(第252回)


説教日:2010年9月26日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 今日も、マタイの福音書6章14節、15節に記されている、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。今日で、このイエス・キリストの教えについてのお話を終えたいと思っています。
 これまで、この教えが主の祈りのすぐ後に記されていることの意味について考えるために、ほかの個所に記されているイエス・キリストの教えで、この教えと同じような教えをいくつか取り上げてお話ししてきました。
 マタイの福音書5章23節ー26節には、

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここでイエス・キリストは、兄弟あるいは姉妹との交わりが損なわれてしまっているときには、速やかに和解するようにと教えておられます。そして、このために、前半の23節、24節においては、主の祭壇に「供え物」を献げることを引き合いに出しておられます。これによって、兄弟あるいは姉妹と和解することの大切さを示しておられます。そして、後半の25節、26節においては、私たちを「告訴する者」が私たちを告訴しようとしていることを引き合いに出しておられます。これによって、兄弟あるいは姉妹と和解することの緊急性を示しておられます。
 23節、24節では、

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。

と言われています。この教えにつきましては、すでに、いくつかのことをお話ししました。この教えは、兄弟あるいは姉妹と和解することが主の御前にどれほど大切なことであるかを示しています。ここでは、それが主の祭壇に「供え物」を献げることに先だってなされるべきことであることが示されています。
 この教えは、これを聞いている人々に、私たちの想像を越えた衝撃を与えたと考えられます。
 この教えを含む「山上の説教」はガリラヤでなされました。この時、イエス・キリストの教えを聞いている弟子たちを初めとして、そこに集まってきていた人々は、おもにガリラヤとその周辺の地方の人々でした。「山上の説教」がなされたときの状況を記している4章25節ー5章2節には、

こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

と記されています。この記事から分かりますように、「山上の説教」は基本的にイエス・キリストの弟子たちに対して語られました。しかし、イエス・キリストに「つき従った」と言われている「群衆」もそれを聞いていました。
 ガリラヤはヨルダン川がそこから流れ出るガリラヤ湖のある地方です。そことエルサレムがあるユダとの間にはサマリヤがありました。ところが、人々が「供え物」を献げる主の祭壇はエルサレム神殿の祭壇のことです。それ以外には主の祭壇はありませんでした。ですから、

 あなたが祭壇の上に供え物をささげようとしているとき

というイエス・キリストのことばを聞いた人々は、自分たちが何日もかけてエルサレムに行って、主の神殿の祭壇の所に行くときのことを考えていました。
 そして、すでにお話ししましたように、この、

 あなたが祭壇の上に供え物をささげようとしているとき

というイエス・キリストのことばは、動物の供え物を献げようとしていることを示しています。その人々は、エルサレムに来て、いけにえのための動物を買って、それを主の神殿にある祭壇のところにまで引いてきて、祭司に渡そうとしていることを考えています。
 その人々に、イエス・キリストは、

もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。

と教えられたのです。

 もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら

と言われているときの、その「兄弟」とは、その人々にとっては自分の身近な人々でしょうから、ガリラヤあるいはその周辺の地方の人であるわけです。
 このイエス・キリストの教えに従うなら、その人はそのようにして用意したいけにえの動物を、祭司に託したうえで、ふたたび何日もかけてガリラヤに戻り、その「兄弟と仲直りをし」なければなりません。そのために、どれほどの時間がかかるでしょうか。仲直りをしたなら、もう一度、何日かかけてエルサレムに来て、主の祭壇に「供え物」を献げなければなりません。そして、主の祭壇に「供え物」を献げてから、また数日かけてガリラヤに帰ることになります。
 イエス・キリストは、主の祭壇に「供え物」を献げるに当たって、もし兄弟あるいは姉妹との交わりが損なわれていることを思い起こしたときには、たとえ、これほどの時間と労力をかけることがあるとしても、まず、兄弟あるいは姉妹と和解しなければならないと教えられたのです。ですから、イエス・キリストは、兄弟あるいは姉妹との和解がどれほど大切なことであるかを、このような形で教えられたのだと考えられます。
 このように言いますと、何となく、私たちはもう地上の神殿の祭壇に動物のいけにえを献げることはないのだから、この教えは私たちとは関係ないと感じてしまうかもしれません。しかし、このイエス・キリストの教えに出てくる主の祭壇に献げられる「供え物」は、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いをあかしする地上的なひな型です。今日、私たちは、主が私たちのために備えてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに頼って、主の御前に近づいて、主を礼拝し、讚え、主に祈ります。その際に、もし私たちと兄弟あるいは姉妹との交わりが損なわれてしまっていたら、まず、その兄弟あるいは姉妹と和解をして、それから主のご臨在の御前に近づくようにと、イエス・キリストご自身が教えておられます。
 すでにお話ししましたように、その和解の働きかけが必ずしも成功するとは限りません。主が求めておられることは、私たちの方から、そして、言うまでもなく、心から和解の手を差し伸べることです。


 また、このように言いますと、やはり何となくですが、この教えでイエス・キリストは、兄弟あるいは姉妹と和解することのほうが、主の祭壇に「供え物」を献げることよりも大切であると教えておられるのではないかと考えたくなります。けれども、ここでは、そのような結論を引き出すことはできません。
 まず確かめておきたいことですが、このイエス・キリストの教えにおいては、このとき主の祭壇に「供え物」を献げようとしている人の動機や目的に問題があることは示されていませんし、その「供え物」自体に傷があるというような問題があることも示されていません。ここでは、ただ、その人と兄弟あるいは姉妹との交わりが損なわれてしまっていることだけが問題となっています。
 確かに、一般的に言いますと、あることに対して優先的になされることがありますと、その優先的になされることのほうがより大切なことであると考えられます。けれども、あることをするために、その前にまずしなければならないことがあったとしても、その、まずしなければならないことのほうがより大切であるとは限りません。たとえば、演劇を観るときには、まず入場券を買わなければなりません。しかし、入場券を買うことのほうが、演劇を観ることより大切であるということにはなりません。やはり、それは、それぞれの関係を考えて判断する必要があります
 イエス・キリストの時代において、ある人が主の祭壇に「供え物」を献げることは、その「供え物」を献げる人と主との関係が関わっています。それには二つのことが考えられます。ひとつは、その人が主の御前に自分の罪を自覚したので、主の贖いの恵みを信じて主の祭壇に「供え物」を献げるということです。もうひとつは、主の豊かな恵みに対する深い感謝を表すために、主の祭壇に「供え物」を献げるということです。このように、主の祭壇に「供え物」を献げることは、罪によって損なわれてしまっている主との交わりを、贖いの恵みによって回復していただくことや、主の恵みに対する感謝をもって主との交わりをさらに深めていただくことを目的としています。いずれの場合にも、主の贖いの恵みに基づく主との交わりに関係しています。
 これに対しまして、兄弟あるいは姉妹と和解することは、その兄弟あるいは姉妹との交わりを回復しようとすることです。このことほうが、主との交わりを回復していただいたり、深めていただくることより大切であると言うことはできません。
 私たちにとってもっとも大切なことは、やはり、契約の神である主との交わりです。しかし、私たちの罪によって、この主との交わりは損なわれてしまっていました。また、私たちお互いの関係も、それぞれの罪によって損なわれてしまっていました。これに対して、神さまは御子イエス・キリストの十字架の死と、死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを備えてくださり、その一方的な恵みによって、私たちをそれにあずからせてくださいました。
 しかし、それだけではありません。ここに、このイエス・キリストの教えを理解するうえでとても大切なことがあります。それは、私たちはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、神さまとの関係が回復されているだけでなく、私たちお互いの関係も、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって回復されているということです。なぜなら、私たちお互いの関係が損なわれるのは私たちの罪によっていますので、その真の意味での回復も、私たちの罪が贖われることによっているからです。
 御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いに基づいて回復された神さまとの交わりが永遠に続くことについては、改めて説明する必要がないと思います。それとともに、私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いに基づいて回復された私たちお互いの交わりも永遠に続くということを心に刻みたいと思います。
 御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いに基づいて回復されていない交わりは、この世限りのものであって、永遠に続くことはありません。そのような交わりができるのは、神さまの一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、人の罪がその腐敗の極みにまで至ってしまわないように保たれているとともに、罪の腐敗の影は免れないながらも、よりよいことを求めるように啓発していただいていることによっています。そのようにして生み出されたものを、「市民的な善」と呼びます。しかし、そのような一般恩恵に基づく御霊のお働きがあるのは、ノアの時代のように、この世の歴史が罪の腐敗の極みに至ってしまって、神さまが歴史全体をおさばきにならなければならないような事態に至らないようにしてくださっているためのことです。終わりの日に再臨される栄光のキリストが最終的なさばきを執行された後には、もはや一般恩恵は取り去られ、人間の罪がその極みに至ってしまいます。つまり、地獄にはどのような意味においても、愛し合うということがないのです。ただ御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いに基づいてお働きになる御霊によって回復され、導かれている交わりだけが、永遠に続く交わりです。
 このように、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いは、私たちと神さまの交わりを回復してくださっただけでなく、私たちお互いの交わりを真の意味で回復してくださっています。ですから、この二つのことを切り離すことはできません。御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって、神さまとの交わりを回復していただいているのに、兄弟姉妹との交わりは回復していただいていないということはありえないのです。このどちらかの交わりが欠けているとしたら、もう一つの交わりが真の意味で回復されているかどうかは分かりません。
 そして、私たちにとってより現実的に分かりやすいのは兄弟姉妹との交わりです。それで、ヨハネの手紙第一・4章20節には、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

と記されています。イエス・キリストの、

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。

という教えも、これと同じことを示しています。その上で、速やかに、兄弟あるいは姉妹と和解し、その交わりを回復することの大切さをありありと示しています。

 このこととの関連で思い起こしておきたいことがあります。それは、このイエス・キリストの教えは、その前の21節、22節に記されている、

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

というイエス・キリストの教えを受けているということです。
 このイエス・キリストの教えについてはすでに詳しくお話ししました。そのときにもお話ししましたが、ここでは、兄弟あるいは姉妹に対して、罪の自己中心性から出た理不尽な怒りを燃やすことや、兄弟あるいは姉妹の尊厳性を傷つける思いを抱き、ことばを発することは、「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に相当するということが示されています。
 それは、聖書のみことば全体の光、特に、創世記9章5節、6節に記されている、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちにお造りになったから。

という神さまのみことばに照らして見たときに明らかになりますが、これが人を神のかたちにお造りになった神さまの栄光を冒す罪であるからです。それに対しては、神さまご自身がさばきを執行されるということが、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

という神さまのみことばの趣旨です。
 このことを踏まえますと、マタイの福音書5章25節、26節に記されているイエス・キリストの、

あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

という教えが示している緊急性も理解できるようになります。

あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。

という教えだけで、兄弟あるいは姉妹と速やかに和解することが必要であることが示されています。しかし、イエス・キリストは、これに加えて、

まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

という教えを付け加えておられます。
 この教えから、イエス・キリストは、私たちを負債を負っている者にたとえて教えておられることが分かります。
 この「一コドラント」については、新改訳欄外に「1コドラント(2レプタ)は1デナリの64分の1」と注釈されています。マルコの福音書12章42節にも、

そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。

と記されています。コドラントは最も値の低いローマの銅貨です。ちなみに、レプタは聖書に出てくる唯一のユダヤのコインです。
 イエス・キリストが付け加えられた教えは、

 まことに、あなたに告げます。

という、イエス・キリストが大切なこと、重大なことを教えられたときに用いられたことばから始まっています。そして、それに続く、

あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

という教えは、もはやそこからは、少なくとも自分の力では、出てこられないということを示しています。それで、このイエス・キリストの教えは、終わりの日のさばきのことを表していると考えられます。これと関連して注目したいのは、ルカの福音書12章58節には、これと同じ教えが記されていますが、その教えは、その前の35節ー57節に記されている終わりの日にかかわる教えを受けているということです。
 つまり、この、

まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

という教えは、23節に記されている、

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

というイエス・キリストの教えに出てくる、「燃えるゲヘナに投げ込まれます」ということに当たることです。
 そうしますと、25節に出てくる「あなたを告訴する者」とは、神の子どもたちの告発を専門としている悪魔のことではありません。この場合の「あなたを告訴する者」は、私たちが罪の自己中心性から出た理不尽な怒りを燃やした兄弟あるいは姉妹であり、心ひそかにさげすみ、さげすみのことばを投げつけた兄弟あるいは姉妹です。そのことは、この一連の教えで「早く仲良くなりなさい」と和解を求めるように教えられている相手が、その兄弟あるいは姉妹であることからも分かります。
 しかし、それは必ずしも、そのように理不尽に扱われた兄弟あるいは姉妹が、直接的に私たちを告発しているとは限りません。その兄弟あるいは姉妹はすべてを主に委ねておられるかもしれません。そして、詩篇9篇8節、9節には、

 主は義によって世界をさばき、
 公正をもって国民にさばきを行なわれる。
 主はしいたげられた者のとりで、
 苦しみのときのとりで。

と記されており、12節には、

 血に報いる方は、彼らを心に留め、
 貧しい者の叫びをお忘れにならない。

と記されています。
 また、先ほど引用しました創世記9章5節、6節に記されていますように、神のかたちの栄光と尊厳性を損なうものに対しては、神さまご自身がさばきを執行されます。
 もし私たちが兄弟あるいは姉妹に対して、罪の自己中心性から出た理不尽な怒りを燃やしたままであり、兄弟あるいは姉妹の尊厳性を傷つける思いを抱き、侮辱のことばを投げつけたままであるとしますと、神さまは私たちをおさばきになる立場に立っておられます。その私たちが神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまとの交わりにあずかろうとするとしますと、どうなるのでしょうか。神さまは、やはり、まず、その兄弟あるいは姉妹と和解することを求められるはずです。それが、

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。

というイエス・キリストの教えの主旨です。
 このように、私たちが、まず、進んでまた心から兄弟あるいは姉妹との和解を求めるべきことは、イエス・キリストの一貫した教えです。このことが、マタイの福音書6章14節、15節に記されている、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えに反映しています。これは、主の祈りにおいて、私たちが、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るだけでなく、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

と祈るように教えられていることにも沿っています。

 


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