(第251回)


説教日:2010年9月19日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 先主日には、私が休暇をいただきましたので、主の祈りに関するお話は、お休みとなりました。今日も、マタイの福音書6章14節、15節に記されている、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 これまで、この教えが主の祈りのすぐ後に記されていることの意味について考えるために、ほかの個所に記されているイエス・キリストの教えで、この教えと同じような教えを取り上げてお話ししてきました。
 前回から取り上げているのは、マタイの福音書5章23節ー26節に記されている、

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

というイエス・キリストの教えです。
 この教えは、内容の上から、前半の23節、24節に記されている教えと、後半の25節、26節に記されている教えに分けることができます。とはいえ、これらは別々の教えではなく、深くかかわっていて、一つの教えとなっています。
 前回は、23節、24節に記されている教えを取り上げました。まず、今日お話しすることとかかわることだけを復習します。
 23節を直訳調に訳しますと、

ですから、もし、あなたが祭壇の上にあなたの供え物をささげようとしていて、そこであなたの兄弟があなたに対立して何かを持っていることを、あなたが思い出したら、

となります。この訳から分かりますが、新改訳で「兄弟に恨まれていること」と訳されている部分は「あなたの兄弟があなたに対立して何かを持っている」というような言い方がされています。兄弟あるいは姉妹が具体的に何を抱いているのかは示されていません。それは、新改訳が示している恨みかもしれませんし、憤りかもしれません。さらには、もっと強い、敵意や憎しみであるかもしれません。ここでは、それがどのようなことであっても、兄弟あるいは姉妹と私たちの関係が損なわれていることが問題となっています。
 これに続く、25節、26節に、

あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

と記されていることから判断しますと、私たちがその兄弟あるいは姉妹に対して何らかの危害を加えたことをが想定されているように思われます。ただし、この25節、26節の教えは、どちらが加害者であるかを教えるためのものではなく、お互いの間で和解することの緊急性を示すために語られたものです。
 これに対して、前回も取り上げましたマルコの福音書11章25節には、

また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。

というイエス・キリストの教えが記されています。ここに出てくる、「だれかに対して恨み事があったら」と訳されている部分を直訳調に訳しますと、「だれかに対立して何かをもっていたら」となります。ここでは、

 だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。

というように、「赦してやりなさい」という戒めがありますから、これは、その「だれか」が私たちに対して、何らかの危害を加えたことを意味しています。ギリシャ語の原文では、

 赦してやりなさい、だれかに対して恨み事があったら。

というように、「赦してやりなさい」の方が先にあって、私たちが赦すべきことが強調されています。これを生かせば、私たちが進んで赦すべきことが示されています。
 このように、イエス・キリストは、私たちが兄弟あるいは姉妹に何らかの危害を加えてしまったときだけでなく、私たちが兄弟あるいは姉妹から何らかの危害を受けたときにも、私たちの方から和解の手を差し伸べるべきことを示しておられます。
 この二つの場合に共通しているのは、どちらも、神さまのご臨在の御前に立って、神さまとの交わりにあずかろうとしているときのことが取り上げられているということです。マタイの福音書5章23節、24節では、契約の神である主の祭壇に供え物をささげようとしているときのことであり、マルコの福音書11章25節では、父なる神さまに祈ろうとしているときのことです。そのどちらにおいても、もし、神の家族の兄弟あるいは姉妹との関係に何らかの亀裂が生じているときには、まず、私たちの方から和解の働きかけをするようにということが教えられています。


 このように言いますと、私たちのうちには二つほどの疑問がわいてくるのではないでしょうか。
 一つは、自分に非がある場合に、自分の方から和解のために働きかけることは分かるけれど、相手の方が悪くて自分には非がないのに、どうして、自分の方から和解の手を差し伸べなければならないのかということです。私たちはしばしばそのように考えて、和解の手を差し伸べることを控えてしまうことがあります。
 もう一つは、イエス・キリストの戒めにしたがって、自分の方から和解の手を差し伸べたとしても、和解が成立するとは限らないのではないかということです。私たちはそのような不安に駆られて、和解の手を差し伸べることを控えてしまうことがあります。
 この二つの疑問について考えるために、やはり、このイエス・キリストの教えの根底にある、神さまと私たちの関係のことを考える必要があります。
 私たちの父なる神さまは、御子イエス・キリストによって、私たちの罪を贖ってくださり、私たちをご自身と和解させてくださいました。
 コリント人への手紙第二・5章17節ー21節には、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されています。
 私たちは、私たちの造り主であられる神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっておりました。私たちの造り主であられ、今も、私たちを含めて、ご自身がお造りになったすべてのものを真実に支え続けておられる神さまを、神として愛することも、あがめることもないばかりか、神さまに背を向けて歩んでおりました。それは神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて滅びを刈り取るようになる道を歩むことに他なりませんでした。神さまは、そのような状態にあった私たちのために、御子イエス・キリストを贖い主として立ててくださいました。そして、実際に、御子イエス・キリストは、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。それによって、私たちの罪を赦してくださり、私たちをご自身の御前に立つことができるものとしてくださいました。
 それはどのようなことであったのでしょうか。いま引用しましたみことばに沿ってみてみましょう。21節には、

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されています。
 言うまでもなく、ここで「罪を知らない方」とは、御子イエス・キリストのことです。
 「罪を知らない」ということは、知識として罪を知らないという意味ではありません。永遠の神の御子であられるイエス・キリストはサタンや悪霊たちや人間の罪が何であるかをすべてご存知です。
 この場合の、「罪を知らない」ということは、ヘブル語的な、より広くは、セム語的な意味合いにおいてのことです。ヘブル語的な意味合いにおいて、誰かを「知っている」ということは、その人との交わりの中にあって、その人を親しく知っているということを意味しています。それと同じように、「罪を知っている」ということは、実際に罪を犯して、罪を経験的に知っているということを意味しています。イエス・キリストはそのような意味では「罪を知らない方」でしたし、「罪を知らない方」です。
 ここでは、文法的な議論をすることはできませんが、この「罪を知らない方を」ということばは[「知る」ということばの不定過去分詞(グノンタ)と、それを実体化する冠詞(トン・対格)と、否定詞(メー)の組み合わせで]、イエス・キリストが罪を経験的に知らないことが、時間を越えた事実であることを示しています。神学的には「先在のキリスト」と言いますが、人の性質を取って来られる前のイエス・キリストはもちろんのこと、人の性質を取って来られた後のイエス・キリストも、いかなる意味においても、つまり、思いにおいても、ことばにおいても、行いにおいても、罪を犯したことがないということを示しています。言うまでもなく、ここコリント人への手紙第二・5章21節では、人となって来られたイエス・キリストの方に焦点が合わされています。
 しかも、ここでは、このような意味合いをもっている「罪を知らない方を」ということばが、いちばん前に置かれていて強調されています。何と、神さまはこの「罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」ということです。
 また、この、

 私たちの代わりに罪とされました。

ということばの「私たちの代わりに」(フペル・ヘーモーン)は、「私たちのために」をも意味します。テトスへの手紙2章14節には、

キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

と記されていますが、ここで、

 キリストが私たちのためにご自身をささげられた

と言われているときの「私たちのために」は、これと同じ言い方(フペル・ヘーモーン)です。コリント人への手紙第二・5章21節では、この両方の意味が込められていると考えられます。神さまは「罪を知らない方を」、「私たちのために」また「私たちの代わりに罪とされました」ということです。

 ここで「罪とされました」と言われていることについては、いろいろな見方がありますが、ごく限られたことにだけ触れておきます。
 これは、イエス・キリストが人としての性質を取って来られたときに、罪を宿す人の性質を取って来られたという意味ではありません。もしそうだとすれば、その前で、イエス・キリストが「罪を知らない方」であると言われていることが否定されてしまいます。
 よく知られている理解の一つは、「罪とされました」と言われているときの「」は「罪のためのいけにえ」であるという見方です。これは高名な学者の方々にも支持されている理解の仕方です。その根拠は、ヘブル語では「罪」を表すことば(ハッタート)が「罪のためのいけにえ」をも意味しますし、「罪過」を表すことば(アーシャーム)が「罪過のためのいけにえ」をも意味するからです。
 しかし、パウロがここで用いていることばは、よく知られている「ハマルティア」(単数)ですが、パウロの手紙では、このことばによって「罪のためのいけにえ」を表している例が他にありません。
 また、ここでは、この「ハマルティア」は、この後で、

それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と言われているときの「神の義」と対比されています。そして、この「神の義」は法的な(法律上の)意味をもっています。この「神の義」そのものは目で見たり、手で触れたりすることができません。それで、この「ハマルティア」(単数)も法的な意味をもっている、神さまとの関係における「」であって、「罪のためのいけにえ」ではないと考えられます。「罪のためのいけにえ」そのものは、目で見たり、手で触ったりすることができるものです。これに対して、「」や「」(単数)そのものは、見たり触れたりすることはできません。「」(単数)そのものは、神さまとの関係を損なうものであり、私たちの本性、私たちの内側の性質の腐敗であって、見たり触れたりすることはできません。私たちが見たり聞いたりすることができるのは、この腐敗した本性としての「」(単数)の現れである悪いことばや行いです。
 このようなことから、これは、新改訳のように、

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。

と訳したほうがいいと考えられます。
 父なる神さまは、無限、永遠、不変の愛をもって愛しておられる御子を「罪とされました」。実際に、御子イエス・キリストが十字架におかかりになったとき、父なる神さまはイエス・キリストを「」であるかのように扱われ、私たちの罪に対するご自身の聖なる御怒りを余すところなくイエス・キリストに注がれ、イエス・キリストをご自身の御前からまったく退けられました。そのために、マタイの福音書27章46節に記されていますように、イエス・キリストは、十字架の上で、

エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。

と叫ばれました。これが、御子イエス・キリストが「私たちのために」また「私たちの代わりに罪とされました」ということの意味するところです。

 父なる神さまは「キリストによって、私たちをご自分と和解させ」てくださいました。コリント人への手紙第二・5章18節に、

 これらのことはすべて、神から出ているのです。

と記されていますように、このすべては神さまが、その一方的な愛と恵みによって、私たちのために成し遂げてくださったことです。それは、私たちの側からの働きかけによることではありません。
 また、神さまが私たちのために備えてくださったのは、永遠の神の御子イエス・キリストの十字架の死による、完全な罪の贖いです。それに私たちが付け加えるべきことは何もありません。20節に、

 神の和解を受け入れなさい。

と記されていますように、私たちはただ神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった罪の贖いを信じて、神さまの和解を受け入れただけです。
 このように、神さまがその一方的な愛と恵みによって、私たちのために御子イエス・キリストによる罪の贖いを備えてくださり、神さまの側から和解の手を差し伸べてくださいました。先ほどの疑問のことばに合わせて言いますと、罪は私たちの方にあり、神さまと御子イエス・キリストに非はありません。その神さまが私たちに和解の手を差し伸べてくださったのです。
 ローマ人への手紙5章8節ー11節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。
 私たちは神さまが一方的な愛と恵みにより、御子イエス・キリストによって、私たちの間に実現してくださった和解によって、神さまとの交わりのうちに生きる者とされており、「私たちの主イエス・キリストによって・・・神を大いに喜んで」います。また、私たちはイエス・キリストにあって、神の家族の兄弟姉妹としての交わりにあずかり、兄弟姉妹のあることを「大いに喜んで」います。
 私たちはそのような愛と恵みにあずかっているものとして、神さまが実現してくださった和解をあかしするものです。コリント人への手紙第二・5章19節、20節に、

すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

と記されているとおりです。
 そのような、神さまが私たちのために備えてくださっている和解をあかしする務めに召されている私たちが、非は自分ではなく相手にあると言って、和解の手を差し伸べることをしないとしたらどうでしょうか。それは、自らのあかしを否定することです。
 もう一つの疑問に対しても、同じように考えることができます。神さまは御子イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いという、和解のための完全な備えをしてくださり、「和解のことば」すなわち福音のみことばをとおして、すべての人々に、ご自身の和解を示しておられます。そうではあっても、すべての人がそれに応じて、「神の和解を受け入れ」るわけではありません。そうであっても、神さまは和解の御手を差し伸べることを差し控えてはおられません。ですから、私たちも自分から和解の手を差し伸べたとしても、相手は受け入れないだろうということで、その手を引っ込めてしまうべきではないのです。
 同時に、これには、もう一つの面があります。
 繰り返しお話ししていますように、マタイの福音書5章23節、24節に記されているイエス・キリストの教えと、マルコの福音書11章25節に記されているイエス・キリストの教えは補い合って、私たちの方から、兄弟あるいは姉妹に対して、和解の手を差し伸べるべきことが教えられています。それとともに、そのようにして、和解の手を差し伸べられる人も、父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的な愛と恵みにあずかって、神さまとの和解にあずかっている人です。その人も同じように、主であられるイエス・キリストによって、自分の方から和解の手を差し伸べるべきであると教えられています。そうであるのに、兄弟あるいは姉妹から差し伸べられた和解の手を無視したり、振り払ってしまうとしたら、どういうことになるのでしょうか。
 このようなことから、その本来の姿から言えば、主の契約の民の間では、お互いの方から和解の手が差し伸べられて、お互いの間の理解を深め、互いにその手を取り合うようになることが望ましいのです。

 コリント人への手紙第二・5章17節には、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

という、よく知られた教えが記されています。これは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれることによる、内側からの罪の聖めを含んでいます。しかし、これまでお話ししてきたことから分かりますが、これが記されている文脈から見ますと、これは、基本的には、神さまがその一方的な愛と恵みにより、御子イエス・キリストをとおして備えてくださった罪の贖いに基づいて、神さまと和解させていただいている者の、神さまとの関係における新しさです。それは、また、同じように愛と恵みによって、神さまとの和解にあずかっている神の家族の兄弟姉妹との関係における新しさです。
 この、御子イエス・キリストにある、神さまとの関係の新しさと、兄弟姉妹との関係の新しさは、何よりもお互いの間の愛の交わりに現れてきます。しかし、それが、ただ単に気が合う者たちの間の仲良しの関係ではなく、それを越えた、御子イエス・キリストにある交わりであるということは、お互いに罪を赦し合うことに典型的に現れてきます。ペテロの手紙第一・4章7節、8節には、

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

と記されています。「互いに熱心に愛し合」うことの中で、互いに罪を赦し合うことが実現していきます。また罪を赦し合うことの中で、愛は育まれ、育てられていきます。ここでも、そのようなことが、

 ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

と言われていますように、神さまとの交わりとのかかわりにおいて教えられています。
 このようなことが、マタイの福音書6章14節、15節に記されている、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えばかりでなく、これまで取り上げてきました、これと同じような、イエス・キリストの教えの背景になっています。

 


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