(第29回)


説教日:2004年3月7日
聖書箇所:創世記1章24節〜31節
説教題:地に棲む生き物の創造


 今日から創世記1章24節〜31節に記されています、天地創造の第六日の御業についてお話しいたします。第六日の御業は、24節、25節に記されている地に棲む生き物である動物の創造と、26節〜30節に記されている人間の創造に分けられます。今日は、地に棲む生き物の創造の記事についてお話しします。
 改めて24節、25節を見てみますと、そこには、

ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。
 これに先立つ第五日の御業を記している20節〜23節には、水の中に棲む生き物や飛ぶ生き物が造られたことが記されています。そこでは、初めていのちあるものが造られたことにおいて、創造の御業が新しい段階を迎えたことが示されています。それで、21節で、

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。

と言われている中で、1節で用いられてから、これまで用いられていなかった「創造された」ということば(バーラー)が用いられています。
 けれども、同じ生き物ではあっても、第五日に造られた水の中に棲む生き物や地の上、天の大空を飛ぶ生き物は、第六日に造られた生き物より人間に遠い存在です。その意味で、第六日には神のかたちに造られている人間により近い生き物が造られたことが記されています。
 新改訳では、24節は、

ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。

と訳されています。
 この訳には問題があります。
 まず、この訳では、「その種類にしたがって」ということばが置かれている位置によって、「生き物」、「家畜」、「はうもの」が一つのグループで、「野の獣」と区別されているように見えます。しかし、ここでは、「生き物」が一般的なものを表わしており、それが、「家畜」、「はうもの」、「野の獣」に分けられていると理解すべきと思われます。
 ここには「その種類にしたがって」ということばが二つ出てきますが、それが、どれにつながっているのか、いまひとつはっきりしていません。最初の「その種類にしたがって」ということばは、「生き物」にかかるものです。新改訳では、「家畜」や「はうもの」にもかかるようにもみえます。
 二つ目の「その種類にしたがって」ということばは、「その」が単数であるために、新改訳は、これを、そのすぐ前にある「野の獣」にかかるものとしています。これは、文法の上からは正しいのですが、25節で、

神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。

と言われていることと照らし合わせてみますと、新国際訳(NIV)のように「おのおのその種類にしたがって」と訳して、「家畜」、「はうもの」、「野の獣」のすべてにかかるようにした方がいいと思われます。
 これらを生かして訳しますと、24節に記されている神さまの創造のみことばは、

地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。

となります。


 ここで「生き物」と訳されている、ネフェシュ・ハイヤーということばにつきましては、すでに、20節にこのことばが用いられていますので、そこに記されていることとのかかわりで、お話ししました。このことばは呼吸をして、本能的であれ何であれ、「自己」という中心をもって動き回る生き物を表わしています。
 「家畜」と訳されているブヘーマーということばは、一般的な意味で用いられるときには、人間以外のすべての獣を指すものとして用いられます。もちろん、鳥や爬虫類とは区別されます。たとえば、出エジプト記8章17節、18節には、

そこで彼らはそのように行なった。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。

と記されています。ここで「人や獣」と言われているときの「」がブヘーマーということばです。ここでは、これが「」との区別において用いられています。しかし、創世記1章24節、25節では「」ばかりでなく「野の獣」との区別においても用いられていますので、「家畜」のことを表わしていると考えることができます。
 「はうもの」と訳されているレメスということばは、21節の「水に群がりうごめくすべての生き物」ということばの中にも用いられていて「うごめく」と訳されています。つまり、同じような動作をする生き物が、水の中にも地の上にも棲んでいるわけです。
 このレメスということばは、補足的な説明を記している25節にも用いられていて、そこでは「地のすべてのはうもの」と言われています。これは、広く爬虫類から虫までを含むものと考えられます。
 「野の獣」(ハイトー・エレツ)は、文字通りには「地の獣」です。この場合の「」は、

地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。

と言われているときの「」(エレツ)です。ここでは、「家畜」と区別されている獣ですので、「野の獣」、「野生の獣」ということになります。
 24節に記されている神さまの創造のみことばを見てみますと、神さまは、

地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。

と命じておられます。つまり、「地は ・・・・ 生ぜよ。」と命じておられるのです。そして、

するとそのようになった。

と記されています。
 言うまでもなく、これは、「」が動物たちを造ったということではありません。ここでの創造の御業の主体は「」ではなく、

地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。

というみことばを語っておられる神さまです。神さまが「」にこれらの動物たちを生じるように命じられたので、そのようになったのです。その点で誤解がないように、補足的な説明を記している25節では、

神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。

と言われています。
 問題は、この「地は ・・・・ 生ぜよ。」という、神さまの命令のことばが、どのような意味であるかということです。
 一つの見方では、第五日の御業を記している20節で、

水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。

と言われているのと同じように、「個々の動物の創造のみわざの結果を、その結果に至る過程を含めて語る詩的な表現と見なされる。」(舟喜信「創世記」『新聖書注解』)というように考えられています。
 確かに20節で、

水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。

と言われているのは、神さまが水の中に棲む生き物と、地の上や空を飛ぶものを創造された結果、水の中に生き物が群がり、飛ぶものが地の上や空を飛ぶようになったことを示していると考えることができます。この場合には、「群がるようになれ」や「飛べ」と訳されていることばが起源や原因を表わしていると考えることはできません。むしろ、それは結果を表わしています。「」や「」や「天の大空」は神さまの創造の御業にはかかわらないで、神さまが水に棲む生き物と飛ぶものをお造りになった結果、それらのものが「」や「」や「天の大空」で群がったり、飛び回ったり、増え広がったりするようになったわけです。その意味で、「」や「」や「天の大空」はこれらの生き物が生息する場所を表わしています。
 このように、20節に記されている、

水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。

という創造のみことばでは、結果としてそのようになるようにと命じられていると考えられます。それで新改訳は、そのような意味に訳しています。
 けれども、第六日の御業を記している24節の、

地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。

という命令を、それと同じように理解することには無理があります。というのは、 20節に記されている、

水は生き物の群れが、群がるようになれ。

という創造のみことばと、24節に記されている、

地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。

という創造のみことばは、それぞれの言い回しが違っているからです。
 20節で、

水は生き物の群れが、群がるようになれ。

と言われているとき、「生き物の群れ」(シェレツ・ネフェシュ・ハイヤー)は「群がる」(シャーラツ)という動詞の目的語ではありません。つまり、ここでは、

水は生き物の群れで群がるようになれ。

と言われているのであって、

水は生き物の群れを群がらせよ。

と言われているのではありません。
 これに対して、24節の、

地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。

という創造のみことばでは、「生き物」、「家畜」、「はうもの」、「野の獣」が、「地は ・・・・ 生ぜよ。」の「生ぜよ」という動詞(ヤーツァル)の目的語となっています。この場合には「」が「生き物」、「家畜」、「はうもの」、「野の獣」を生じたのです。
 また、20節では、水には生き物たちが群がるようになり、飛ぶものが地の上や空を飛ぶようになるという、結果としての「生態」が描写されています。しかし、24節には、そのような動物たちの「生態」の描写はありません。つまり、その動物たちが群がったり走り回ったりするようになれというような「生態」にかかわる命令がないのです。
 これらのことから、24節の、

地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。

という命令を、20節と同じように過程を含む結果を表わすことばと理解することはできません。つまり、「」は神さまの創造の御業そのものにはかかわらないで、神さまの創造の御業によって造り出された動物たちの置かれた所を表わしていると理解することはできないということです。
 24節の「生ぜよ」という動詞(ヤーツァル)は、12節で、

それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。

と言われているときの「生じた」と訳されているのと同じことばで、どちらの場合も「」がその主語となっています。また、12節では、「」が、何らかの意味で、神さまの創造の御業の遂行にかかわっていると考えられます。
 さらに、2章19節においては、

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。

と記されています。
 ここでは、神である主が「土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られた」と言われています。この「」は(アダーマー)で「」(エレツ)ではありませんが、この二つは深くかかわっています。
 これらのことから、1章24節で、

地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。

と言われているのは、神さまはこれらの動物たちを創造されるに当たって、何らかの意味で「」をそれにかかわらせてくださったことを示していると考えられます。
 すでにお話ししましたように、「」が自分の力でこれらの動物たちを生み出したと考えることはできません。あくまでも、創造の御業を遂行なさっておられるのは神さまです。神さまが、

地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。

とお命じになったとき、神さまはただそのようにお命じになっただけで、後は「」にお任せになったとか、成り行きに任せたということはありません。25節で、

神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。

と言われているように、神さまがそれらの動物をお造りになりました。その際に、神さまは、ご自身がすでに形造っておられた「」の中に、これらの動物たちを造るための素材あるいは原料を用意しておられて、それを用いて動物たちをお造りになったのだと考えられます。
 このことは、同じ創造の御業の第六日に造られた人間にとっても意味をもっています。
 神さまが、

地は、その種類にしたがって、生き物、おのおのその種類にしたがって、家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ。

とお命じになって、これらの動物たちをお造りになったということは、動物たちと「」との結びつきの深さを示しています。実際、これらの動物たちは「」に生息するものです。
 これに対して、26節、27節では、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と言われています。
 ここでは、人間は、神のかたちに造られたと言われています。確かに、人間はこの「」の上に住んでいます。人間と「」の結びつきには深いものがあります。そのことは、私たち以上にその時代の人々が知っていたことです。けれども、人間の創造の記事においては「」の役割のことは記されていません。このことに、神のかたちに造られた人間は、「」との結びつき以上に、造り主である神さまとの結びつきを深くもっているものであることが示されています。

 


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