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説教日:2004年1月4日 |
より神話的な意味合いが強い怪獣を表わしている事例も、いくつか見てみましょう。 ヨブ記7章12節では、 私は海でしょうか、海の巨獣でしょうか、 あなたが私の上に見張りを置かれるとは。 と言われています。 これは、ヨブのことばですが、古代オリエントの文化の中で「海」や「海の巨獣」が神(神々)に敵対する勢力であることを背景として語られています。 詩篇74篇12節~14節では、 確かに、神は、昔から私の王、 地上のただ中で、救いのわざを行なわれる方です。 あなたは、御力をもって海を分け、 海の巨獣の頭を砕かれました。 あなたは、レビヤタンの頭を打ち砕き、 荒野の民のえじきとされました。 と言われています。 ここでは、出エジプトの贖いの御業の際のエジプトに対するさばきを、霊的な戦いに重ね合わせて見ています。ここでも、先ほどのヨブ記7章12節と同じように、「海」と「海の巨獣」と「レビヤタン」が神(神々)に敵対する勢力であるという古代オリエントの文化圏の発想が背景となっています。主が紅海の水を分けて、イスラエルの民をお救いになり、パロの軍隊をおさばきになったことを、それらの神話的な怪獣によって示されている暗やみの力に対するさばきとしての意味をもっていることを示しています。 これと同じことを記しているのは、イザヤ書51章9節、10節です。そこには、 さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。 さめよ。昔の日、いにしえの代のように。 ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、 あなたではないか。 海と大いなる淵の水を干上がらせ、 海の底に道を設けて、 贖われた人々を通らせたのは、 あなたではないか。 と記されています。ここでは「竜を刺し殺した」と訳されていることばの「竜」がタンニーンです。また「ラハブ」も神話的な怪獣です。 イザヤ書27章1節にも、これとほぼ同じことが記されています。ただ、主のさばきの対象として考えられている地上の国家が何であるかはっきりしません。そこには、 その日、主は、鋭い大きな強い剣で、 逃げ惑う蛇レビヤタン、 曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、 海にいる竜を殺される。 と記されています。最後に出てくる「海にいる竜」の「竜」がタンニーンです。 ちなみに、ここに出てくる 逃げ惑う蛇レビヤタン、 曲がりくねる蛇レビヤタン ということばは、ウガリット神話の中にこれとまったく同じ言い回しで出てきます。 また、エレミヤ書51章34節には、 バビロンの王ネブカデレザルは、 私を食い尽くし、 私をかき乱して、からの器にした。 竜のように私をのみこみ、 私のおいしい物で腹を満たし、 私を洗い流した。 という主のことばが記されています。 これはバビロンに対するさばきが執行されるようになることの預言ですが、「バビロンの王ネブカデレザル」ガ「竜」(タンニーン)にたとえられています。 創造の御業の記事にもとりますが、創世記1章21節においては、「海の巨獣」(ハタンニーニム・ハゲドーリーム)は、実在の生き物を表わしています。というのは、ここで問題となる「海の巨獣」は除いて見なければなりませんが、創世記1章に記されている創造の御業によって造られたものは、すべて実在するものばかりだからです。その意味では、ここに記されている天地創造の御業の記事には、神話的なものに対する関心はありません。 この「海の巨獣」が何を表わしているかということについては、いくつかのことが考えられます。 ここでは、タンニーンということばが、大きいことを表わすことば(ガードール)とともに用いられています。それで、これは大きな生き物を表わしています。 また、タンニーンということば自体は、「蛇」を表わすこともあります。けれども、20節に記されている神さまの創造のみことばは、 水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。 というものです。ここでは水の中に棲む生き物のことが記されていますので、「蛇」はこれに含まれません。 新改訳はハタンニーニム・ハゲドーリームを「海の巨獣」と訳していますが、これは意訳です。ヘブル語では、ここに「海の」という、この生き物が棲む場所を限定することばはありません。ハタンニーニム・ハゲドーリームは、直訳では、「大きなタンニーン」の複数形です。それが水の中に棲む生き物であるということと、22節に記されている、 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。 という神さまの祝福のことばに「海の水」が出てくることから、新改訳では「海の巨獣」と訳されていると考えられます。確かに、このことから「大きなタンニーン」が棲む所は基本的に海であると考えられます。しかし、第五日の御業において語られた創造のみことば自体は、 水は生き物の群れが、群がるようになれ。 というもので、特に海を示すことばはありません。。それでこの「大きなタンニーン」が棲む場所を海に限定しないほうがいいと思われます。 また、ここで言われている「大きなタンニーン」は、たとえば、クジラのことであるというように、一つの種類の生き物に限定しないで、より広く、多くの種類の生き物を指していると考えた方がいいと思われます。先ほどお話ししましたように、タンニーンということば自体は、いくつかの生き物を表わすのに用いられています。 このようなことから、ここで言われている、「大きなタンニーン」は、海ばかりでなく、湖や沼や川などを含めて、水に住んでいる大きな生き物のことであると考えられます。クジラだけでなく、たとえば、河馬やワニなどはこれに入ると思われます。 そして、21節では、このような意味での「大きなタンニーン」は、その次に述べられている「水に群がりうごめくすべての生き物」と区別されています。当然、この「水に群がりうごめくすべての生き物」も、海の生き物に限定されてはいないと考えられます。これには湖や沼や川などに棲んでいる生き物も含まれていると考えられます。 「水に群がりうごめくすべての生き物」の「うごめく」[ハーローメセト(ラーマスの分詞の女性形)]は、26節でも用いられています。そこで、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 と言われている中の「地をはうすべてのもの」は、直訳では「地の上をはっている、すべてのはうもの」となります。この「地の上をはっている」の「はっている」[ハーローメース(ラーマスの分詞の男性形)]が、「水に群がりうごめくすべての生き物」の「うごめく」に当たります。24節、25節、26節にも、「はうもの」が出てきますが、これらは名詞(レメス)です。 ですから、24節~26節に出てくるのは、地の上をはうものであり、野生の獣や家畜とは区別される、這い回る生き物で、爬虫類や虫の類いを指しています。21節では、これに相当する、水の中に棲んでいる生き物で、しかも、群れをなして生息するもののことが述べられています。 カスートは、この創造の御業の第五日の記事において、「海の巨獣」すなわち「大きなタンニーン」(ハタンニーニム・ハゲドーリーム)以外は、すべて一般的なカテゴリーだけが述べられているのに、「大きなタンニーン」として取り上げられていることに注目しています。そして、これには著者の意図があると述べています。それは、古代オリエントの神話において、神に対立する怪獣と考えられていたものを、被造物の領域に位置づけることにあると言います。 これは興味深い見方であり、これと同じように考えている人々が他にもいます。しかし、この見方には注意も必要であると思われます。 まず、21節で述べられている「海の巨獣」すなわち「大きなタンニーン」が神話的な怪獣を念頭に置いているということは、「大きなタンニーン」が一般的なカテゴリーではないという理解を前提としています。けれども、この「大きなタンニーン」は特定の生き物であるというよりは、もう少し一般的なものを表わしていると考えることができます。というのは、すでにお話ししましたように、この「大きなタンニーン」は、これと区別される生き物が「水に群がりうごめくすべての生き物」であるとされているからです。それで「大きなタンニーン」は、それ以外の、より大きな生き物たちを指していると考えることができます。 もし、「大きなタンニーン」を神話的な怪獣のことであるとしますと、ここには、「水に群がりうごめくすべての生き物」よりも大きな生き物たちが造られたことが記されていない、ということになってしまいます。 また、すでに、いくつかの事例を挙げてお話ししましたように、聖書の中で、「タンニーン」が古代オリエントの神話的な怪獣を表わしている考えられるところでは、「海」や、「レビヤタン」や「ラハブ」など、その他の神話的な怪獣と結びつけられています。しかし、創造の御業の第五日の記事には、そのような描写はありません。 このようなことから、創造の御業の第五日の記事の中で「大きなタンニーン」が出てくるのは、神話的な怪獣のことを念頭に置いてのことであるというように考えない方がいいと思われます。 ただし、この場合にも、創造の第四日の記事の天体の描写についてお話ししたことが当てはまると思われます。 21節の「大きなタンニーン」ということばを見た人が、それによって、神話的な怪獣を連想することは、ありえることです。そして、その場合には、その神話的な怪獣も、神さまの御手によって造られたものであると考えるようになることも、ありえることです。けれども、それは、必ずしもこの記事が意図していることではないと思われます。 確かに、古代オリエントの神話的な怪獣の恐るべきイメージは、現実の獣の恐るべき姿をもとにして生み出され、そのイメージが膨らんでいって、神に敵対する神的な存在と考えられるようになっていったと考えられます。これに対して、21節の記事から、水の中に棲んでいるどんなに恐ろしい生き物でも、神さまの御手によって造られたものであり、もともと、神さまがよいとご覧になった被造物世界に属している、ということを汲み取ることができます。このことから、神話的な怪獣についてのイメージを過大に誇張することに対して一定の歯止めがかけられると思われます。 20節、21節では、 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。 と言われています。 これまでは水の中に住んでいる生き物のことを取り上げましたが、ここにはさらに「鳥」が出てきます。この「鳥」と訳されていることば(オーフ)は、「飛ぶもの」を指すことばで、鳥ばかりでなく、飛び回る昆虫もこれに含まれると考えられます。 レビ記11章20節~23節には、 羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである。 と記されています。 ここで「羽があって群生し」と訳されていることばは、シェレツ・ハーオーフで、創世記1章20節、21節で「鳥」と訳されているオーフが出てきます(ハーは定冠詞)。この、シェレツ・ハーオーフは、「群がるもので、飛ぶもの」という意味ですが、文脈の上では、昆虫のことです。 それで、創世記1章20節の、 また鳥は地の上、天の大空を飛べ。 の「鳥」(オーフ)は、「鳥」を初めとする、すべての「飛ぶもの」を意味していると考えられます。 この「飛ぶもの」(オーフ)は、創造の御業の記事でははっきりと述べられてはいませんが、レビ記11章20節~23節では「群がるもので、飛ぶもの」ということばが出てきます。「飛ぶもの」(オーフ)の多くは、また「群がるもの」でもあります。その点に、第五日に造られたものの共通点があると考えることができます。 創世記1章20節で、 また鳥は地の上、天の大空を飛べ。 と言われているときの「飛べ」は(ポーレル語幹で表わされている)強調形で、「飛び回れ」ということを意味しています。これによって、「飛ぶもの」たちの活発な活動が表現されています。同時に、ちょうど、竹とんぼを作った子どもが、それが空高く飛んでいくことを期待して飛ばすように、「飛ぶもの」たちがご自身のお造りになった世界を縦横に飛び回ることを望んでおられる、造り主の「思い入れ」のようなものが感じ取れます。 同じことは、それに先立つ、 水は生き物の群れが、群がるようになれ。 という造り主である神さまのことばにも込められていると考えられます。ここには生き物の「群れ」(シェレツ)が「群がる」(シャーラツ)というように、群れをなすことを表わすことばが重ねられています。造り主である神さまが、盛んな群れの形成を期待しておられることが感じ取れます。 造り主である神さまは、生きておられます。ご自身がいのちそのものであられ、すべていのちあるもののいのちの源であり、それを支えておられる方です。神さまが生きておられるいのちの主であられることは、神さまがお造りになった世界にいのちあるものたちが存在していることをとおしてあかしされています。その神さまがお造りになったいのちあるものたちは、実に多様ないのちの姿を表わしています。神さまはその最初のあかしとして、この第五日の御業によって、水の中と地の上に群がって生息し、活発に動き回る多くの生き物を創造されました。神さまが生きておられることは、この後さらに豊かないのちあるものが創造されることをとおして、さらにあかしされていくことになります。そのあかしは、神のかたちに造られている人間の創造をとおして、最もはっきりとしたものになります。 |
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