「試行錯誤」によってなされたのではありません。神さまは無限、永遠、不変の知恵と力に満ちておられる方ですから、神さまが無計画なことをなさるというようなことは考えることもできません。また、大ざっぱな見通しだけを立てておいて、後は実際にことが起こってから考えるというようなことでもありません。神さまは、永遠から、すべてのものを知っておられますし、すべてのことを定めておられます。そして、その永遠のご計画にしたがって、この時間的な世界をお造りになりました。それが、創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業です。
 イザヤ書40章26節には、

  目を高く上げて、
  だれがこれらを創造したかを見よ。
  この方は、その万象を数えて呼び出し、
  一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
  この方は精力に満ち、その力は強い。
  一つももれるものはない。

と記されています。また、詩篇119篇89節〜91節には、

  主よ。あなたのことばは、とこしえから、
  天において定まっています。
  あなたの真実は代々に至ります。
  あなたが地を据えたので、
  地は堅く立っています。
  それらはきょうも、あなたの定めにしたがって
  堅く立っています。
  すべては、あなたのしもべだからです。

と記されています。
 今日のことばでいいますと、神さまはこの宇宙のすべての物事を細部にいたるまで、永遠に定めておられます。そして、すべてのものを、そのみこころにしたがって造り出されて、今も導いておられます。
 創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事においては、1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

という、天地創造の御業の記事に対する「見出し」で、この宇宙のすべてのものが神さまの創造の御業によって造り出され、その御手によって支えられていることを宣言しています。そして、続く2節では、

地は形がなく、何もなかった。

と言われていますが、このことばの前には「さて」という接続詞があります。ですから、2節は「さて地は」と始まるわけです。これは、この2節からは視点を変えて、この天地創造の御業の記事が、もっぱら「」に焦点を合わせて記されているということを示しています。神さまの天地創造の御業は、同時進行的に、この宇宙全体において展開していたのですが、創世記1章1節〜2章3節の創造の御業の記事の関心は、この「」に向けられています。
 しかも、この記事は、神さまの視点から、この「」を見ているというよりは、「」の上に住んでいる人間の視点から見たように記されています。言い換えますと、あたかも人がこの地の上にいて見ているかのような形で記されているのです。それは、この記事の目的によることでもあります。この天地創造の御業の記事は、これを読む者たちに、自分たちと自分たちの住んでいるこの世界がどのようなものであるかを理解して受け止めていくために必要な、もっとも基本的な光を与えるものです。この世界と、その中に住んでいる私たちは、どこから来たものなのか、その存在の意味は何なのか、そのような根本的な問題に光を投げかけています。
 このように創造の御業の記事の関心の的である「」における神さまの創造の御業を見てみますと、神さまは、まず、2節で、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と言われている、この世界の「最初の状態」を造り出されました。もちろん、無限、永遠、不変の知恵と力に満ちておられる神さまは、初めから完成した世界をお造りになることもできました。しかし、神さまはこの世界を「時間的な世界」としてお造りになりました。初めから完成していて、後は、何の変化もない世界としてではなく、より高い目的に向かって進んでいく世界としてお造りになりました。
 その意味では、この世界は単なる「時間的な世界」であるのではなく、「歴史的な世界」として造られています。つまり、ただこの世界が「時間的な世界」として、時間の経過とともに、物事も流れていくだけであるということではありません。造り主である神さまの永遠のご計画において定められた目的の下にあって、より高い目的に向かって、すなわち造り主である神さまの栄光をより豊かに現わすように整えられた世界になることに向かって進んでいく「歴史的な世界」として造られているのです。
 そのような「歴史的な世界」としてこの世界をお造りになった神さまは、その創造の御業も、このことに沿って、時間的な経過をたどって進展するものとして進めておられます。つまり、一瞬にして完成した世界を造り出されたのではなく、創造の御業を六つの日に分けて進めてこられました。もちろん、これは「天地創造の六つの日」であって、必ずしも私たちの住んでいるこの世界の一日一日を六日に渡って積み重ねた日というわけではありません。
 そして、そのようにして進められてきた創造の御業は、1章31節に、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

と記されている、創造の御業の完成をもって終わります。
 このことから、第二と第三のことが考えられます。
 まず、第二のことですが、このように六つの日に分けてなされた神さまの創造の御業においては、まず、3節に、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と記されていますように、まず、この世界に光をもたらされます。次に、第二日の御業を記す、6節、7節に、

ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。

と記されていますように、大気圏を形成されました。
 そして、第三日の御業を記している9節、10節には、

神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。
 これは、今日の「海」と「陸」の形成ですが、それは、太陽から射してくる光の存在と、大気圏が形成されていることを踏まえています。それによって初めて、大気の循環のシステムが働いて、大地は適当に渇きますが、そのためになされる蒸発作用によって雲が生み出され、乾き過ぎないうちに雨が降って大地を潤すようになっています。つまり、第三日において、ただ海と陸が分けられただけでなく、それに先立ってなされている御業と相まって、海と分けられた陸が適度に乾きつつ適度な潤いをもつものとなっているのです。
 その上で、11節に、

神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。

と記されていますように、さまざまな植物が造り出されました。それは、ひとたび造り出されると、自らのうちに結ばれる実である「」によって、増え広がるものとして造られています。
 そして、神さまは、このさまざまな種類の植物が、後に、ご自身が造り出される「いのちあるもの」のいのちを支える糧となるように、備えてくださっておられます。
 このように、神さまの創造の御業においては、まず、より基礎的なものが備えられています。その後に、その基礎的なものに支えられているものが造られています。そして、より後に造られたものは、より豊かないのちを現わすものとなっています。それは、より後になって、ご自身が永遠に生きておられる方であり、無限に豊かないのちに溢れておられる、造り主である神さまを、この世界の次元においてではありますが、より豊かに現わす存在が造り出されるようになったということです。
 このような流れの最後に、人が神のかたちに造られました。人は、神さまの創造の御業のこのような流れの最後に造られたということにおいて、創造の御業の頂点に当たるものとして造られたと言うことができます。
 そして、それは実質的にも言えることです。神のかたちがどのようなものであるかについては後ほどお話ししますが、神のかたちに造られている人は、その神のかたちということばからも分かりますように、造り主である神さまの栄光を、造られた世界の次元において、もっとも豊かに現わすものです。その意味でも、神のかたちに造られている人は、創造の御業の頂点に当たるものとして造り出されています。
 次に、第三のことですが、すでにお話ししましたように、この世界は、「歴史的な世界」として造られています。繰り返しになりますが、この世界は「時間的な世界」として、その時間の流れの中で物事がただ流されて、意味もなく変化していくだけではありません。造り主である神さまのみこころに沿って、神さまの栄光を、より豊かな形において現わすようになるという目的に向かって進展していく「歴史的な世界」として造られています。このことを踏まえて人の創造の記事を見てみますと、26節、27節において、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と言われていて、人が神のかたちに造られたことが記されています。それに続く28節においては、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 ここに記されている、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という神さまのみことばは、一般に、「文化命令」と呼ばれる命令です。この命令の意味についても、改めてお話ししますが、今お話ししていることとの関係で、注目すべきことをお話ししたいと思います。
 確かに、これは、人が、文化を形成する活動という意味での文化的な活動をすることの基礎にある命令です。しかし、これは、単なる命令ではありません。これに先立って、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。

と言われているように、これは、神のかたちに造られている人に対する祝福のことばです。
 人は、神のかたちに造られていて、文化を造るための豊かな能力を与えられているということだけで、文化的な活動をするのではありません。そのような能力を与えらているだけでなく、造り主である神さまが、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

というみことばをもって祝福してくださったために、文化的な活動をするのです。
 さらに、すでにお話ししましたように、神さまはこの世界を「歴史的な世界」としてお造りになりました。そして、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という祝福のことばをもって、ご自身がお造りになったこの世界を、神のかたちに造られている人に委ねてくださいました。ということは、この命令は、ただ単に文化的な活動をするということで終わらないで、この世界を「歴史的な世界」としてお造りになった神さまのみこころに沿って、歴史を造るようにという祝福を与えてくださったものであると考えられます。
 そのことは、この、神さまの祝福のことばの中にも表わされています。神さまは、まず、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。

と言われました。
 これは、他の生き物たちに対する祝福を記している、1章22節の、

生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。

ということばと同じように見えます。確かに、二つの祝福には共通したものがあります。しかし、人間以外の生き物たちは、文化的な活動をすることはありません。まして、自分たちの築いた文化的な遺産を子孫に継承するというようなことはありません。しかし、神のかたちに造られている人には、歴史的な意識があります。それで、人は、たださまざまな文化的な活動をするだけではありません。自分の人生の中で、その活動を積み上げていきます。それは自分の人生の中で終わるのではなく、それを子孫たちに受け継がせていきます。そのことを考えますと、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。

という神さまの祝福によってもたらされるのは、そのような文化的な活動も子孫たちに受け継がせていくということも含まれていると考えることができます。
 このようなことから、この命令は「文化命令」というよりは「歴史命令」と呼ぶべき命令であると言えます。私は、一般によく知られている「文化命令」の「文化」を残した方がいいということで「歴史と文化を造る使命」という呼び方はどうかと考えています。
 いずれにしましても、神さまの天地創造の御業は、神のかたちに造られている人が造られて、「歴史と文化を造る使命」が委ねられたことをもって終わっています。この点からも、人の創造は、この「歴史的な世界」の創造の御業の頂点に当たると考えることができます。

 


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