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説教日:2003年1月5日 |
さらに、すでにお話ししましたように、16節は補足的な説明で、創造の御業を記す記事に必ずあるという意味での「要素」ではありません。また、補足的な説明の中では、必ずしも、その日の御業だけを記しているわけではなく、その日になされた御業にかかわる大事なことを改めて確認したり、さらに発展させて説明していると考えられます。 創造の御業の記事の「要素」として、第四日の御業を記しているのは、14節、15節の、 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。 ということばです。ここでは、地との関係で天体に与えられているさまざまな役割のことが述べられています。つまり、第四日の御業は、神さまが、天体が地とのかかわりでもっている位置と役割を確立してくださったことです。 それで、この創造の御業の第四日の記事から、天体が四日目になって初めて創造されたとか、第四日に創造されたと考える必要はありません。 天体は、創造の御業の初めにおいて造り出されて、この第四日まで整えられてきていたと考えられます。そして、基本的には、この第四日において、その全体的な秩序を整えられ、それぞれの機能を果たすようになったと考えられます。 それと同時に、地の側の条件も整えられてきていたと考えられます。それをざっと見てみましょう。 第一日には、地はまだ大いなる水に覆われていましたが、そこに、太陽からの光が届くようになりました。当然、その光によって地は暖められたはずです。暖められた地からは、水蒸気が蒸発していたと考えられます。 第二日においては、私たちのことばで言う、大気の循環のシステムが確立されました。その働きによって、雲が形成されることによって、地上を覆っていた水蒸気は晴れ上っていったと考えられます。 さらに、第三日には、地殻変動などによって、地を覆っていた水が集められて、海と陸が形成されました。陸はより水分を蒸発させて、乾燥しやすいところですので、それによって、大気の循環のシステムは、よりいっそう効果的に働くようになっていったと思われます。 神さまのこれらの御業を経て、第四日において、天体が地との関係においてさまざまな役割を果たすようになったと考えられます。 その役割については、後ほどお話しします。今お話ししていることとのかかわりで注意したいことは、14節と15節に記されている第四日になされた御業の記事は、あくまでも、天体が地との関係において与えられているさまざまな役割を果たすようになったということです。 それで、創造の御業の記事において、第四日になって初めて言及されている天体はどこから来たのかという疑問が残るかもしれません。 もちろん、それは神さまの創造の御業によって造り出されたものです。そのことは、1章1節の、 初めに、神が天と地を創造した。 ということばから分かります。 しかし、そのような、一般的な表現では十分ではないために、16節の補足説明が記されているのであると考えられます。というのは、古代オリエントの文化圏においては、月、星、太陽が「神」としてまつられていたからです。 それで、ここではっきりと、それらの天体が神さまによって造られたものであること、しかも、地とのかかわりでさまざまな役割を果たすようにと造られたものであることを明らかにしておくことは、その当時においては、特に、大切な意味をもっていたと考えられます。 ただし、先月お話ししましたように、この創造の御業の記事が、どれほど古代オリエントの神話を意識して、それに答えようとして記されているかは、はっきりしません。 それでは、創造の御業の中で天体に与えられている役割はどのようなものでしょうか。14節、15節では、 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。 と記されています。 ここには三つの役割が記されています。 第一は、14節前半で言われている、 光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。 ということです。 第二は、14節後半で言われている、 しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。 ということです。 第三は、15節前半の、 天の大空で光る物となり、地上を照らせ。 ということです。 今日は、その第一の、 光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。 ということについてお話しします。 これと同じ役割のことは、16節と18節にも記されています。16節では、 大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。 と言われていて、「区別する」ということばの代わりに「つかさどる」、「支配する」ということばが使われています。そして、18節では、 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。 と言われていて、二つのことばがともに出てきます。 これらのことから、この「区別する」ことと「つかさどる」ことは別々のことを示しているのではなく、一つのことを別の角度から語ったものであると考えられます。 創造の御業の記事の構成において、記事の「要素」をなしている、神さまの創造の御ことばは、14節の、 光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。 です。それで、昼と夜とを「区別すること」が基本的なことです。そして、補足説明である16節と18節で、そのことは、太陽と、月、星が、それぞれ、昼と夜とを「つかさどること」によってなされることである、ということが説明されているのです。 ところで、第一日の御業を記す4節と5節においては、 そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。 と記されています。すでに、第一日において、昼と夜の区別がつけられています。それなのに、第四日になってから、 光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。 と言われているのはどういうことでしょうか。 確かに、第一日の御業と第四日の御業には、互いに対応しているところがあります。けれども、そこには明確な違いもあります。そのことを理解するためには、創造の御業の記事が地からの視点で記されていることを、わきまえておく必要があります。 いまだ大気の循環のシステムもできていない段階の第一日においては、光とやみの区別はあっても、そして、それぞれが、昼と夜という意味付けがなされていたとしても、地からの視点から見ますと、天体の位置や役割ははっきりしていなかったでしょうし、その存在さえも隠されていたと考えられます。初めにお話ししましたように、天体が地との関係において、それぞれの位置と役割をもつようになるのは、大気の循環のシステムが確立されて、海と陸が分けられることを経てのことであったと考えられます。 ですから、地からの視点を離れて言えば、神さまは、創造の御業の初めにこの地の原形造り出して、これを整えていかれましたが、それと同時並行的に、天体をも造り出して、それぞれを、整えておられました。 それを地からの視点から見ますと、第四日になるまでに、徐々に、天体の存在と、その位置や役割がはっきりとしてきて、四日目になって地との関係における天体の基本的な役割が確立したわけです。これによって、天体の位置と役割が、地に存在するものたち、植物や動物たち、特に、やがて「神のかたち」に造られるようになる人間にとって、意味をもつものとなったということです。 これが、基本的なことですが、これとともに、いくつか注目すべきことがあります。 第一に、光は、四日目になって初めて存在するようになったのではありません。地からの視点で見ますと、光そのものは、第一日にそこにあるようにされています。その光は太陽から来た光であると考えられますが、その段階では、そのことは、地からの視点で見る者からは隠されています。その意味で、第一日の御業を記す記事は、光そのものに注目し、光があること自体を意味のあることとして記しています。 これに対しまして、第四日の御業を記す記事では、神さまが、地に光があるようにされるのに用いられた天体のことが記されています。しかも、その天体は、地との関係において神さまから位置と役割を与えられていることと、その位置と役割が確立されたことが記されています。 第二に、その際に、16節に「星」が出てくる以外には、「太陽」ということばも「月」ということばも使われてはいません。ここでは「光る物」(マーオール)と言われています。天体は「光る物」ですが、天体そのものは光ではありません。天体は光を放つものであり、いわば、「光を担うもの」です。このように、「光を担うもの」である天体と光そのものは区別されるものですが、第一日の御業においては、光そのものの存在に関心があります。そして、第四日の御業においては、実際に、その「光を担うもの」である天体の位置と役割に関心があるわけです。 第三に、ここで、「太陽」とか「月」ということばが用いられていないで、天体が「光る物」と呼ばれていることには、古代オリエントの神話に見られるような発想を避けるための配慮があるという見方もあります。 けれども、特に、16節などでは、その「光る物」が神さまによって造られたものであるということが明確に述べられています。もし、古代オリエントの神話的な発想を避けるためであれば、「太陽」や「月」ということばを用いたほうが、太陽や月は神さまによって造られたものであるということがはっきりしたはずです。 それで、ここでは、そのような古代オリエントの神話的な発想を避けるために「光る物」ということばを用いているというより、やはり、光そのものと、「光を担うもの」である天体を区別して、「光る物」ということばを用いていると考えたほうがいいと思われます。 このように、光そのものは、神さまが創造されたものです。実際には、光は天体から放出されています。けれども、光そのものは天体とは区別されます。それで、必ずしも、太陽のような天体がなければ、この世界に光は存在しないということにはなりません。 黙示録21章23節、24節では、 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。 と言われています。また、22章5節では、 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と言われています。 これらは、その当時の黙示文学的な表現で記されています。また、イエス・キリストの再臨の日に、イエス・キリストの贖いの御業に基づいて完成される、新しい天と新しい地のことを記しています。 それで、私たちにとって難しい点があることを認めなければなりませんが、少なくとも、ここでは、光そのものと「光を担うもの」である天体との区別が前提となっています。そして、神さまご自身が、最初の天地創造の御業において造り出された光の本体であることが示されています。 私たちの住んでいるこの地に最初に積極的なものとしてあるようにされた光は、その後に造られたすべてのものにとって決定的に大切なものです。それで、罪によって神さまの御前に堕落してしまった人間の間では、光そのものを「神」と考える考え方が生まれてしまいました。 しかし、聖書の御ことばは、先ほどの引用のように、光は、光である神さまを、あるいは、神さまが光であられることをあかしするものであるということを示しています。 ヨハネの手紙第一・1章5節には、 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。 と記されています。 |
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