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説教日:1998年7月26日 |
他の問題を考える上でも大切なことですが、聖絶の意味を考えるときには、聖書の御言葉が全体として教えていることを視野に入れて考えなくてはなりません。 意外に思われるかも知れませんが、聖絶の背景には、神さまの天地創造の御業があります。 聖書は、この世界は、造り主である神さまがご臨在される、いわば「神殿」としての意味をもつ世界として造られていると教えています。イザヤ書66章1節、2節では、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 と言われています。 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 というのは、神である主は、ご自身がお造りになったこの世界にご臨在しておられるということを示しています。 地上のエルサレムにある主の神殿の意味をめぐってユダヤの人々と論じていたステパノは、使徒の働き7章48節に記されていますように、 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。 とあかしした後、このイザヤ書66章1節、2節の御言葉を引用しています。人の手で造った地上の神殿は、神さまがご臨在される所がどのような所であるかを指し示す「ひな型」、「模型」であるというのです。 創世記1章2節では、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われています。神さまが最初に造り出されたこの地がまだ水に覆われていた時、すでに、 神の霊は水の上を動いていた。 のです。神さまは、創造の御業の初めからこの地にご臨在され、そのご臨在の御許から発せられる 光よ。あれ。 から始まる一連の御言葉によって、この世界を「人のすみか」に形造ってくださいました。イザヤ書45章18節に、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てられた方、 これを形のないものに創造せず、 人の住みかに、これを形造られた方 と記されているとおりです。 ですから、この世界は、造り主である神ご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもっている世界であり、人は、そこに住むことが許されているのです。それで、この世界は神さまの愛といつくしみに満ちた栄光のご臨在のしるしで満ちています。 神さまがこの世界にご臨在されるのは、「神のかたち」に造られている人間をご臨在の御前に立たせてくださり、ご自身とのいのちの交わりに生かしてくださるためです。そのことを表わし保証していたのが、エデンの園の中央にあった「いのちの木」です。 エデンの園は、いわば、神である主の神殿としてのこの世界の「至聖所」に当たる、主のご臨在の場でした。 この世界が栄光の主がご臨在される「神殿」としての意味をもっているのであれば、この世界は、造り主である神さまに礼拝と讃美がささげられるのにふさわしい世界です。 詩篇84篇3節、4節では、 万軍の主。私の王、私の神よ。 なんと幸いなことでしょう。 あなたの家に住む人たちは。 彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。 と歌われています。 創世記1章28節で、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と言われているように、「神のかたち」に造られている人間は、神さまのみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を、祝福とともに委ねられています。それは、神さまがご臨在されるこの世界の歴史と文化です。それで、その使命の最終的な目的は、自分たちに委ねられているこの地を、さらに神さまの栄光にふさわしく整えて、神さまに礼拝と讃美をささげることです。 たとえば、詩148篇では、造られたすべてのものによる、壮大な礼拝と讃美が記されています。その中心にあって、礼拝と讃美への呼び掛けをするのは「神のかたち」に造られている人間です。 私たちは、この世界が神さまの栄光のご臨在の場として、素晴らしく造られていることと、「神のかたち」に造られている人間に与えられている栄光と祝福を、深い驚きと感謝をもって心に留めて初めて、聖絶の中心にある意味を理解することができます。 人間は、造り主である神さまの栄光に満ちている世界に置かれ、神さまのご臨在の御前のいのちの交わりに生きる祝福を受けているものでありながら、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。その結果、神さまを礼拝することもなく、あがめることもなくなってしまいました。そればかりか、偶像を作り偶像に仕えて、神さまの栄光をはなはだしく汚してしまっています。これが罪により堕落した人間の現実です。ローマ人への手紙1章20節〜23節に、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と記されているとおりです。 このような人間が、無限に聖い神さまのご臨在の御前に立つことになったらどうなるでしょうか。神さまの無限の聖さを冒すものとして、直ちに、その栄光に撃たれて滅ぼされてしまいます。これが「聖絶」です。罪ある者が栄光の主のご臨在に触れるときに、罪ある者は聖絶されます。聖絶は神さまの聖さの表現です。 聖書を注意深く読みますと、聖絶は、栄光の主のご臨在の御前で起こることが分かります。 実際になされた聖絶の典型的な例である「エリコの戦い」を見てみますと、ヨシュア記5章13節〜15節に、 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。 と記されていますように、戦いに先立って、栄光の主のご臨在が「主の軍の将」の臨在として、そこにあること示されています。 そして、6章に記されている戦いにおいては、祭司たちが主の契約の箱をかつぎ、七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を吹き鳴らして契約の箱の前を進む形で、六日の間は一度ずつエリコの町の城壁の回りを回りました。武装した兵士たちは、その前と後ろを進みました。そして、七日目には、そのような形で町の回りを七度回って、ヨシュアの合図とともに、人々は鬨の声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らしました。すると、エリコの町の城壁が崩れ落ちました。 主の契約の箱のうわ蓋である「贖いの蓋」の両端には、主のご臨在を守護すると同時に、主のご臨在があることを表示しているケルビムがありました。つまり、主の契約の箱は、そこに主のご臨在があることを示していました。また、祭司たちが角笛を吹き鳴らしたことも、そこに主のご臨在があることを示すものです。この点に関しては、出エジプト記19章13節、16節、19節を見てください。 このように、カナンの地における聖絶の最初の事例である「エリコの戦い」においては、神である主のご臨在を中心にして一切のことが起こっています。 また、聖絶においては、偶像と偶像に仕える者が、特に、聖絶の対象になっています。偶像は、栄光の主のご臨在をすり替えるために作られたものであり、聖なる主のご臨在を著しく歪めるものだからです。今日のテキストの、カナン先住の七つの民を聖絶すべき戒めの中では、申命記7章5節に、 彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。 と戒められています。さらに、イスラエルの民の間でも、たとえば、出エジプト記22章20節では、 ただ主ひとりのほかに、ほかの神々にいけにえをささげる者は、聖絶しなければならない。 と戒められています。また、申命記13章12節〜17節では、イスラエルの町の一つが偶像礼拝に走ったときには、その町全体を聖絶すべきであると戒められています。 聖絶の形には、罪ある者が主のご臨在に近づいて、聖絶されることとともに、栄光の主のご臨在が近づいて来て、罪ある者たちを聖絶してしまうことがあります。 このうち、栄光の主のご臨在が近づいて来て、罪ある者たちを聖絶してしまうことは、最終的には、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に起こります。 黙示録21章に記されています、栄光のキリストの再臨によってもたらされる「新しい天と新しい地」は、最初の創造において「神殿」として造られたこの世界の完成です。その中心にある「新しいエルサレム」は、神である主のご臨在のある聖所の「本体」です。21章3節、4節では、 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と言われています。また、「新しいエルサレム」のことを記している16節では、 都は四角で、その長さと幅は同じである。 と言われていて、至聖所の表象で描かれています。 そして、22章1節、2節では、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 と言われていて、「新しいエルサレム」において、創造の初めのエデンの園が完成することが示されています。 このような、栄光の主であるキリストの再臨による「新しい天と新しい地」および「新しいエルサレム」の完成に先立って、最終的な聖絶の執行があります。 テサロニケ人への手紙第二・2章8節では、 その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。 と言われています。 「最後の審判」における「火の池」によるさばきは、最終的な聖絶の執行です。黙示録20章10節では、 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。 と言われており14節、15節では、 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 と言われています。 イスラエルがカナンの原住民である七つの民を聖絶するように命じられたのは、この、世の終わりの日の最終的な聖絶を、地上的な「ひな型」として示すことでした。 これは古い契約のもとにおけるひな型で、新しい契約の成就の時代にある今日では、武力による聖絶を執行するように選ばれている民はありません。今日、神の子どもたちに委ねられているのは、福音のあかしに基づく霊的な戦いだけです。その意味で、初めに触れました、いわゆる「民族浄化」には聖書的な根拠はありません。 聖絶を執行するためにイスラエルが選ばれたのは、イスラエルがやがて来たるべき神の御国を示すひな型として選ばれ、その中心に主の栄光のご臨在の場である聖所があって、そこに主のご臨在があったからです。また、イスラエルがそのように選ばれたのは、イスラエルが優れた民族であったからではなく、それら七つの民の罪が余りにもひどいもので、罪の升目を満たしていたからです。申命記9章4節〜6節で、 あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。 と言われているとおりです。また、創世記15章16節では、カナンの地の民の罪と咎が満ちるまでは、イスラエルのカナンの地への侵入がないことが示されています。 さらに、イスラエルの中心に主のご臨在がありましたので、イスラエルの民も、聖絶されるべき時には聖絶されました。このことは、先ほど偶像礼拝者に対する聖絶との関わりで引用しました出エジプト記22章20節や、申命記13章12〜17節から分かります。 その終末的な「ひな型」がバビロンの捕囚です。この点は、エレミヤ書25章8節、9節を見てください。 最初の人は罪を犯して堕落した後、主のご臨在の場であるエデンの園から追放されました。しかし、主は、ご自身のご臨在の場であるエデンの園を保存し、ご臨在の御前におけるいのちの交わりを表示し保証している「いのちの木への道」を残してくださいました。ただし、創世記3章24節に、 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 と記されていますように、その道は、「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」によって守られていました。 それは、人が罪のあるままで栄光の主の御前に近づいて聖絶されることがないための、主の御配慮によることです。 このような人間の現実を「ひな型」として示していたのが、旧約の幕屋や神殿の中心にあった聖所です。 聖所は主のご臨在を表示しつつそれを守護するケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。(出エジプト記26章1節)そのさらに中心の至聖所には、主の栄光がその上にご臨在される契約の箱があり、聖所と至聖所の間はケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。(出エジプト記26章31節〜33節) 至聖所には、年に一度の大贖罪の日に、贖いの血を携えた大祭司が入ることが許されただけでした。ヘブル人への手紙9章7節に、 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。 と記されているとおりです。 これによって、罪のある人間は主のご臨在の御前から退けられていること、もしそのままでご臨在の御前に近づくなら、たちどころに聖絶されることも示されています。それと同時に、贖いの血による罪の聖めにあずかって主のご臨在の御前に出でて、主とのいのちの交わりにあずかる道が備えられていることと、動物の血では完全な贖いができないので、その実現には至っていないことが示されています。 この聖所は、人類の堕落の後のエデンの園の写しです。その意味で、聖所は人類全体に対して意味をもっていますし、イスラエルはそのあかしのために選ばれた器でした。 この、聖所が示している、贖いの血による罪の聖めにあずかって、主のご臨在の御前におけるいのちの交わりにあずかる恵みは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって成就しました。ヘブル人への手紙10章19節、20節には、 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。 と記されています。 この世界全体が、栄光の主のご臨在される「神殿」としての意味をもつ世界として造られています。「神のかたち」に造られている人間は、その主のご臨在の御前で主とのいのちの交わりに生きるものとして造られました。しかし、アダムにあってすべての人は罪を犯しました。ローマ人への手紙5章12節に、 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、 と記されているとおりです。 それによって、すべての人が、主の栄光のご臨在の御前に聖絶されるべきものとなってしまいました。 実際には、人類は、主のあわれみの下に、贖いが成就し完成する時まで、主のご臨在の御前から退けられるという形で、聖絶されることなく、存続することが許されてきました。ローマ人への手紙3章25節では、 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 と言われています。 しかし、すべてのものは造り主である神さまのものであり、最後には、完全に、神さまの御手に納められなくてはなりません。ローマ人への手紙11章36節には、 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。 と記されています。 けれども、罪ある者が、そのまま無限に聖い神さまの御手に納められることはありえません。罪によって堕落している状態にある人類はすべて、最終的には、聖絶を通して造り主である神さまの御手に納められます。この意味で、「聖絶のもの」は、「主にささげられたもの」となります。また、これによって、初めにお話ししました、レビ記27章28節の、 すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。 という律法の不思議な規定も理解されます。 福音の御言葉は、旧約の聖所によってあかしされている、いのちの血による罪の贖いにおいて、聖絶が執行される道を示しています。 ガラテヤ人への手紙3章13節に、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。 と記されているとおりに、イエス・キリストは「私たちのためにのろわれたものとなって」、私たちの聖絶を成就してくださいました。 これによって、人には、自分自身が直接に栄光の主のご臨在の御前に立って、あの「火の池」によって示されている聖絶の執行を受けることの他に、御子イエス・キリストの十字架において聖絶の執行を受ける道が備えられました。 これをさらに別の面から見ますと、人は、「聖別」か「聖絶」かのいずれかを通して、完全に造り主である神さまのものになるということです。人が罪を犯して堕落していなかった時には、「聖別」によって自分たちを造り主である神さまにささげる道がありました。しかし、現実の人間のように、罪によって堕落している状態にあっては、イエス・キリストの十字架における「聖絶」にあずかることをとおしてだけ、自分自身を「聖別」することができます。 このことをあらかじめ示していると思われるのは、あの「エリコの戦い」において、聖絶されるべきものとなった中から取り出された二つのものです。 一つは、「遊女ラハブ」です。ヨシュア記6章25節には、 しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。 と記されています。 このラハブは、マタイの福音書1章5節で、 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ と言われていますように、ダビデを経て救い主であるイエス・キリストに至る家系に組み込まれています。 もう一つは、6章24節で、 彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。ただ銀、金、および青銅の器、鉄の器は、主の宮の宝物倉に納めた。 と言われている貴金属と金属の器です。これは、たとえば、マラキ書3章1節〜3節で、 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。 彼はわたしの前に道を整える。 あなたがたが尋ね求めている主が、 突然、その神殿に来る。 あなたがたが望んでいる契約の使者が、 見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。 だれが、この方の現われるとき立っていられよう。 まことに、この方は、精練する者の火、 布をさらす者の灰汁のようだ。 この方は、銀を精練し、 これをきよめる者として座に着き、 レビの子らをきよめ、 彼らを金のように、銀のように純粋にする。 と言われており、さらに、4章1節で、 見よ。その日が来る。 かまどのように燃えながら。 その日、すべて高ぶる者、 すべて悪を行なう者は、わらとなる。 来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、 根も枝も残さない。 と言われているような「火による精錬」による聖めにつながっています。 私たちは、信仰によってイエス・キリストを受け入れ、その十字架の死による罪の贖いにあずかることによって、「聖絶のもの」となっています。そして、 すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。 という律法の規定のとおりに、完全に主のものとされています。 それで、私たちは、自分を主への礼拝のために「聖別」することができます。ローマ人への手紙12章1節では、 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 と勧められています。 このように、イエス・キリストは、聖絶を野蛮な制度として廃棄されたのではなく、ご自身の十字架の死をもって神さまの聖さの表現である聖絶を成就してくださいました。そして、それに基づいて、私たちを父なる神さまのものとして聖別してくださり、主のご臨在の御前のいのちの交わり、すなわち、永遠のいのちに生きるものとして回復してくださいました。 |
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