(第20回)


説教日:2002年11月3日
聖書箇所:創世記1章14節〜19節
説教題:第四日の御業の意味


 創世記1章14節〜19節には、創造の御業の第四日の御業の記事として、天体についての描写が出てきます。この記事をめぐっては、一つの大きな問題が出されています。それは、16節に、

それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。

と記されていることに関して、天体が天地創造の御業の第四日に造られたということは、今日の天文学の理論と合わないのではないかという問題です。
 きょうは、この問題とのかかわりで、ここに記されている第四日の御業の記事を理解する上で、私たちが心に留めておかなくてはならないことをお話しします。
 それは創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業を記す記事の構造にかかわっています。天地創造の御業の記事においては、まず、1章1節に、

初めに、神が天と地を創造した。

という天地創造の御業の記事への見出しに当たることばがあります。そして、続く2節は、新改訳には訳し出されていませんが、冒頭に接続詞があり、

さて、地は形がなく、何もなかった。

というようになっています。このことが、先ほどお話ししました問題をもっているとされている第四日の御業を理解するうえで大切な意味をもっています。それで、すでにお話ししたことではありますが、まず、このことの意味をお話ししてから、それが、先ほどの問題とどのように関わっているかということをお話ししたいと思います。


 1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

という見出しに当たることばは、これとして独立した文章です。そして、この「天と地」ということばはヘブル後の慣用句で、存在するすべてのもの、しかも秩序立てられて存在しているすべてのものを指しています。それは、今日のことばで言いますと「宇宙」に当たるものです。ですから、

初めに、神が天と地を創造した。

ということばは、存在するすべてのもの、しかも秩序立てられて存在しているすべてのものを視野におさめています。そして、その秩序立てられて存在しているすべてのものが、神さまの創造の御業によって造られたということを伝えています。当然、この中には、今日なされている観察をとおして分かってきている壮大で複雑な宇宙の構造や、そこにあるさまざまな天体やそれらの間の関係も含まれています。
 ここで大切なことは、1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

という見出しに当たることばは、天地創造の御業の初めに、神さまが、2節で、

地は形がなく、何もなかった。

と言われている最初の状態の「」や、最初の状態の宇宙を造り出されたことだけを言っているのではないということです。その見出しに当たることばは、神さまがなさった最初の御業も含めて、そのように造り出されたものを、さらに天地創造の六日間にわたって整えていかれて、この宇宙全体とその中のすべてのものをまったき調和のうちに完成されたこと、そして、第七日を祝福して聖別してくださったことまでを含んでいます。
 このように、1章1節において、私たちの住んでいるこの地球も含めて、大宇宙のすべてが神さまの創造の御業によって造られ、完成したことが宣言されています。そして、2節の「さて、地は」ということばとともに、創造の御業の記事を記すための視点は「」に移っています。それは、今日の人工衛星で大気圏の外に出て、いわば、宇宙から「」を眺めるというような視点ではなく、地上に住んでいる人間の視点から見たこの世界が、どのように造られ、どのように成り立っているのかを記しています。
 また、2節以下に記されている記事は、「」からの視点から記されているということだけでなく、その記事の関心も「」に向けられています。この「」は、やがて「神のかたち」に造られるようになる人間が住むべき「」です。イザヤ書45章18節に記されていますように、神さまはこの「」を「人の住みかに」お造りになりました。2節以下に記されている記事は、そのような意味をもっている「」が、神さまの創造の御業の中でどのように整えられていったのかを記しています。
 1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事は、神さまからの啓示として私たち人間に与えられたものです。それは、私たちがこの啓示としての記事を通して、この「」、すなわち、私たちが住んでいるこの世界と、そこに住んでいる私たち自身がどのようなものであるかを理解するためのものです。この世界と私たち自身がどのようなものであるかを理解するための鍵は、造り主である神さまご自身です。この世界と私たちの存在の意味は、造り主である神さまとの関係の中で初めて理解することができます。
 ですから、2節で視点が「」に据えられているということは、創造の御業の記事が、私たちが「見るべき目」によって記されているということを意味しています。映画などの撮影にはカメラ・ワークがあります。それは、監視カメラのように、レンズがそこにあるものを機械的に捉えているのとは違います。そこには、カメラを動かしているカメラマンの「目」があって、その「目」が捉えるべきものを選んでいます。その際、何をどのように写すかの選択は、カメラマンの考え方とものの見方によって決定されています。
 それと同じように、創造の御業の記事においては、これを啓示してくださった神さまが、私たちにこの世界と私たち自身をどのように見て、どのように理解するべきであるかを教えてくださるために必要なことだけを選んでくださっているのです。それで、私たちは、この天地創造の御業の記事を読むことによって、この世界と私たち自身を理解するための土台を与えられるようになります。このように、私たちは、この創造の御業の記事が示しているように、私たち自身と自分たちの住んでいるこの世界を見るように導かれています。そして、そのように見るときに、この世界における私たちの位置を正しく捉えることができますし、造り主である神さまとの関係も正しく理解することができます。
 先ほど、この創造の御業の記事は「」からの視点で記されているだけではなく、その関心が「」に向けられていると言いました。しかし、それだからといって、「」に関することがすべて記されているというわけではありません。この記事は、人間の興味や関心にすべて答えようとしているものではありません。この記事を通して、私たちは、私たち自身と、自分たちの住んでいるこの世界や、そこに住んでいる自分たちの位置を、造り主である神さまとの関係で、また、造り主である神さまを中心として、見るように導かれているのです。それで、そのような目的に沿ったことだけが記されていて、それ以外の事柄には触れられてはいません。
 しかも、天地創造の御業の記事は基本的にそれが記された時代の人々に知られている「地」の様子を踏まえています。そして、いつの時代の人々にとっても意味をもっていること、したがって、いつの時代の人もわきまえていなければならないことを記しています。たとえば、天地創造の御業の記事には恐竜の創造のことが、具体的な形で記されてはいません。それは、もし恐竜のことが記されていたとしたら、まだ恐竜の化石の研究がなされていなかったために、その存在を知らなかった時代の人々には無用の混乱を引き起こすだけのことであるからです。
 14節〜19節に記されている天体の描写も、このような視点と関心から記されています。
 結論的なことを先に言いますと、14節〜19節に記されているのは、狭い意味での「天体の創造」ではありません。ここに狭い意味での「天体の創造」のことが記されているとしたら、天体は天地創造の第四日に造られたということになります。けれども、14節〜19節に記されている天体の描写からはそのように主張することはできません。このことも、創造の御業の第四日の記事を理解するうえで大切なことですので、少しお話ししたいと思います。
 神さまが、何もなかった状態から、すなわち「無から」、まったく新しくこの世界のすべてのものをお造りになったということは、「絶対創造」と呼ばれます。そのような「絶対創造」を記しているのは創造の御業の記事の見出しに当たる1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

という宣言です。
 私たちは、それに続く、1章2節〜2章3節の記事から、神さまは、この世界を創造の六つの日に分けて、「人の住みかに」(イザヤ書45章18節)形造っていかれたことを知ります。そのようなプロセスがありましたが、そのプロセスにおいてなされたことも含めたすべてが、何もなかった状態から、神さまがご自身の意志で、すべてのものを造り出されたという「絶対創造」の御業に含まれています。それが、1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

という見出しに当たることばが宣言していることです。
 1章2節〜2章3節に記されていることは、その「絶対創造」の御業の枠の中でなされた御業のことですが、その関心と視点が限定されて「」に移されています。そして、神さまが、どのようにして、この「」を「人の住みかに」形造ってくださったのかを記しています。
 2節で、「さて、地は」と語り出されたときには、すでにその「」は、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と言われているような状態で存在していました。もちろん、それはいわゆる「先在の物質」というような、天地創造の御業の前から存在していたものではありません。神さまが、最初に、そのような状態の「」を造り出されたのです。一瞬のうちにそのような状態を造り出されたのか、それとも、ガス状のものが固まっていったというようなプロセスがあったのかということへの関心はこの記事にはありません。それは、神さまがお造りになったこの世界そのものを観察して知るほかはありません。そして、そのようなことを研究するのは科学の役割です。いずれにしましても、そこにどのようなプロセスがあったのかは示されてはいませんが、神さまが創造の御業によって、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と言われているような状態の「」を造り出されたのです。そのことは、1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

という見出しに当たることばから分かります。
 ですから、1章2節〜2章3節に記されている御業の描写では、それまで、何もなかったものをまったく新しく造り出すという意味での「絶対創造」の初めの御業は記されてはいません。すでに神さまが造り出しておられる最初の状態にあったこの世界を、さらに、「人の住みかに」形造ってくださった御業を記しています。
 そのことは、14節〜19節に記されている天体の描写にも当てはまります。ここに記されていることも、「」からの視点と「」に対する関心の下に記されている1章2節〜2章3節の記事の一部です。14節〜19節では、それまで、何もなかったものをまったく新しく造り出すという意味での「天体の創造」のことを記しているのではありません。先ほどお話ししましたように、神さまが、この宇宙のすべての天体をお造りになったことは、1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

という「絶対創造」を記している見出しに当たることばから分かります。また、具体的にどういうことかは後でお話ししますが、16節、17節に記されています「補足説明」からも分かります。
 それでは14節〜19節には何が記されているのか、ということが問題となります。14節〜19節には、それに先だつ2節〜13節に記されている、創造の第三日までに整えられてきている「」に関わるかぎりでの、天体の位置と役割のことが記されているのです。そこで、太陽と月を中心として天体のことが記されているのは、「」とのかかわりにおける天体の位置と役割がどのようなものであるかということを、「」からの視点で記しているからのことです。ですから、これは、天文学的に、「天動説」の立場を取っているということではありません。
 繰り返しになりますが、神さまが、この宇宙のすべての天体をお造りになったことは、1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

という「絶対創造」を記している見出しに当たることばから分かります。けれども、2節以下においては、創造の御業の記事の視点と関心が私たちの住んでいる「」に移っているために、天体の創造の様子はこの創造の御業の記事には記されていません。
 2節に記されている「やみ」は、この「」を覆っていた「やみ」です。また、そこに記されている「」も、「」明るくするようになった「」です。それらは、一般的な、宇宙の「やみ」や宇宙の「」のことではありません。は宇宙の「やみ」や宇宙の「」のことは、2節の記事の視野の外にありますので記されてはいません。(記されていないから、それらがないという意味ではありません。)
 この「」が、2節で、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されている状態にあった時に、他の天体もすでに造られていたと考えられます。それは、3節で、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と言われているときの「」が、一般的な意味での宇宙の光ではなく、太陽からの光であると考えられることから推察されます。そして、神さまが天地創造の御業の中で「」を整えてゆかれたように、他の天体も、同時並行的にだんだんと整えられていったと考えられます。ただ、先ほどお話ししましたように、2節以下の記事の視点が「」に据えられており関心が「」に向けられていますので、他の天体が整えられている様はその関心の外にあることとして記されてこなかったのです。そこに記されていないけれども、神さまの天地創造の御業のお働きは、「」すなわち地球のほかでも着実に進められていたわけです。
 その意味では、今日の私たちが知っている、たとえば、「万有引力の法則」などによる天体間の関係のようなものは、神さまが、「最初の状態の宇宙」をお造りになった時からあったと考えられます。その中に、創造の御業の記事で「」と呼ばれている地球も存在しているわけです。
 ですから、14節〜19節の記事では、「万有引力の法則」などによる「」と天体との間の「一般的な関係」が、創造の第四日の段階で成立したということを述べているのではありません。「」と天体との「一般的な関係」は、2節の段階ですでに確立されていたと考えられます。14節〜19節の記事では、創造の第三日までに整えられてきた「」に対して、天体がもつようになった「位置」と「役割」を記しているのです。
 その「役割」がどのようなものであるかについては改めてお話しします。ここではその前に、最初にお話しした問題との関わりで一つの問題に触れておきたいと思います。それは、16節で、

それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。

と言われていることを、どのように考えたらよいのかということです。確かに、ここには、「造られた」ということばが出てきます。ただし、「また星を造られた。」の「造られた」は原文にはなく、補足的に訳し出されたものです。この部分を直訳しますと、

そして、神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光るものを、昼をつかさどるために。そして、小さいほうの光るものを、夜をつかさどるために。そして、星を。

というようになります。
 この問題を考えるうえで大切なことは、創造の御業の記事の構成です。1章1節〜2章3節に記されている創造の御業の記事は、あるパターンにしたがって記されています。それで、それぞれの「創造の日」になされた神さまの御業の記事に共通した要素が見られます。それは、
  導入句 「神は仰せられた。」
  命 令 「 ・・・・ があるように。」、「 ・・・・ となるように。」など。
  成 就 「するとそのようになった。」、「すると ・・・・ ができた。」など。
  評 価 「神は見て、それをよしとされた。」
  区切り 「こうして、夕があり、朝があった。第 ・・・・日」
という五つの要素です。
 このような共通の要素があるのは、神さまの創造の御業が一貫したものであったことによっていると考えられます。
 14節〜19節の記事においては、これらの要素のうち、「導入句」と「命令」と「成就」は、14節と15節に、

ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。

と記されています。そして、「評価」と「区切り」は、18節後半と19節に、

神は見て、それをよしとされた。こうして夕があり、朝があった。第四日。

と記されています。
 これらの創造の御業の記事の要素として記されていることが、創造の第四日に神さまがなされたことです。より具体的には、第四日の御業においてなされたことは、

光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。

という、命令の形で記されている神さまの「創造のことば」が命じていることです。
 これに対しまして、16節〜18節前半に記されている、

それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。

ということは、創造の御業の記事の「要素」として記されていることではありません。それで、これは、14節と15節に記されていることに付け加えられた「補足的な説明」であると考えられます。
 このような補足的な説明は、それぞれの創造の日における神さまの御業を記す記事の中に出てこないこともあります。それで、補足的な説明は、創造の御業の記事の「要素」とはなっていないのです。
 問題は、このような補足的な説明は、それが記されている創造の日の御業だけを述べているのか、それとも、その日に限らないことも述べているのか、ということです。
 創造の御業の記事の中で補足的な説明は、この16節〜18節前半の他には、7節、12節、21節、25節、27節に出てきます。28節に記されていることも26節に記されている「創造のことば」への補足ですので、これに28節も含めるべきかもしれません。
 このうち、12節と25節が、「導入句」と「命令」と「成就」の後に付け加えられた補足的な説明、すなわち、「するとそのようになった。」という「成就」を記すことばの後にある補足的な説明です。16節〜18節後半に記されている補足的な説明もこれと同じ位置に置かれています。
 ここで注目したいのは12節の、

それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。

という補足的な説明です。これは、11節で、

神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。

と言われていることに対する補足的な説明です。
 すでにお話ししましたように、11節の「創造のことば」で用いられている「芽生えさせよ」ということばは、それまでなかった植物を初めて芽生えさせるというような意味合いを伝える特殊なことばです。これは、創造の第三日の御業に限られたことを表わしています。
 それが、12節の補足的な説明では、一般的な「生じた」ということば、今日私たちの間でも見られることとを表わすことばが用いられています。これは、第三日になされた御業によって始まったこと、すなわち、それまでになかった植物がまったく新しく芽生えるようになったことが、種からの発芽という今日までも続いている植物の発芽と成長につながっていることを示していると考えられます。
 ついでにお話しするということになりますが、これは、創世記の記事の流れの中では、創造の御業の記事に続いて記されていることにつながっていくことになると思われます。具体的には、1章11節に記されている、

神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。

という神さまの「創造のことば」によってそれまで種の形でも存在していなかった植物が「」から芽生えるようになりました。そして、その補足的な説明である12節において、

それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。

と記されていますように、それは天地創造の第三日の枠を越えて、植物が芽生え育って実を結んでいくようになりました。
 これが1章28節、29節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。

と記されている、神のかたちに造られている人間に「歴史と文化を造る使命」が与えられたことと、そのために必要なものが備えられていることの約束につながっていきます。そして、そのこととのかかわりで、2章15節には、

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されています。人は「歴史と文化を造る使命」を果たすことの中で、自分が置かれたエデンの園を耕しています。
 これらのことが、人が神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまった後に神である主が宣言された、人へのさばきのことばを記す3章17節〜19節に、

  あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。
  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。

と記されていることの背景となっています。
 この第三日の御業に対する補足的な説明から、創造の御業の記事の中に記されている補足的な説明は、必ずしも、その御業がなされた創造の日のことだけを述べるのではなく、その日の枠を越えたことを述べることがあるということが分かります。それで、16節〜18節前半に記されている、

それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。

という補足的な説明では、創造の第四日になされた御業だけが記されていると考える必要はありません。つまり、天体の創造が創造の御業の第四日になってから始まって、第四日に完成したと理解しなければならないわけではないということです。
 先ほどお話ししましたように、「大きいほうの光る物」である太陽は、すでに、第一日目に存在していたばかりか、「」に対して一定の役割を果たし始めていたと考えられます。それで、14節〜19節に記されている記事が記しているのは、創造の御業の第四日に、天体が新たに造られたということではないと考えられます。ここでは、創造の第三日までに整えられてきた「」に対して、同じく創造の第三日までに整えられてきた天体がもつようになった「位置」と「役割」を記しているということです。
 その天体の「位置」と「役割」がどのようなものであるかということと、16節〜18節前半に記されている補足的な説明がどのような意味をもっているかということ、特に、

それで神は二つの大きな光る物を造られた。

ということばをどのように考えたらいいのかということにつきましては改めてお話しいたします。

 


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