![]() |
説教日:2003年2月2日 |
第一の役割は、14節前半では、 光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。 と言われていますが、補足的な説明である16節~18節前半において、さらに説明されています。そこでは、 それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。 と言われています。 この補足的な説明においては、太陽が昼をつかさどり、月が夜をつかさどるようにされていることが記されています。 星については、前回触れましたように、16節最後の、 また星を造られた。 は、直訳では そして、星を。 となり、何か付け足しのように描かれています。しかし、詩篇136篇7節~9節では、 大いなる光を造られた方に。 その恵みはとこしえまで。 昼を治める太陽を造られた方に。 その恵みはとこしえまで。 夜を治める月と星を造られた方に。 その恵みはとこしえまで。 と言われています。ここでは、星も、月とともに夜を「治める」ものであると言われています。 まず、ことばのことですが、創世記1章16節で「つかさどらせ」と訳されていることばと詩篇136篇8節、9節で「治める」と訳されていることばは、同じことば(メムシャーラー)です。このことばは、名詞で、旧約聖書においては、17回用いられています。そして、おもに、神さまの「主権」(詩篇145篇13節「統治」)や神さまの「治められる所」(詩篇103篇22節)、また、人間の「主権」(イザヤ書22章21節「権威」、ミカ書4章8節「主権」)や「威力」(歴代誌第二・32章9節「全軍」)や「支配圏」(列王記第一・9章19節、列王記第二・20章13節)などを表わしています。 天体については、創世記1章16節で2回、詩篇136篇8節、9節の4回用いられています。ちなみに、創世記1章18節で「つかさどり」と訳されていることば(マーシャル)は、「治める」ことを表わす動詞です。 いずれにしましても、どうしてこのようなことばが太陽、月、星について用いられているのかが問題となります。 このことから、聖書の中にも、異教的な考え方である、天体が神的なものであるとか、星が人や世界の運命を支配するというような考え方の名残があると考えるのは、早計に過ぎます。そのことは、次の三つのことから明らかです。 第一に、太陽、月、星は、神さまによって造られたものであると明確に述べられています。第二に、それらの天体がつかさどるのは、世界や人間ではなく、昼と夜であると言われています。第三に、この「つかさどる」という役割も、神さまから与えられたものであることが示されています。 「つかさどる」ということばが太陽、月、星に当てはめられていることについて、アアルダースは、 ここで、この用語は、単に、それぞれの天体が地に光をもたらす期間とか時間を指すために用いられている。 と述べています。 アアルダースはこれ以上の説明をしていませんので、彼の論拠ははっきりしませんが、この見方は次のような理由によって支持されます。 第一に、16節の「つかさどる」ということば(名詞)は、すでに見ましたように、「主権」ばかりでなく、その主権がおよぶ「範囲」(領土)を示すことがあります。 第二に、18節の「つかさどる」ということば(動詞)は、その後の「昼」と「夜」の前に、一定の「範囲」を暗示する前置詞を伴う形で用いられています。 けれども、このことばが「範囲」(領土、支配圏)を表わすときにも、そこには、主権とか支配の概念も含まれていると考えなければなりません。それで、一般に、16節や18節では、このことばには「つかさどる」とか「治める」という訳語が用いられています。 ですから、やはり、太陽、月、星に、主権や支配の概念を表わすことばが当てはめられていることをどう考えるかということが問題になります。 このことを考えるうえで大切なことは、16節~18節前半は、補足的な説明であるということです。基本的な記事である14節と15節では、 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。 となっています。 ここでは、太陽、月、星などの天体の位置と役割は、それらの天体のためではなく、地とそこにあるすべてのもののためであること、特に、14節後半の、 しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。 ということばは、それが神のかたちに造られるようになる人間のためであることが示されています。 このことが、16節~18節前半の補足的な説明では、「つかさどる」あるいは「治める」ということを表わすことばで説明されているわけです。 このことは、一見、意外なことのように思われますが、聖書の中に示されている、「主権」や「支配」の本来の意味に沿うものです。 聖書は、一貫して、究極の主権者は造り主である神さまであることを示しています。そして、創世記1章1節~2章3節の天地創造の御業の記事は、究極の主権者であられる神さまが、その主権を行使されて創造の御業を遂行しておられることを描いています。この記事をとおして、私たちは、神さまの主権がどのように行使されるものであるかを理解することが出来ます。それは、一言で言いますと、ご自身がお造りになったこの地と、その中にあるすべてのもののために、特に、神のかたちに造られている人間のために、ひたすら心を配っておられることに現われている主権です。 たとえば、神さまがお造りになったものに名をつけられたことを見てみますと、1章5節では、「光を昼と名づけ」、「やみを夜と名づけられ」ました。また、8節では、「大空を天と名づけられ」、10節では、「かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられ」ました。天地創造の御業において、神さまが名をお付けになったのは、これらのものだけです。 すでにお話ししましたが、聖書において、「名をつける」ということは、基本的に、名を付けた者が名を付けられたものに対して主権的な立場にあることを意味しています。もちろん、神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものの主権者ですが、ご自身が名をお付けになったこれらのものに対して、特別な意味で主権を行使されるわけです。 その神さまの主権は、昼を昼として、夜を夜として区別して保ってくださることに発揮されています。また、天と名づけられた大空、すなわち、大気圏のシステムを確かなものとして保ち続けてくださっています。そして、地と海の位置を確定してくださって、地を植物が芽生えるところとして保ってくださり、生きものたち、特に神のかたちに造られている人間を支えてくださっているのです。 これが、主の主であられる神さまの主権の行使の姿であり、およそ「主権」と名のつくものの本来の姿です。造り主である神さまから委ねていただいた主権や支配は、本来、このような特性を持っているものです。それが、私たちの住んでいるこの世の現実では、主権や支配はそのような特性を失ってしまっています。それは、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯してしまい、神さまの御前に堕落してしまっているからです。人間は罪の自己中心性に縛られているために、本来の主権や支配の特性を、自己中心的に歪めてしまっているのです。 イエス・キリストは、そのような現実を指摘しつつ、本来の主権や支配の特性を示しておられます。マルコの福音書10章42節~45節には、 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 と記されています。 神さまから委ねられた主権や支配の本来の姿は、仕えることに現われてくるというのです。それは、この世界のあらゆる主権と支配の源である神さまご自身の主権が、ご自身がお造りになったすべてのもののために心を配っておられるところに現わされているからです。そして、そのような、主権や支配の本来の姿は、イエス・キリストが「多くの人のための、贖いの代価として」ご自身のいのちを与えてくださったことにおいて、最も豊かに現わされています。 また、私たちの間において、そのような主権や支配の本来の姿が回復されるためには、私たち自身が「多くの人のための、贖いの代価として」ご自身のいのちを与えてくださったイエス・キリストの贖いの御業にあずかって、自分自身のうちに宿っている罪の力から解放していただかなければなりません。 ですから、太陽、月、星が昼と夜とをつかさどることは、造り主である神さまによって委ねられた、一種の「主権」を行使することですが、これによって、太陽、月、星が「昼と夜とを区別」し、地にあるものたちにとって「しるしのため、季節のため、日のため、年のため」となるように「仕える」ようになったのです。 さらに、これが、一種の「主権」の行使とされていることは、次のような理由によっていると思われます。 第一に、これらの天体が「天の大空に」あることです。 たとえば、詩篇11篇4節で、 主は、その聖座が宮にあり、 主は、その王座が天にある と言われており、詩篇115篇16節で、 天は、主の天である。 しかし、地は、人の子らに与えられた。 と言われているように、天は、地にある者に造り主である神さまの主権を思い起こさせる所です。 第二に、太陽、月、星に与えられている基本的な役割は、昼と夜を区別することです。このことをなすために、太陽、月、星は、第一日の神さまの創造の御業を前提としていること以外は、他の何ものにも依存していません。その働きは、人の手の届かないところでなされています。 太陽が光ることによって昼が来たり、地とその中にあるすべてのものは昼の中に置かれます。そして、それによって、地が明るく暖かな世界であることができます。詩篇19篇1節~6節には、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、 夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、 その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、 そのことばは、地の果てまで届いた。 神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。 勇士のように、その走路を喜び走る。 その上るのは、天の果てから、 行き巡るのは、天の果て果てまで。 その熱を、免れるものは何もない。 と記されています。 また、昼と夜が区別されることによって、一日のサイクルが確立されています。地とその中にあるものたちは、このようにして刻まれている夜と昼の入れ替わりのサイクル中で、自分たちの生活のリズムを刻んでいます。その意味では、太陽、月、星は、地とその中にあるものたちの存在の基本的な流れを律していると言えます。 これらのことのうちに、造り主である神さまが、太陽、月、星に、一種の主権性をお与えになったことの意味を見ることができます。造り主である神さまが、太陽、月、星に、一種の主権性をお与えになったことによって、これらの天体が、地に住む者たちにとって、決定的に重要な役割を果たすようになっています。 そのことに、造り主である神さまの主権が映し出されており、それが、神さまが私たちのために心を配っていてくださることをあかししていることをわきまえている人々は、 大いなる光を造られた方に。 その恵みはとこしえまで。 昼を治める太陽を造られた方に。 その恵みはとこしえまで。 夜を治める月と星を造られた方に。 その恵みはとこしえまで。 と造り主である神さまの恵みを讚えています。 これに対して、造り主である神さまに対して罪を犯し、神さまの御前に堕落してしまっている人間は、造り主である神さまを否定するとともに、地に住む者たちにとって、決定的に重要な役割を果たすようになっている、これらの天体たちが、神のように自分たちの運命を決定しているというように考えるようになってしまいました。そこから、太陽を神としたり、星が人間の運命を決定していると考えるような発想が生み出されてきています。それは、今日まで、たとえば「星占い」というような形で人々の日常の中に忍び込んできています。 最後に、主の契約の民が神さまの創造の御業に現わされた栄光を賛美とともに告白している、詩篇148篇1節~5節のみことばをお読みします。 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。 いと高き所で主をほめたたえよ。 主をほめたたえよ。すべての御使いよ。 主をほめたたえよ。主の万軍よ。 主をほめたたえよ。日よ。月よ。 主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。 主をほめたたえよ。天の天よ。 天の上にある水よ。 彼らに主の名をほめたたえさせよ。 主が命じて、彼らが造られた。 |
![]() |
||