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説教日:2003年11月2日 |
20節で「生き物」と訳されているのは、ネフェシュ・ハィヤーという言葉です。この言葉は、ネフェシュとハィヤーの結合したものです。 ネフェシュは旧約聖書の中で755回用いられていて、多様な意味を表わしています。この言葉は元来「息」を意味する言葉であったと言われています(TWOT、?、588)。このことは、ネフェシュと、これに相当するアッカド語、ウガリット語に「のど」という意味があることによっても支持されます。聖書の中では、たとえば、詩篇69篇1節で、 神よ。私を救ってください。 水が、私ののどにまで、はいって来ましたから。 と言われているときの「のど」は、このネフェシュによって表わされています。 ネフェシュという言葉には多様な意味がありますが、そのほとんどは人間についての描写の中で用いられています。それで、「生き物」の創造である第五日の御業との関係では、その最も基本的な、「息」を意味することを捉えれば十分であると思われます。 もう一つのハィヤーは、「生きる」という意味の動詞ハーィヤーの派生語です。この言葉は、おもに、野生の手なずけられていない動物を表わすのに用いられています。 たとえば、創世記7章14節には、ノアの箱舟に入った動物のことが記されています。そこでは、 彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、はいった。 と言われています。この「あらゆる種類の獣」の「獣」が、ハィヤーで表わされています。この「獣」は、その次に出てくる「家畜」と区別されています。 また、たとえば、創世記8章17節や、レビ記11章2節、27節、47節などでは、広く、動物一般を指すのに用いられています。さらには、ヨブ記38章39節では「食欲」の意味で用いられています。ちなみに、この「食欲」という意味は、ネフェシュによって表わされることもあります。たとえば、詩篇17篇9節で「貪欲な」と訳されている部分は、ネフェシュによって表わされています。 これらのことから、ハィヤーという言葉には、「活発に動き回るもの」という意味合いがあることが分かります。 このこととのかかわりで注目すべきことは、創世記1章20節〜22節の描写が生き物の活発に動き回る様子を伝えているということです。20節では、 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。 と言われていますが、「鳥は地の上、天の大空を飛べ」の「飛べ」は(ポーレル語幹で表わされていて)「飛び回れ」と訳すことができます。 これらのことをまとめますと、20節で「生き物」と訳されているネフェシュ・ハィヤーという言葉を構成する、ネフェシュは「息のあるもの」といった面を表わし、ハィヤーは「活発に動き回るもの」である面を表わしています。 この二つの言葉を組み合わせた、ネフェシュ・ハィヤーという言葉は、創世記1章20節、24節、30節、9章12節、15節、16節、エゼキエル書47章9節に出てきます。また、ハィヤーに定冠詞がついた、ネフェシュ・ハハィヤーという言葉は、創世記1章21節、9章10節、レビ記11章10節、46節で用いられています。これらの言葉は、創世記2章7節で人間について用いられている以外は、すべて人間以外の生き物について用いられています。 創世記2章7節では、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われています。この「生きもの」は人間のことですが、ネフェシュ・ハィヤーで表わされています。 この記事からも分かりますように、この場合のネフェシュ・ハィヤーは「息」とのかかわりを示しています。この点に、人間と他の生き物たちとの類似性があります。どちらも、息をして活動する生き物であるということです。 けれども、そこにはまた区別もあります。人間の場合には、神である主ご自身が、親しく人間に向き合ってくださって、「いのちの息」(ニシュマト・ハイーム)を吹き込んでくださいました。その他の生き物たちの場合には、このようなことはありませんでした。 もちろん、ここでは神さまのことが擬人化的な表現で表わされています。これによって、神のかたちに造られている人間のいのちを基本的なところで支えており、いのちがあることの基本的な表われでもある「息をすること」が、神である主によって支えられていることが示されていますが、それだけではありません。「息をすること」が、神である主によって支えられていることは、他の生き物にも当てはまります。詩篇104篇29節に、 あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、 彼らの息を取り去られると、 彼らは死に、おのれのちりに帰ります。 と記されているとおりです。ここではさらに、人間は、文字通り、神である主と「息を合わせる」存在として造り出されていることが示されています。 このことは、また、人間の場合には、まず、アダム一人が造られたのに対して、他の生き物の場合には、初めから多くのものが造られたことにも反映しています。 このように、天地創造の第五日には、同じくいのちあるものでも植物とは違って、息をし、活発に動き回るもの、すなわち、生き物が創造されたのです。このように息をして活発に動き回る生き物は、動物たちのように本能的であることと、人間のように人格的であることの違いはありますが、それぞれが自らの意識をもっています。 このような意味でのいのちのあるものが創造されたという点で、創造の御業は一つの新しい段階を迎えたと言うことができます。 このことを反映して、21節では、 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。 と言われています。 ここで注目すべきことは、この21節に、1節に用いられていた「創造した」という言葉(バーラー)が用いられているということです。この「創造した」という言葉(バーラー)は、創世記1章では、1節と、この21節に1回ずつ、そして、人間が神のかたちに造られたことを記している27節に3回用いられています。 すでに1節を取り上げたときにお話ししましたが、この「創造した」という言葉(バーラー)は、「造った」という言葉(アーサー)とは少し意味合いが違います。 「造った」という言葉(アーサー)は、創世記1章では、7節、11節、12節、16節、25節、26節、31節に出てきます。この言葉は、より広く、「する」とか「造る」ということを表わし、基本的には、あるものを形造ることを表わすものです。 これに対して、「創造した」という言葉(バーラー)は、基本形であるカル語幹では、神さまのお働きについてだけ用いられています。つまり、カル語幹では、この動詞の主語は常に神さまなのです。また、この言葉は、素材となる物質を表わす言葉とともに用いられることがありません。このようにして、この「創造した」という言葉(バーラー)は、創造されたものの「新しさ」という面を強調しています。 このように、「生き物」(ネフェシュ・ハィヤー)と「創造した」(バーラー)という言葉によって、創造の第五日において、神さまの創造の御業が新しい段階を迎えたことが示されています。第五日に「生き物」が造られたことの新しさは、そこにいのちのあるものが造り出されたという点にあります。これは、造り主である神さまが永遠に生きておられる方であるということを、これまでに造られたものよりも明確に映し出すものが造り出されたということを意味しています。そして、このことに神さまがお造りになったもののいのちの尊厳性の根拠があります。 この、創造の第五日の御業によって造り出された新しさを踏まえておくことは、次に「創造した」(バーラー)という言葉が出てくる27節に記されている御業によって造り出された人の存在の新しさを理解するうえでの助けとなると思われます。 27節では、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と言われています。 ここでは、人間が神のかたちに造られたことが記されていますが、その中で「創造した」(バーラー)という言葉が3回用いられています。ですから、この27節に記されていることの新しさは、特別な意味での新しさであることがうかがわれます。それは、これまでお話ししてきました、第五日の御業によってもたらされた新しさを踏まえて、さらにその上に、それを越える新しさが造り出されていることを意味しています。 第五日においては、息をして活発に動き回る「生き物」(ネフェシュ・ハィヤー)が造り出されました。この「生き物」は、それまでに造られていた、ある種の「いのち」のあるものとしての植物とは異なったものとしての新しさをもっています。この「生き物」の新しさは、ただ単に植物の発展したものとは言えない新しさです。そのことが、「創造した」(バーラー)という言葉によって示されています。 このように、第五日においては、息をして活発に動き回る「生き物」(ネフェシュ・ハィヤー)が創造されましたが、27節に記されている、人間が神のかたちに造られたことおいては、さらにそれを越える新しさが造り出されているのです。それは、ただ単に、それに先立つ「生き物」たちの創造によって造り出された新しさが発展しただけのものではありません。人間に与えられている新しさと独自性は神のかたちとしての新しさであり、「生き物」たちに与えられている新しさをはるかに越えたものです。 これは、この世界のすべてのものを物質的なものに還元して、その上で、「生き物」も人間もそれ以前にあったものが発達しただけのものであるとする見方とは違います。みことばは、植物と動物と人間の間に「土からのもの」という点での共通性があることを示しています。けれども、植物と動物の間には特別な意味での新しさがあり、さらに動物と人間の間には、より特別な意味での新しさがあることを示しています。 27節に記されている、神のかたちに造られている人間に与えられている新しさを理解することは、逆に、21節に記されている、「生き物」たちに与えられている新しさを理解するうえでの助けとなるとも思われます。 すでにお話ししましたように、聖書の中では、植物にも、ある種の「いのち」があることが認められています。ところが、その植物が造り出された、創造の第三日の御業を記している記事の中では、「創造した」(バーラー)という言葉は用いられていません。植物が造り出されたことには、「創造した」(バーラー)という言葉によって示される新しさが示されてはいないのです。これは、いったい、どういうことなのでしょうか。 それは、創世記1章に記されている創造の御業の「究極的な新しさ」は、「創造した」(バーラー)という言葉を3回連ねている27節に記されている、神のかたちに造られている人間の創造にあるということにかかわっていると思われます。 すでにお話ししましたように、2章7節では、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われています。この「生きもの」は人間のことですが、ネフェシュ・ハィヤーで表わされています。そして、このネフェシュ・ハィヤーは、ここで人間のことを述べるのに用いられている以外は、すべて、人間以外の「生き物」を表わしています。 このことに示されている、人間と、その他の「生き物」との類似性に注目しますと、1章21節に示されている「生き物」に与えられている新しさは、1章27節で、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と言われていることに示されている、神のかたちに造られている人間に与えられている「究極的な新しさ」に類似している新しさであると思われます。 この人間と「生き物」との類似性と、神のかたちに造られている人間の独自性いうことから、さらに、いくつかのことを見ておきたいと思います。 1章26節では、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 と言われており、28節では、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と言われています。 ここでは、神のかたちに造られている人間が「生き物」たちを「支配する」使命を委ねられていることが示されています。しかし、そこに植物のことは直接的には述べられてはいません。植物は、「地を従えよ。」という命令の中に含まれていると考えられます。 大切なことは、ここで言われている「支配する」ということの意味です。人間が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落してしまった後には、罪の自己中心性によって支配することの意味が歪められてしまい、力尽くで支配することを意味するようになってしまいました。しかし、ここで言われているのは、本来の意味で支配することです。 実際に、神のかたちに造られている人間がその支配する活動をしていること記している、2章15節には、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。これは「地を従えよ。」という命令を実行しているのですが、今日の言葉で言いますと、地に「仕えている」のです。この「耕す」と訳されている言葉(アーバド)は、基本的に「仕える」ことを表わします。その名詞形(エベド)は「しもべ」を意味しています。 また、2章19節、20節には、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。 と記されています。 ここで、人は、「生き物」たちの中に「ふさわしい助け手」がいるかどうかを調べています。そのことは、人間と「生き物」たちとの間にある、ネフェシュ・ハィヤーとしての類似性に基づいてなされています。そして、その「ふさわしい助け手」が見つからなかったことは、神のかたちに造られている人間に与えられている新しさが、独自の新しさであることを意味しています。 人は、「生き物」たちに「名をつける」ことによって、「生き物」たちを支配することを始めています。聖書の中では、名をつけることは権威を発揮することを意味しています。この場合には、「名をつける」ことは、やがて「ふさわしい助け手」としての女性と初めて出会ったときに、23節に記されている、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。 という「愛の歌」を歌うことにつながっていきます。 このことから分かりますように、人が「生き物」たちに名をつけたことは、「生き物」たちとの関係を確立するものです。そして、その名は、「生き物」たちの本質的な特性を表わすものです。その意味で、人は「生き物」たちのことをよく理解して、その上で名をつけています。 ですから、人が「生き物」たちに名をつけたのは、「生き物」たちを支配するためですが、それは「生き物」たちとの間に、一種の「交わり」を確立することから始まっています。これは、神のかたちに造られている人間と「生き物」たちとの間にある、類似性の上に成り立っています。そして、ここで言う支配することも、今日の言葉で言いますと、「生き物」たちのお世話をし、「生き物」たちに「仕える」ことです。このことから、「生き物」の創造がそれまでに造られたものと区別される新しさを示しているということが、神のかたちに造られるようになる人間の創造の新しさにつながっている面があるということを見て取ることができます。 このように、1章に記されている創造の御業においては、神のかたちに造られている人間において「究極的な新しさ」が見られます。それは、人間が神のかたちに造られていることによる独自性を意味しています。 この人間の独自性は、先ほどお話ししました、「ふさわしい助け手」のことにも示されていますが、天地創造の目的という点からも考えることができます。 すでに、第一日の御業とのかかわりでお話ししましたが、天地創造の御業は、神さまがご臨在される「神殿建設」としての意味をもっています。イザヤ書66章1節、2節に、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 わたしが目を留める者は、 へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。 と記されているとおりです。 神さまが創造されたこの世界には、神さまご自身がご臨在されて、その栄光を現わしておられます。このことの最もはっきりとした現われが、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きることです。神のかたちに造られている人間に与えられている新しさと独自性は、造り主である神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの交わりに生きるいのち、すなわち、「永遠のいのち」をもっていることにあります。 すべての造られたものは神のかたちに造られている人間を中心とした礼拝に連なる形で造り主である神さまを礼拝します。詩篇148篇1節〜10節に、 ハレルヤ。 天において主をほめたたえよ。 いと高き所で主をほめたたえよ。 主をほめたたえよ。すべての御使いよ。 主をほめたたえよ。主の万軍よ。 主をほめたたえよ。日よ。月よ。 主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。 主をほめたたえよ。天の天よ。 天の上にある水よ。 彼らに主の名をほめたたえさせよ。 主が命じて、彼らが造られた。 主は彼らを、世々限りなく立てられた。 主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。 地において主をほめたたえよ。 海の巨獣よ。すべての淵よ。 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。 みことばを行なうあらしよ。 山々よ。すべての丘よ。 実のなる木よ。すべての杉よ。 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。 翼のある鳥よ。 と記されていますように、神のかたちに造られている人間はすべての造られたものに向かって、造り主である神さまを礼拝するように呼びかけています。ですから、神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった、ご自身がお造りになったすべてのものを支配する使命には、二つの面があります。一つは、造り主である神さまを代表して、神さまがお造りになったものを支配するという意味で、王的な使命であるということです。もう一つの面は、造られたすべてのものを代表して、造り主である神さまの御前に立って礼拝するという意味で、祭司的な使命であるということです。 |
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