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説教日:2010年9月5日 |
まず、23節、24節に記されています、 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 という教えを見てみましょう。 23節を直訳調に訳しますと、 ですから、もし、あなたが祭壇の上にあなたの供え物をささげようとしていて、そこであなたの兄弟があなたに対立して何かを持っていることを、あなたが思い出したら、 という感じになります。ちなみに、これによって、ここに「あなた」が繰り返し出てくることが分かります。これは、先ほどお話ししましたように、その前の、すべての人に例外なく当てはまる教えを、この教えを聞いている弟子たちに個人的に適用しているためのことです。 ここで注目したいのは、新改訳で「兄弟に恨まれていること」と訳されている部分です。これは、この直訳調の訳で示しましたように、「あなたの兄弟があなたに対立して何かを持っている」というような言い方がされています。兄弟が私に対して具体的に何を抱いているのかは、はっきりしていません。これによって、それがどのようなことであっても、ということが示されています。それは、新改訳が示している恨みであるでしょうし、憤りや敵意や憎しみであるかもしれません。 実は、これと同じ言い方は、少し前に取り上げてお話ししています。それは、マルコの福音書11章25節に記されています、 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。 というイエス・キリストの教えに出てきます。 ここに出てくる、「だれかに対して恨み事があったら」と訳されている部分を同じように直訳調に訳しますと、「だれかに対立して何かをもっていたら」となります。 このマルコの福音書11章25節に記されていることにおいては、主は、私たちが「だれかに対立して何かをもっていたら」、その人を赦しなさいと戒めておられます。これに対しまして、マタイの福音書5章23節、24節に記されている教えにおいては、私たちの兄弟あるいは姉妹が私たちに対立して何かを持っていたら、私たちがその兄弟あるいは姉妹と和解しなさいと戒められています。そのどちらも私たちの方から和解の手を差し伸べるべきことが示されている点で共通しています。 さらに、この二つの教えに共通していることがあります。それは、どちらも、私たちが神さまの御前に出でて、神さまとの交わりにあずかるときのことを取り上げているということです。マルコの福音書11章25節では、神さまに祈るときのことであり、マタイの福音書5章23節、24節では、神さまに「供え物」をささげるときのことです。 このようなことを踏まえて、改めてマタイの福音書5章23節、24節を見てみましょう。そこには、 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 と記されています。 ここでは、 祭壇の上に供え物をささげようとしているとき と言われています。ここで「ささげようとしている」と訳されていることば(プロスフェロー)は、基本的に「持ってくる」ことや「運んでくる」こと、人の場合なら「連れてくる」ことなどを表します。この場合のように、主への「供え物」について用いられるときには「ささげる」という意味になります。その場合でも、これは「持ってきてささげる」というような意味合いになります。それで、 祭壇の上に供え物をささげようとしているとき と言われていることは、その人が祭壇のところまで「供え物」を持ってきていることを表しています。このことは、24節に、 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして と言われていることからも分かります。 さらに、「供え物」と訳されたことば(ドーロン)は基本的に「贈り物」を表すことばです。ここでは主にささげられるものですので、「供え物」と訳されています。ギリシャ語には動物の「いけにえ」を表すことば(thusia ススィア)があります。けれども、ここでは、それとは別の、基本的に「贈り物」を表すことばが用いられています。それで、これは動物の「いけにえ」をささげることではないのではないかという思いがわいてきます。しかし、そういうことではありません。 今お話ししましたように、ここでは、「供え物」ということば(ドーロン)と「ささげる」ということば(プロスフェロー)が用いられていますが、この二つのことばの組み合わせは、福音書の中では、もう一個所出てきます。それは、やはりマタイの福音書の8章4節です。そこには、 イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」 と記されています。これは、イエス・キリストがツァラアトに冒された人を、ツァラアトからきよめられたときに、その人に語られたことばです。イエス・キリストは、 人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。モーセの命じた供え物をささげなさい。 とお命じになりました。これについては、いろいろなことが考えられますが、少なくとも、イエス・キリストは、その人がその当時のユダヤ社会に復帰するための配慮をしておられることは確かなことです。 ここで、 モーセの命じた供え物をささげなさい。 と言われています。「モーセの命じた供え物」のことは、レビ記14章10節と21節、22節に記されています。二個所に分かれているのは、通常の規定と、貧しくて通常の規定のものを手に入れることができない人の場合があるからです。通常の規定を記している10節には、 八日目に彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。 と記されています。ごく大ざっぱなことだけをお話ししますと、その人がきよめられたことを宣言する祭司は、これらの供え物から、まず「罪過のためのいけにえ」をささげます。その血をもってさらにいろいろなことをします。その後に、「罪のためのいけにえ」と「全焼のいけにえ」と「穀物のささげもの」をささげます。 このようなことを指して、イエス・キリストは、 モーセの命じた供え物をささげなさい。 と言われました。ここに、先ほどの「供え物」と「ささげる」という二つのことばの組み合わせがあります。そして、この場合の「供え物」は、基本的に動物のいけにえのことを指しています。このことから、5章23節で、 祭壇の上に供え物をささげようとしているとき と言われているのは、基本的に、動物のいけにえのことであると考えられています[Exegetical Dictionary of the New Testament, vol. 1., p. 365.]。もちろん、この5章23節が取り扱っていることは、ツァラアトからきよめられた人のことではありません。 また、モーセ律法に規定されている主の祭壇の上にささげられる「供え物」は、「全焼のいけにえ」、「穀物のささげもの」、「和解のいけにえ」、「罪のためのいけにえ」そして「罪過のためのいけにえ」の5つがあります。これらのうち穀物のささげもの以外は動物のいけにえです。しかも、「穀物のささげもの」はしばしば他の「供え物」(それらは動物のいけにえです)とともにささげられました。その意味でも、5章23節で、 祭壇の上に供え物をささげようとしているとき と言われているのは、基本的に、動物のいけにえのことであると言うことができるでしょう。 いずれにしましても、この「供え物」は動物の供え物も穀物の供え物も含めた、主への供え物全般を指していると考えられます。 それでは、人が主の「祭壇の上に供え物を」ささげるのはどのような場合でしょうか。それぞれの「供え物」には意味があります。そして、そのそれぞれが古い契約の下にある地上的な「ひな型」として、御子イエス・キリストの十字架の死の豊かな意味をあかししています。人が主の「祭壇の上に供え物を」ささげるとき、それがどの「供え物」であっても、それをささげるすべての人のうちには、共通したものがあります。それは何よりもまず、自らの罪と罪による心の腐敗としての汚れについての自覚です。そして、そのことを自覚しつつ、神である主がご自身の契約に基づく一方的な恵みによって罪を贖ってくださり、ご自身との関係を正常なものとしてくださることを信じる信仰です。その人は、主の贖いの恵みを信じて、これらの「供え物」をささげます。それは、ときには自らの罪の現実に対する非常な痛みとともにささげられますし、ときには、主の恵みに対する深い感謝とともにささげられます。 このような自らの罪と罪による心の腐敗としての汚れを自覚することがないとしたら、また、神である主がご自身の契約に基づく一方的な恵みによる贖いを備えてくださっていることを信じ、それにひたすら信頼することがないとしたら、いくら、その人が「祭壇の上に供え物を」ささげても、また、それがいくら立派な動物であったとしても、主はそれをよしとして受け入れてはくれません。 詩篇51篇16節、17節には、 たとい私がささげても、 まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。 全焼のいけにえを、望まれません。 神へのいけにえは、砕かれたたましい。 砕かれた、悔いた心。 神よ。あなたは、それをさげすまれません。 と記されています。これは、心が砕かれていれば、神さまへのいけにえはどうでもいいという意味ではありません。というのは、このすぐ後の、19節に、 そのとき、あなたは、 全焼のいけにえと全焼のささげ物との、 義のいけにえを喜ばれるでしょう。 そのとき、 彼らは、雄の子牛をあなたの祭壇にささげましょう。 と記されているからです。 これらのことに照らして見ますと、イエス・キリストが、 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき と言われるときの、「祭壇の上に供え物をささげようとしている」人は、自らの罪を自覚し、それを悔い改めるとともに、主の一方的な恵みによって備えられている罪の贖いを信じています。そして、その恵みに基づいて、主との交わりが回復されることを願うか、あるいは、その交わりが回復されていることを感謝しているかのどちらかです。 真に主を信じている人にとって、この主との交わりは決定的に大切なものです。主の律法の戒めもその全体を要約しますと、マタイの福音書22章37節ー39節に記されていますイエス・キリストの教えにありますように、 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 ということになります。まず、全身全霊を尽くして契約の神である主を愛するということになります。しかし、そのように主を愛することができるためには、神さまが備えてくださっている罪の贖いにあずかるほかはありません。「祭壇の上に供え物を」ささげる人は、その主の贖いの恵みを信じてささげました。少なくとも、信じてささげるべきでした。 そのように、主への「供え物」をささげることは、決定的に大切なことでした。そのような「供え物」を主にささげようとしているときに、 もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 とイエス・キリストは言われます。 主に「供え物」をささげる前に、しなければならないことがあるというのです。 このことについて、イエス・キリストが「供え物」、「いけにえ」はどうでもいい、大切なことは人との関係であると教えておられるというように理解するのは大変な誤解です。イエス・キリストは、 それから、来て、その供え物をささげなさい。 と言われて「供え物」をささげることを否定してはおられません。この点は、先ほど引用しました詩篇51篇16節、節17節、19節と同じです。 イエス・キリストは「供え物」をささげることを否定しておられないばかりか、むしろ、それは意味あることとされています。イエス・キリストが、 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 と教えておられるのは、主の「祭壇の上に供え物をささげ」ることが、真に意味あることとしてなされるためです。 私たちは、まず何よりも主との関係が第一であると言います。それはそのとおりです。主の律法もそのことを示しています。しかし、このイエス・キリストの教えは、もし、契約の主の家族の兄弟姉妹たちの間で愛の交わりが損なわれているとしたら、私たちと主との関係が本来の正常な関係にあるとは言えないということを示しています。 その前の21節、22節に記されているイエス・キリストの教えを視野に入れて言いますと、兄弟姉妹に罪の自己中心性から出た怒りを燃やしたり、兄弟姉妹をさげすむ思いを抱いたり、ことばにしながら、主との関係はうまくいっていると考えるとしたら、それはひとりよがりの錯覚であるということになります。 主の「祭壇の上に供え物をささげ」るとき、その人は痛切に自分の罪を自覚しているはずです。しかしその人が、その罪の自己中心性の現れである兄弟姉妹に怒りを燃やしたり、兄弟姉妹をさげすむ思いを抱いたり、ことばを口にすることは、実質的に、これを否定していることになります。 私たちが主を第一にしようとするとき、私たちは主のみこころを求めることになります。そして、主は私たちに、契約の主の家族の兄弟姉妹たちを愛するように求められます。主を愛することと兄弟姉妹を愛することは、切り離すことができません。私たちが主を愛していることは、兄弟姉妹たちを愛することに現れてきます。それで、ヨハネの手紙第一・4章20節には、 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 と記されています。 ここで、「兄弟を憎んでいる」ということが出てきます。これは兄弟を愛することと対比されることですが、ここでは、「兄弟を愛していない者」と言い換えられています。神さまの御前においては、「兄弟を愛していない者」は「兄弟を憎んでいる」者と見なされます。こには、「兄弟を愛していない」けれども「兄弟を憎んで」もいないという中間状態がありません。これと同じような教えは、マタイの福音書12章30節に記されています、 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。 というイエス・キリストの教えに見られます。このイエス・キリストのみことばは、イエス・キリストの御前においては、イエス・キリストの「味方」でもなければ「逆らう者」でもないという中間の状態がないことを示しています。 主の御前において「兄弟を愛していない者」が「兄弟を憎んでいる」者であるのは、私たちが主の贖いの恵みによって兄弟姉妹を愛する者とされており、兄弟姉妹を愛することが当然のことであり、自然なことであるからです。 |
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