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説教日:2004年2月1日 |
このことについてさらにお話しする前に、創造の御業における神さまの祝福そのものについて、いくつかのことをお話ししておきたいと思います。 神さまの祝福は、この日に造られた生き物たちに対して神さまが語られたという形を取っています、しかし、これは、その生き物たちが神さまからの語りかけを聞いたということではありません。その意味では、この神さまの祝福は、いわば神さまが一方的に、この日に造られた生き物たちの上に下してくださったものです。 そうではあっても、この祝福は、 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。 というように、命令のことばで表わされています。そして、それは生き物たちに向けて語られています。けれども、生き物たちはこの神さまの祝福のことばを聞いてはいません。このことをどのように考えたらいいのでしょうか。 これは何となくおかしなことのように思われますが、実は、このことに、神さまの祝福の特徴があります。この神さまの祝福のことばは、 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。 というように命令の形を取っていますが、20節に記されている、 水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。 という創造のことばも命令の形を取っています。このように、神さまの創造のことばも祝福のことばも命令の形を取っていますが、生き物たちは、そのどちらのことばも聞いていません。その違いは、創造のことばがいまだ存在していない生き物たちの存在そのものを造り出したことばであるのに対して、祝福のことばは、そのようにして造り出された生き物たちに向けて語られたことばであるということです。 このことは、神さまの祝福は神さまの主権的で一方的な働きかけによるものであるということを示しています。生き物も神のかたちに造られている人間も、神さまの主権的な創造の御業のお働きによっていのちあるものとして造り出され、神さまの主権的な祝福によっていのちの豊かさのうちに住まうように祝福されているのです。 神さまの祝福が神さまの主権的な愛と恵みから出ているということとのかかわりでお話ししたいのですが、聖書には、民数記6章24節〜26節に記されている大祭司の祝福や、使徒たちの手紙の最後に記されている使徒の祝福など、神さまに召された人々の祝福のことばが記されています。しかし、その祝福そのものはその人々が与えるものではなく、神さまが与えてくださるものです。造られた世界の祝福の源は、造り主である神さまご自身です。人は、すべての祝福の源である神である主の御名によって祝福し、神さまの祝福を求めるのです。実際、大祭司の祝福は、 主があなたを祝福し、 あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、 あなたを恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、 あなたに平安を与えられますように。 というものです。また、使徒の祝福の一つを見てみますと、コリント人への手紙第二・13章13節には、 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。 と記されています。どちらも、神である主の祝福を求めるものです。その意味で、人は主のみこころにそって、また御名によって祝福しなければなりません。 生き物も神のかたちに造られている人間も、神さまの主権的な創造の御業のお働きによっていのちあるものとして造り出され、神さまの主権的な祝福によっていのちの豊かさのうちに住まうように祝福されているということは、神さまの創造の御業と神さまの祝福が深くつながっていることを意味しています。その意味で、神さまの創造のことばと祝福のことばは深くつながっています。そして、神さまの創造のことばと祝福のことばが深くつながっていて、どちらも、命令の形で語られているということは、神さまの祝福のことばが、創造のことばのように力があることを意味しています。 神さまは、創造の御業において、創造のことばによって、この世界とその中にあるすべてのものを造り出されました。同じ創造の御業において語られた祝福のことばも、同じように力があって、そのみことばによって語られたことを実現します。イザヤ書55章10節、11節には、 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、 必ず地を潤し、 それに物を生えさせ、芽を出させ、 種蒔く者には種を与え、 食べる者にはパンを与える。 そのように、 わたしの口から出るわたしのことばも、 むなしく、わたしのところに帰っては来ない。 必ず、わたしの望む事を成し遂げ、 わたしの言い送った事を成功させる。 と記されています。 ですから、創世記1章22節の、 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。 という、造り主である神さまの祝福のことばは、神さまがお造りになった生き物たちが、生み、ふえ、地と水に満ちるようになることの基礎です。生き物たちは、この造り主である神さまの祝福のことばに支えられて、生み、ふえ、地と水に満ちるようになるのです。 このように、神さまの祝福のことばは、創造のことばと同じように力があり、そのことばに示されていることを必ず実現します。そこに、神さまの祝福の確かさがあります。 しかし、神さまの祝福のことばは、創造のことばと同じものではありません。神さまの祝福のことばは、神さまの創造のことばとその実現を前提としていて、その上に立って、宣言されています。22節の、 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。 という祝福のことばは、これらの生き物が造られたことを前提としています。そこに生き物たちの存在があるということだけではなく、これらの生き物たちが、子孫を生んでふえる能力を備えていることも含まれています。 さらには、これらの生き物が子孫を生んでふえ広がるために必要な地や海は、創造の御業の第三日に整えられていますし、生き物たちの生存を支える食べ物も、第三日に備えられていました。神さまの祝福のことばは、そのような、創造の御業による備えを踏まえて語られています。 このように、神さまの創造のことばは、それまでにはなかった新しいものや、新しい状態を造り出すものです。これに対して、祝福のことばは、そのようにして造り出されたものにかかわるものです。それでは、祝福のことばはどのような意味をもっているのでしょうか。 創造の御業において祝福のことばが語られているのは、1章22節に、 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」 と記されている、生き物への祝福と、28節に、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されている、神のかたちに造られている人間への祝福です。 このほか、祝福のことばが語られたことは記されていませんが、2章3節に、 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 と記されているように、第七日全体が祝福されています。 けれども、第七日の場合には、祝福されただけでなく聖別されてもいます。また、第七日はこの時間的な世界にかかわるものですが、第一日から第六日とつながって、神さまの創造の御業の時間的な枠組みを構成しています。その意味で、第七日は、生き物や人間のように、創造の御業によって造り出されたものとは区別されます。 それで、ここでは、第七日の祝福と聖別は外して、生き物への祝福と、神のかたちに造られている人間への祝福に注目してみましょう。 生き物への祝福は22節に記されています。これは創造の第五日の御業の中でのことです。そうしますと、24節、25節に記されています地上の生き物の創造は、第六日の御業として記されていますので、地上の生き物への祝福はどうなっているのかという疑問が出てきます。 これについては、すでにお話ししました天地創造の御業の記事の中で用いられている「創造した」(バーラー)ということばを思い出すとよいかと思います。この「創造した」(バーラー)ということばは、天地創造の御業の記事全体への「見出し」である1章1節で用いられた後は、21節で、 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。 と言われている中で用いられています。 これは、この第五日の御業において、いのちをもっていて、本能的ではあっても、自らの意識にしたがって活動する生き物が造り出されたことによって、創造の御業が新しい段階を迎えたことを意味していました。22節に記されています生き物に対する祝福は、このことを受けています。 創造の御業の記事の流れの中では、次に、「創造した」(バーラー)ということばが用いられているのは、27節で、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と言われている中で、三回繰り返されています。 これは、神のかたちに造られている人間が創造されたことによって、神さまの創造の御業が、さらに新しい段階を迎えたことを意味しています。28節に記されています、神のかたちに造られている人間への祝福はこのことを受けています。 この「創造した」(バーラー)ということばによる区切りでは、第五日に初めていのちあるものとしての生き物が造られたことで、それまでの御業に対して一区切りがなされます。そして、この生き物たちへの祝福が与えられています。このことの上に立ってなされている御業は、神のかたちに造られている人間が造られたことによって、さらに一区切りができています。そして、神さまの祝福もこの新しい区切りに対応してなされています。その意味で、第六日に造り出された地上の生き物への祝福は、第五日に宣言されている生き物たちへの祝福の枠の中に含まれています。 確かに、22節の祝福のことばは、 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。 というものですから、それは、水にすむ生き物や飛ぶものに当てはまるものです。けれども、この祝福の中心は「生めよ。ふえよ。」ということにあり、その結果、それぞれの生き物が生息する所を満たすようになるということです。このことは、そのまま、地上に生息する生き物にも当てはめることができます。 さて、22節に記されている、 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。 という生き物への祝福のことばと、28節に記されている、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という神のかたちに造られている人間への祝福のことばを比べてみますと、「生めよ。ふえよ。 ・・・・ を満たせ。」という部分が共通しています。22節の、 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。 は、直訳では、 生めよ。ふえよ。海の水を満たせ。 です。この「海の水」を「地」に置き換えれば、28節の、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 となります。 神のかたちに造られている人間の場合には、これに、 地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 ということが付け加えられています。 これは、26節に、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 と記されている、神さまの創造のことばを受けています。この神さまの創造のことばでは、人間が、 地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 と命じられているのは、人間が神のかたちに造られているからであることを示しています。つまり、人間は神のかたちに造られているものとして、神さまがお造りになったものを、神さまのみこころにそって治める使命を委ねられているということです。それは、造り主である神さまがお造りになったものを大切にして、それぞれの生き物が神さまから与えられている特性にそって生きることを支える使命です。 そのような使命を遂行することをとおして、造り主である神さまの栄光を現わすことが、神のかたちに造られている人間の尊厳性と栄光の現われでもあるのです。 この22節に記されている生き物への祝福と、28節に記されている神のかたちに造られている人間への祝福から分かることは、最初に少し触れましたが、神さまの祝福は、いのちあるものの、いのちの豊かさにかかわっているということです。創造の御業の中では、いのちあるものが造られるまでは祝福が語られることはありませんでした。 生き物たちも、神のかたちに造られている人間も、造り主であり、いのちの源である神さまの祝福にあずかって、そのいのちが、さらに豊かに増え広がるようになります。 神のかたちに造られている人間の場合には、それとともに、そのいのちが造り主である神さまの愛といつくしみに満ちた栄光を現わすことをとおして、神のかたちとしてのいのちをより豊かに表現するのです。 このことを踏まえて、人間に委ねられている、 地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を考える必要があります。神のかたちに造られている人間が、造り主である神さまの祝福の下に、 地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を受けたときには、すでに、委ねられた生き物たちは造り主である神さまの祝福を受け、その祝福の下に置かれていたのです。それで、神のかたちに造られている人間がそれらの生き物たちを治めるということは、造り主である神さまの祝福の下に置かれている生き物たちが、より豊かないのちの実を結ぶようになるために、仕えることであることが分かります。その意味で、神のかたちに造られている人間は、造り主である神さまが生き物たちを祝福してくださった祝福を実現する使命を与えられています。神のかたちに造られている人間は神さまの祝福の器として召されているのです。 すでにお話しましたように、創造の御業の記事の中では、「創造した」(バーラー)ということばが用いられていることによって区切りが示されています。その区切りは、いのちあるものが造り出されたことと、神のかたちに造られている人間が造り出されたことによって、創造の御業が新しい段階を迎えたことを示していました。 いのちあるものが造り出されたことによって、創造の御業が新しい段階を迎えたのは、造り主である神さまご自身が生きておられる方であり、いのちそのものであられるからです。生き物たちは、いのちあるものとして、造り主である神さまが生きておられる方であることをあかししています。 そして、神のかたちに造られている人間が造られたことによって、造り主である神さまが生きておられる方であることが、より豊かな形であかしされるようになりました。 創造の御業の中では、このような、いのちあるものが、神さまの祝福を受けています。それは、そのいのちあるもののいのちがより豊かなものとなることを意味しています。それによって、神さまが生きておられる方であることが、さらに豊かな形であかしされるようになります。 このことは、神さまの祝福は、いのちあるものが、いのちそのものであられ、いのちの源である神さまにより深くかかわるものとしていただくことにある、ということを示しています。神のかたちに造られている人間は永遠のいのちの祝福に招かれています。その永遠のいのちは、ヨハネの福音書17章3節に、 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 と記されているように、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまを知ることであり、その愛の交わりのうちに生きることです。 |
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