![]() |
説教日:2003年3月2日 |
天体に与えられた第二の役割は、 しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。(直訳・「しるしのため、季節のため、日と年のためであれ。」) ということです。 ここには「しるし」、「季節」、「日」、「年」の四つが出てきます。これらが互いにどのように結びつくのか、あるいは、どのように区別されるのかについては、いくつかの見方があるようです。 第一の見方は、 しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。 という新改訳の訳文が示していますように、「しるし」、「季節」、「日」、「年」の一つ一つを区切るものです。これは、「しるし」、「季節」、「日」、「年」をそれぞれ独立したものと見るものです。 第二の見方は、この逆で、「しるし」、「季節」、「日」、「年」が一つのものを表わしていると考えるものです。たとえば、「定められた時すなわち日と年のためのしるし」とか、「季節のための、また、日と年のためのしるし」とするのです。 第三の見方は、ヘブル語の原文では、「・・・のため」ということを表わす前置詞が三つありますので、これを基準にして区切るものです。そうしますと、「しるし」、「季節」、「日と年」となります。私はこの区切り方がいちばんいいのではないかと思っています。その理由は後ほどお話しします。 第四の見方は、「しるし」と「季節」で一つのものを表わすと考えるものです。たとえば、この二つで「季節のしるし」を表わすとしたり、「定められた時」を表わすとしています。 第五の見方は、「季節」、「日」、「年」は、時間的なものなので、ひとまとめにして「季節すなわち日と年」として、これと「しるし」を区別するものです。 これらの見方のうちどれを取るべきであるかは、文法的には決められません。ただ、第三の見方のように、前置詞に注目しますと、「日」と「年」は一つにまとめられているように思われます。概念的にも、「日」と「年」は、近いものとしてまとめられると思われます。 そうしますと、これらをどのように区分するかは、おもに、「しるし」と「季節」をどのように理解するかにかかっているように思われます。具体的には、二つの問題があります。一つは、「しるし」と「季節」が別々のものであるのか、それとも、「しるし」と「季節」で一つのものを表わしているのかということです。もう一つは、「季節」と「日と年」は別々のものであるのか、それとも、「日と年」が「季節」を説明するものであるのかということです。 まず、それぞれのことばの用例からお話しします。 「しるし」と訳されていることば(オート)は、ヘブル語聖書の中では80回くらい用いられています。そして、広く「しるし」を表わしています。たとえば、創世記4章15節に出てくる、カインに与えられた「しるし」は、このことばで表わされています。また、創世記9章12節、17章11節、31章13節に出てくる、契約の「しるし」もこのことばで示されています。さらに、いわゆる「インマヌエル預言」を記しているイザヤ書7章14節に出てくる「しるし」もこのことばで表わされています。 このことば(オート)が用いられている個所を、全体として見てみますと、主が、「しるし」として、何かを与えてくださるときには、そこに、何らかの意味があるということと、その「しるし」によって、人間を初めとして、その「しるし」に接するもの、が何らかの益を受けるようになるということが分かります。(これは、当然のことですね。) もう一つの、「季節」と訳されていることば(モーエード)は、ヘブル語聖書の中では、223回用いられています。このことばは、基本的に、人が集まるために「定められた時」や「定められた場所」を表わします。そして、その特別な例として、「定められた祭」をも表わします。 次に、これら二つのことばで表わされているもの(「しるし」と「季節」)が、創造の第四日の御業の中でどのように考えられるかについてお話しします。 まず、「しるし」ですが、これが、それとして独立したものを指しているのか、それとも、「季節」と結びついて「季節のためのしるし」あるいは「定められた時」となるのか、判断に迷うところです。しかし、このことは、「しるし」が独立したものであれば、何を指しているかということを考えることによって、解決の方向が示されると思われます。 これについては、さまざまなことが考えられています。 たとえば、人間は「しるし」としての天体によって、自分たちの地理上の位置を定めたり、時間を判断したりします。また、天体は、航海の時の助けになる「しるし」です。また、さまざまな生きものたちも、天体の位置関係でさまざまな活動をしていることが知られています。 また、天体の様子を見て気象を判断することもあります。また、星座の分布を基にして、天をいくつかの部分に区切ることもあります。 さらには、マタイの福音書2章2節に記されている「東方の博士たち」が見た「星」や、「終わりの日」のことを記す、ルカの福音書21章25節に「日と月と星には、前兆が現われ」と言われていることのように、普通ではない出来事や、神さまのさばきの「しるし」という見方もあります。 しかし、この最後の見方には賛成できません。というのは、創世記1章14節では、最初に創造された時の世界のことが記されているからです。この段階で、すでに、人類の堕落を踏まえて、さばきのことを想定しているとは考えられません。それで、普通ではない出来事や、神さまのさばきの「しるし」まで、ここに持ち込むことはできないと思われます。 いずれにしましても、神さまがお造りになったこの世界の現実を見てみますと、天体がさまざまな形で、「地」にあるものたちにとって「しるし」としての役割を果たしていることが分かります。天体は、ただ「季節」のための「しるし」(「季節」を告げる「しるし」)となっているだけでなく、積極的な「しるし」としての役割を果たしているのです。 そのようなわけで、この創世記1章14節で言われている、「しるし」と「季節」を結びつけて、「季節のためのしるし」とすることはできないと思われます。ただし、「しるし」と「季節」がそれぞれ独立しているとするためには、次に取り上げる「季節」も独立していることを示さなければなりません。結論的には、これからお話ししますように、「季節」も独立していると考えられます。 次に、「季節」と訳されていることば(モーエード)によって表わされているものについて見てみましょう。 一般にB・D・Bとして知られているヘブル語のレキシコンは、創世記1章14節においては、「季節」と訳されていることば(モーエード)は、その前の「しるし」と訳されていることば(オート)と意味が同じであり、「月の現われによって定められる、聖なる季節」を指すというふうに見ています。これは、この「季節」と訳されていることば(モーエード)を、旧約聖書に出てくる、過越とそれに続く種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りなどの「例祭」(定められたときに行なう祭り)のようなものを指すと理解するものです。そして、この「例祭」を定めるために天体が役に立つということです。 この見方は、多くの人々によって支持されています。けれども、このような見方に対しては、次の二つの問題をあげることができます。 第一に、確かに、旧約時代のカレンダーは、いわゆる「太陰暦」で、月を中心にできていました。また、旧約の「例祭」が月の現われによって定められていました。けれども、そのことを、そのまま、この創世記1章14節に持ち込んでくることはできないと思われます。というのは、天地創造の第四日の御業においては、太陽と月がともに中心であるからです。それで、このことば(モーエード)で表わされているものに、月だけをかかわらせて、「月の現われによって定められる、聖なる季節」とすることには無理があります。 第二に、第四日の御業は、天地創造の御業として、単にイスラエル(の祭り)にかかわるだけでなく、すべての民とすべての時代の人々にかかわるものであると考えられます。天地創造の御業は、民族や文化の区別を越えてすべての人々に意味をもっているわけです。その意味でも、このことば(モーエード)で表わされているものを、旧約の「聖なる季節」に限定してしまうことはできないと思われます。言い換えますと、ここで、このことば(モーエード)は、旧約の例祭だけでなく、それ以外のものも表わしているということです。 このように、このことば(モーエード)は「定められた時」を表わしていますが、天地創造の第四日の御業にかかわるものとして、単に歴史の一つの時代や、特定の文化にだけかかわるものではないと考えられます。それは、人間にとって普遍的なものを指していると思われます。 これらのことから、このことば(モーエード)が表わしているものについては、イスラエルの文化に照らして考えるよりは、創造の御業の枠の中で考えた方が良いと思われます。また、このことば(モーエード)が表わしているものを考えるうえで大切なことは、すでにお話ししたことですが、第四日の御業が「地」とのかかわりで、天体の役割を確立したということです。そして、その天体の役割が意味をもつのは、「地」に存在する生き物や植物のすべてですが、特に、人間に対してです。 そのようなわけで、差し当たって、創造の御業の記事の枠の中でこれらの条件を満たすものを見出すとすれば、第三日の御業とのかかわりが考えられます。 第三日には、やがて、人間を含めた、すべてのいのちあるものの食物となる植物、草や木が創造されました。そして、第三日の御業を記す11節、12節で、 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。 と言われていますように、そこでは、「種」のことが繰り返し語られて強調されています。 また、人間を含めた、すべてのいのちあるものに、食物となる植物、草や木が与えられたことを記す1章29節、30節では、 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。 と言われています。 ここでは、人間の場合にだけ「種」のことが触れられています。それは、人間が「種」を手にして、それを蒔き、その実を刈り入れるからです。それによって、人間は、自分たちの基本的な必要を満たしてくれる食べ物が、神さまが創造の御業によって備えてくださった賜物であることを心に刻んでいきます。そして、神さまが備えてくださった賜物である「種」を大切に管理していきます。 このこととのかかわりということから言いますと、基本的に「定められた時」を表わす、このことば(モーエード)は、基本的には、種まきの時や収穫の時などを表わしていると考えられます。 2章15節では、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と言われています。このこととのかかわりで言いますと、土地を耕しつつ守る人間が、その務めを果たすのに必要な、さまざまな時を指していると考えられます。使徒の働き14章16節、17節には、 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。 と記されています。 このように、このことば(モーエード)は、創世記1章14節では、基本的に、種まきの時や収穫の時のように、人間が神さまから委ねられた使命を果たすうえで大切な「時」(「時期」や「季節」)のことを指していると考えられます。 それとともに、これは人間のことに限らず、たとえば、ホセア書2章9節に出てくる、ぶどう酒の季節や、エレミヤ書8章7節に出てくる、渡り鳥がわきまえている季節など、さまざまな季節が含まれていると考えられます。 この意味で、創世記1章14節では、このことば(モーエード)を「季節」と訳すのがよいと思われます。ただし、それは、私たちが言うところの春、夏、秋、冬というような「四季」のことというよりは、たとえば「収穫の季節」、「ぶどうの季節」、「花の季節」、「渡り鳥の季節」というように、もっと具体的で多様なものの「季節」を指していると思われます。 すでにお話ししましたように、「日」と「年」は一対のものであると考えられます。天体が「日と年」のために役割を果たすということは、言うまでもなく、一日を区切り、一年を区切るということでしょう。それによって、「地」に住んでいる私たちも、一日を区切り、一年を区切って、時の流れを記憶しています。言い換えますと、人間は、天体が「日と年」のために果たしている役割にしたがって、カレンダーとしての暦を作っているわけです。 これらのことから、「季節」と「日と年」の関係を考えますと、「季節」と「日と年」は区別されると思われます。「季節」は、地にある人間、動物、植物にかかわる、より特定な季節や期間を表わしています。これに対して、「日と年」は、一日の区切りや、一年の区切りなど、カレンダー的なことにかかわるものです。私たちは、「季節」と「日と年」の両者によって、「時」を意識し、わきまえています。そのどちらにも、天体が役割を果たしています。 私たちは、天体が「日と年」のために果たしている役割によって、「時」が規則正しく刻まれていることをわきまえます。この世界に存在しているすべてのものが、「日と年」として覚えられる「時」の流れの中にあります。この「時」が規則正しく刻まれていることは、私たちの生活のリズムにとって、また、すべての生き物や植物の生長にとっても、基本的に大切なことです。 同時に、「時」が規則正しく刻まれていることは、神さまの真実さをあかししています。 また、太陽と月を中心とする天体は、「地」にあるさまざまなものの「季節」のために積極的な役割を果たしています。それによって、満月の時に産卵のための活動をする海の生き物、渡り鳥の季節、さまざまな草木が花を咲かせ、実をならせる季節など、豊かな営みに満ちている「季節」が生み出されています。このことをとおして、私たちは、自分たちに与えられている時は、ただ流れていく無味乾燥なものではないことをわきまえます。「季節」としての意味をもっている「時」は、神さまの御手によって造られた、さまざまなものが、その実りをもたらし、いのちを躍らせる豊かさに満ちています。 詩篇104篇19節〜24節には、 主は季節のために月を造られました。 太陽はその沈む所を知っています。 あなたがやみを定められると、夜になります。 夜には、あらゆる森の獣が動きます。 若い獅子はおのれのえじきのためにほえたけり、 神におのれの食物を求めます。 日が上ると、彼らは退いて、 自分のねぐらに横になります。 人はおのれの仕事に出て行き、 夕暮れまでその働きにつきます。 主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。 あなたは、それらをみな、 知恵をもって造っておられます。 地はあなたの造られたもので満ちています。 と記されています。 |
![]() |
||