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説教日:2002年12月1日 |
16節の補足的な説明の中で言われている「神は ・・・・ 造られた」ということについては、二つの見方があります。 第一に、この「神は ・・・・ 造られた」ということは、第四日に、その日一日のうちに天体が造られたということではなく、地(球)の場合と同じように、まず、さまざまな天体の最初の状態が造り出され、その後、それぞれの天体とその位置関係などが徐々に整えられていって、四日目に「完成した」ということを示しているというものです。今日見られるような宇宙の秩序、配列は、天地創造の第四日に完成したことを示しているというのです。 16節の「神は ・・・・ 造られた」の「造られた」を、それらの天体が「完成した」ことを表わすとする見方は、17節で「置く」(ナータン)という言葉を使って、「神はそれらを天の大空に置き」と言われていることと組み合わされて理解されています。17節で「神はそれらを天の大空に置き」と言われていることが、このような秩序と配列の完成を示しているというのです。 この「神は ・・・・ 造られた」の「造られた」を、それらの天体が「完成した」ことを表わすとする見方では、16節〜18節前半の補足的な説明で述べられていることは、基本的に、天地創造の第四日のことであるということになります。 もう一つの見方は、この「神は ・・・・ 造られた」という言葉は、単に、それらの天体が神さまによって造られた被造物であるということ、すなわちそれらの天体の被造物性を示すものであるというものです。 14節、15節には、 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。 と記されています。ここに記されている神さまの命令は、形としては「あれ。」という命令の言葉によるもので、3節で、 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた(直訳「あった」)。 と言われていることや、6節で、 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。 と言われていることと同じです。 3節に述べられている、 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 ということに対する補足的な説明はありません。しかし、6節に述べられている ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。 ということに対しては、7節に、 こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。 という補足的な説明があります。 ここでは、やはり、 こうして神は、大空を造り というように、「造った」という言葉が用いられています。「大空」によって「大空の下にある水」と「大空の上にある水」が区別されていることは、今日で言う大気圏の形成とその循環のシステムが確立されたことを意味しています。この補足的な説明で、「造った」という言葉を用いることによって、それが、神さまの創造の御業によって造られたものであるということを示しています。 すでにお話ししましたように、ここで言われている「大空の上にある水」は雲を指していると考えられます。それが「大空の上にある水」と言われているのは、古代オリエントの農耕文化の中にあっては、雨が降るということが決定的な意味をもっていたこととのかかわりを感じさせます。実際に、カナンの主神であったバアルは、雨や嵐にかかわる神とされていました。そのような文化的な背景の中で、人間の生存ばかりでなく、植物の生長と生き物たちの生存に深くかかわっている、地が乾き、雨が降るということが、神さまの創造の御業によって確立されたということが、補足的な説明の中で、確認されているわけです。 その意味では、これは、16節の、 それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。 という補足的な説明と同じ意味をもっています。この点については、さらに、後ほどお話しします。 3節に述べられている、 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 ということに対する補足的な説明がない理由は分かりませんが、もしかすると、それは、最終的には、16節で、 それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。 と説明されるようになるので、必要がないことであると考えられたのかもしれません。 「神は ・・・・ 造られた」の「造られた」を「それらの天体が完成した」ことを表わすとする見方と、それは、単に、それらの天体が神さまによって造られた被造物であるということを示すものであるという見方は、必ずしも矛盾するものではありません。 ただ、天体の存在と、それぞれの間の配列や秩序立てが第四日において完成したのかどうか、私たちには分からないとしなくてはならない面があります。確かに、第四日には、天体が地との関係において、神さまが、 光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。 とお命じになった役割を果たすようになりました。それで、第四日には、天体がそれぞれの機能を果たし始めており、その基本的な配列と秩序立てが出来上がっていたと言えます。その意味では、一通りの「完成」を考えることができます。けれども、神さまが創造の御業において、それ以上、それらの天体に手をお付けにならなかったかどうかは、私たちには分かりません。すべてのものの最終的な完成は、1章31節で、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。 と言われており、2章1節、2節で、 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 と言われていることにあります。 いずれにしましても、神さまは、天体を、第四日に初めてお造りになったのではなく、創造の御業の初めにその最初の形をお造りになっており、それを第四日までに整えてこられたと考えられます。そして、第四日に、神さまが、 光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。 とお命じになったことによって、これらの天体が地との関係で果たすべき役割を果たすようになったと考えられます。 このように、16節、17節の補足的な説明においては、地との関係において、神さまが、 光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。 とお命じになった役割を果たすようになった天体が、神さまによって造られたものであることが語られています。 このことが、16節、17節の補足的な説明で、かなり詳しく語られているのには、理由があると考えられます。 古代オリエントの文化圏においては、太陽や月は、しばしば、中心的な神とされていました。また、星は、人間の運命を支配していると考えられていました。創世記はこのような文化圏で記されましたが、16節、17節の補足的な説明で、それらの天体は神さまの創造の御業によって造り出された被造物であるということを、明確に宣言しているのです。 このことは、今日、私たちにとってどのような意味をもっているでしょうか。私たちは、ふと、そのような古代オリエントの考え方は、今日では古くさいものであって、誰も信じてはいないと考えたくなります。 しかし、実際はそうではありません。建前としてはそういうことになっていますが、いわゆる「星占い」のたぐいは、人々の心を捉えてしまっています。そのようなことを馬鹿にしている人々でも、「占い」のようなものによって、自分に大きな災いが起こるというようなことを言われると、それに縛られてしまうことがいくらでもあります。 また、今日では、いわゆる「ニュー・エイジ」の潮流に巻き込まれて、「宇宙のエネルギー」を取り込む儀式であるとか、霊たちとの交信とか、超能力というようなものが若者たちの心を捉えるようになってしまっています。 大切なことは、これらの現象が生まれてくる背景には、一定の「世界観」があるということです。それは、汎神論的な世界観です。そこでは、神と人間の違いは段階的なものであると考えられています。それで、人間は、異質なものとの交信や、超能力の開発や、宇宙エネルギーを取り入れることなどによって、今より高度な「神的な存在」になれるという考え方が生まれてきています。そこから、オカルトブームのような現象が生まれてきていますし、教祖的な存在を神のようにみなす宗教が生まれてきています。 日本人は、このようなものに引き込まれやすい体質を持っています。それは、日本の文化が、長いこと、汎神論的な発想によって色付けられてきているからです。また、絶対者の前に自分たちを相対化するという発想がほとんど生み出されてきませんでしたので、逆に、相対的なものでしかないものを、あまりにもあっさりと絶対化して、それに縛られてしまうということも起こってしまいます。 聖書の初めに記されている神さまの天地創造の御業は、造り主である神さまだけが神であることと、この世界に存在しているすべてのものは、神さまによって造られた被造物であることを示しています。そのことの上に立って初めて、私たちが、神として礼拝し、信頼しなければならないのは、造り主である神さまだけであることが理解できます。また、そのことの上に立って初めて、人間の目にどのように偉大なものに見えても、被造物を神格化することが、造り主である神さまを神とすることに反することであることが理解できます。そして、そのことの上に立って初めて、被造物を神格化して、それに縛られることが、造り主である神さまを神さまとして礼拝するように造られている人間の尊厳性を、根本から損なうことであることが理解できるようになります。 さて、創世記1章16節では、 それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。 と言われていて、太陽、月、星の創造のことが、その順序で記されています。しかも、最後の「また星を造られた。」という言葉の「造られた」は原文にはありません。それで、その部分は、何か付け足しでもあるかのように、「また星を」となっています。 エドワード・ヤングによりますと、バビロニヤの創造神話『エヌマ・エリシュ』では、まず、星の創造が語られ、次に月のことが語られています。太陽が形造られたことは語られていませんが、太陽があることは前提となっています。創世記の記述は、これと逆の順序になっています。 『エヌマ・エリシュ』 」:1ー4では、 彼[マルドゥク]は大いなる神々のために部署を設けた。 彼らの似姿なる星、黄道十二宮を、彼は設けた。 彼は年を定め、しるしを設計した。 十二の月のために、彼は、それぞれ三つの星を置いた。 と記されています。また、 」:12以下では、 彼は、月が輝き出るようにして、夜をそれに委ねた。 彼はそれを、日を定める夜の飾りに定めた。 月毎に、止むことなく、ティアールをつけて出ていく。 月の初めには、地の上に輝き出る。 汝は角[三日月]をもて六日を定めるために輝く。 七日目には、半分の王冠をもって。 と記されています。 このように、『エヌマ・エリシュ』では、星や月のことが詳しく記されています。特に、星は大いなる神々と結びつけられていて、年のためのしるしとして、重要なものと考えられています。 これに対して、創世記1章16節では、星のことは、「また星を」というような、何か付け足しででもあるかのように記されています。これには、聖書が記された古代オリエントの文化圏にあっては、星が重要なものとされていたので、それを否定する意図があると考えられています。 その点は認めなければなりませんが、それが、創世記1章16節が星についてそのような語り方をしていることの第一の理由であると考えることはできません。むしろ、14節、15節に記されている、神さまの、 光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。 という命令に示されている、地とのかかわりにおける天体の役割において、星は、太陽と月ほどには大きな役割を負ってはいない、ということによっていると考えられます。 その意味で、創世記は、星を重んじている古代オリエントの神話に対抗して、星のことを意識的に低く記しているのではなく、神さまの創造の御業の中での星の位置をありのままに記しているのです。そして、創世記が、この場合のように、星の位置と役割を、神さまの創造の御業の中で割り当てられている通りに記していることが、結果的には、星を神々と結びつけて、不当に神格化している神話に対する、告発となっているわけです。これは物事の真相を明確にすることが、歪められた理解に対するいちばんの答えである、ということに当たります。 古代オリエントの文化圏においてばかりでなく、世界の至る所において、太陽や月が中心的な神々として祀られてきたことや、星が人間の運命を支配しているかのように考えられてきた原因は、人間が罪を犯して、造り主である神さまの御前に堕落し、造り主である神さまを神とすることがなくなってしまったことにあります。それが、根本的な原因ですが、それとともに、もう一つの事情が考えられます。それは、まさに、創世記1章14節、15節に、 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。 と記されていますように、神さまが、創造の御業において、これらの天体に、地との関係において、一定の位置と役割をお与えになっておられるということです。その役割は、日や月や年の流れ、季節の変化など、人間の生活に最も基本的な枠組みを決定する役割です。罪によって堕落してしまって、その心が神さまから離れてしまっている人間は、天体に、そのような役割をお与えになった神さまではなく、そのような役割を担っている天体そのものが、人間の在り方を決定していると錯覚してしまったわけです。 そのような、罪が生み出している錯覚から、先ほどお話ししましたような汎神論的な世界観が生み出され、さらに、それを土壌として、さまざまな、オカルト的な現象が生み出されています。これらのものの「正体」を、真に見極めるためには、神さまが御子イエス・キリストによって備えてくださった贖いの恵みにあずかって、神さまと和解して、神さまと神さまによって造られたものの区別をわきまえるようになることが必要です。そして、ただ、造り主である神さまだけを神として礼拝し、信頼することが必要です。 最後に、このことと関連して、二つの御言葉を読みたいと思います。まず、イザヤ書40章25節、26節には、 「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、 だれと比べようとするのか。」と 聖なる方は仰せられる。 目を高く上げて、 だれがこれらを創造したかを見よ。 この方は、その万象を数えて呼び出し、 一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。 この方は精力に満ち、その力は強い。 一つももれるものはない。 と記されています。また、申命記6章4節、5節には、 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 と記されています。 |
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