(第249回)


説教日:2010年8月29日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 マタイの福音書6章14節、15節には、その前の9節ー13節に記されています主の祈りに続いて、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このイエス・キリストの教えが、主の祈りのすぐ後に記されていることには意味があると考えられます。それで、このことを考えるために、ここに記されている教えと同じようなイエス・キリストの教えが他にもいくつかありますので、そのような教えについてお話ししてきました。
 今取り上げているのは、マタイの福音書5章21節、22節に記されている、

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

という教えです。
 これは、これに続く23節ー26節に記されている教えを理解するための準備でもあります。この後に続く教えについてお話しする前に、この教えについてもう一つのことだけお話ししておきたいと思います。


 いつものように、簡単にまとめておきますと、イエス・キリストが引用しておられる、

 人を殺してはならない。

という戒めは十戒の第6戒です。そして、

 人を殺す者はさばきを受けなければならない。

というのは、主の律法が当然のこととして踏まえていることを、この第6戒に当てはめていると考えられます。

 しかし、わたしはあなたがたに言います。

ということばが示していますように、イエス・キリストは、ここでご自身の教えを聞いている弟子たちの中にあった第6戒についての理解の仕方の問題点を踏まえて、第6戒の本来の意味を明らかにしておられます。
 ここでイエス・キリストは、第6戒は、ただ身体的な殺人だけでなく、その原因となっている私たちのうちに宿っている罪の自己中心性から出てくる、兄弟姉妹に対する理不尽な怒りや、兄弟姉妹をさげすむ思いと、その現れであることばのことを戒めている、ということを明らかにしています。
 それとともに、そのような、兄弟姉妹に対する自己中心的な怒りや、兄弟姉妹をさげすむ思いと、その現れであることばが、すべての者をおさばきになる神さまの法廷においてさばかれるということ、さらには、それは「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に相当するということを明らかにしておられます。
 これはまことに恐るべき教えです。もしこれをそのまま受け止めるとしますと、大変なことになってしまいます。それで、私たちはこれを文字通りには受け止めようとはしないというか、このイエス・キリストの教えとまともに向き合うことを避けてしまいがちです。しかし、これは、このように教えられたイエス・キリストのみこころにそむくことであると考えられます。
 この教えは、無限、永遠、不変の栄光の主であられ、出エジプトの時代に、モーセをとおしてイスラエルの民に律法をお与えになった主であられるイエス・キリストが、ご自身の律法の意味を宣言しておられるものです。ですから、ここでイエス・キリストは、第6戒についての詳しい解説をしてはおられません。それで、イエス・キリストは、どうして、兄弟姉妹に対する自己中心的な怒りや、兄弟姉妹をさげすむ思いと、その現れであることばが「燃えるゲヘナに投げ込まれ」るという、恐るべき刑罰に相当するのかについては、説明しておられません。しかし、聖書の全体的な教えに照らして見ますと、その理由が見えてきます。

 すでに詳しくお話ししたことですので、要点だけを述べますと、そのことの根底には、神さまが創造の御業において私たち人間をご自身のかたちにお造りになったという、まことに重く、驚くべき事実があるのです。この大宇宙とその中のすべてのものは、神さまが創造の御業によって造り出されました。それで、すべてのものは造り主である神さまの知恵と力、聖さと義、愛といつくしみなどの属性を映し出し、あかししています。しかし、それは、たとえば、画家の作品を見れば、そこに画家の才能や人となりがうかがえるというようなことにたとえられるものです。
 そのようにして、すべてのものが何らかの形で造り主である神さまの聖なる属性をあかししていますが、その中で、人は特別な存在として造られたと言われています。それは、人が愛を本質的な特性とする人格的な方であられる神さまのかたちであるということです。神のかたちに造られた人自身が、愛を本質的な特性とする人格的な存在であるのです。
 もちろん、神さまは存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変であられます。これに対して、人は神さまの御手の作品です。この造られた世界に属するものとして、時間的にも空間的にも、また、知恵と力、聖さと義、愛といつくしみにおいても、限界のあるものです。造り主である神さまと造られたこの世界のすべてのものの間には、絶対的な区別があります。
 とは言うものの、私たちには神さまが無限、永遠、不変であられることがどのようなことかを知ることができませんので、その神さまと神さまがお造りになったものの間にある絶対的な区別がどのようなものであるかを知ることができません。私たちが何かと何かを区別するときには、私たちのイメージの中で、その区別するものを同列において比べてみて、区別します。私たちと神さまを区別するときにも、そのようにしてしまいます。その時すでに、私たちは神さまを自分たちと同列において、神さまを相対化してしまっています。それは私たちの限界によっています。ですから、私たちには神さまと私たちが絶対的に区別されると言うことはできますが、それがどのようなことかは分からないのです。
 このようにして、神のかたちに造られた人は、自らの存在と生き方をとおして、愛を本質的な特性とする人格的な方であられる神さまご自身を映し出すものとして造られています。その意味で、神のかたちに造られた人は、この造られた世界において、神さまご自身を映し出すものとしての栄光と尊厳性を与えられています。
 この事実に照らして見ますと、兄弟姉妹に対する自己中心的な怒りや、兄弟姉妹をさげすむ思いと、その現れであることばが神さまの御前にさばかれ、それに対する刑罰として「燃えるゲヘナに投げ込まれ」るというイエス・キリストの教えの意味が見えてきます。
 これには、すでにお話ししましたように、二つのことがかかわっています。
 第一に、兄弟姉妹に対する自己中心的な怒りを燃やしたり、兄弟姉妹をさげすむ思いをもち、その現れであることばを投げつけることによって私たちは、兄弟姉妹の神のかたちとしての栄光と尊厳性を傷つけ、損なうことになります。
 第二に、私たちは兄弟姉妹に対する自己中心的な怒りを燃やしたり、兄弟姉妹をさげすむ思いをもち、その現れであることばを投げつけることによって、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている私たち自身の栄光と尊厳性を、さらに深く傷つけ、損なうことになります。
 これら二つのことから、兄弟姉妹に対する自己中心的な怒りや、兄弟姉妹をさげすむ思いと、その現れであることばが神さまの御前にさばかれ、それに対する刑罰として「燃えるゲヘナに投げ込まれ」るというイエス・キリストの教えの意味を理解することができます。

 しかし、これは、私たちに兄弟姉妹に対する自己中心的な怒りを燃やしたり、兄弟姉妹をさげすむ思いをもったり、その現れであることばを投げつけるようなことをしないように、決心しなさいという決断を迫るだけものではありません。というのは、いくら私たちがそのようなことをしないようにしようと決心しても、私たちのうちからは思わず、また、自分の意志に反して、自己中心的な怒りをがわいてきてしまいます。時には、兄弟あるいは姉妹をさげすむ思いが顔を出すこともあります。イエス・キリストは、そのようなことが、「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に値すると教えておられます。私たちのうちにそのようなものがあるのに、それを心におさめてしまって、表さなければいいということではありません。
 私たちとしましては、自分がこのような罪を宿しており、しばしば罪の自己中心性に縛られて、兄弟姉妹の神のかたちとしての尊厳性を傷つけ、損なうだけでなく、それ以上に、自らの神のかたちの栄光と尊厳性を傷つけ、損なっていることを認め、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに頼るほかはありません。その贖いは完全なものですので、私たちの罪を贖っていただけますし、赦していただけます。
 しかし、それだけではありません。私たちは、さらに御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれた者として、御霊に導かれて歩む必要があります。この御霊は、イエス・キリストの復活のいのちによって私たちを新しく生まれさせてくださった方です。そして、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださり、そのいのちにふさわしい実を結んでくださる方です。
 その御霊が結んでくださる実は何よりも愛です。ガラテヤ人への手紙5章22節、23節には、

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

と記されています。
 いろいろな機会にお話ししていますように、この「御霊の実」の「」は単数形です。これは御霊に満たされた一つの人格のことを表していると考えられます。[*] そのように御霊に満たされ、御霊に導かれている人格が、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という人格的な特性をもっていて、それを具体的な状況の中で具体的に表現するようになるということであると考えられます。

[*]この「」を集合名詞として考えれば、多くのものがひとまとまりになっていることを表していることになります。とはいえ、これは同じものがいくつもひとまとまりになっているのではなく、ここでは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という異なったものがひとまとまりになっています。しかも、その一つ一つは具体的なものというより、人格的な特性です。それで、「御霊の実」は単なる集合名詞というのではなく、御霊に満たされ、御霊に導かれている人格であると考えられます。

 この「御霊の実」としての、御霊に満たされた人格とは、御霊のお働きによって、イエス・キリストの十字架の死にあずかって古い自分に死んで、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれ、復活のいのちによって生かされている人のことです。それで「御霊の実」として挙げられている「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という人格的な特性は、イエス・キリストの復活のいのちの特性でもあります。また、「御霊の実」としての、御霊に満たされた人格は、イエス・キリストに似た者でもあります。

 この「御霊の実」の人格的な特性の第一に挙げられているのは「」です。広く認められていますように、この「」は、そのほかの「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という8つの人格的な特性と並列、横並びに並べて比べられるものではなく、それら8つの人格的な特性の土台であり、源であるという意味で第一のものであると考えられます。
 そのことの意味を考えるために、コリント人への手紙第一・13章1節ー7節を見てみましょう。
 まず、1節ー3節では、

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

と言われています。これに合わせて言いますと、「愛がないなら」、そのほかの「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という人格的な特性があったとしても、むなしいということになります。言い換えますと、「愛がないなら」その他の8つの人格的な特性は真の意味で、「御霊の実」に属する人格的な特性とは言えないのです。
 さらに、コリント人への手紙第一・13章では、続く4節ー7節に、

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

と記されています。
 これは愛の積極的な面を述べています。ここに記されていることは、「御霊の実」に属する「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という人格的な特性に当たるものばかりです。それで、これらの人格的な特性は「」に基づいており、「」から生まれてくるものであると考えられます。

 このようなことを踏まえて、さらに、ローマ人への手紙13章8節ー10節を見てみましょう。そこには、

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

と記されています。
 ここでパウロは、

 姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。

という四つの戒めを取り上げています。これらは十戒の中にある戒めです。その中に第6戒の

 殺すな。

という戒めも含まれています。いま取り上げていますイエス・キリストの教えの中では、第6戒は、

 人を殺してはならない。

となっていますが、これは訳の違いで、原文のギリシャ語はまったく同じです。
 パウロは十戒のうちでも神さまとの関係にかかわる戒め、すなわち第1戒から第4戒を引用してはいません。それは、ここでパウロが問題としていることが、信仰の家族の兄弟姉妹たちとの交わりのことであるからであると考えられます。また、お互いの交わりにかかわる十戒の戒めは6つありますが、そのすべてを取り上げているわけではありません。それは、改めて説明するまでもなく、この次に記されている、

 またほかにどんな戒めがあっても

ということを述べるために、これら四つの戒めを、私たちお互いの関係のあり方にかかわる代表的な戒めとして取り上げているからです。
 このようなわけで、ここでは、私たちお互いの関係にかかわる神である主の戒めは、それがどのような戒めであっても、すべて、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という戒めに「要約されている」ということが示されています。これは、言い換えますと、神のかたちに造られた人同士のかかわりに関する神である主の戒めは、それがどのような戒めであっても、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という戒めに基づいており、この戒めから出ているということです。言い換えますと、いくら神である主の戒めを守ったと、自分で思っていても、それが「隣人をあなた自身のように愛」する愛に根差して、愛から出ていなければ、神である主の戒めを守ったことにはならないということです。
 そして、この愛は先ほどお話ししましたように、イエス・キリストの復活のいのちで私たちを新しく生まれさせてくださり、生かしてくださる御霊が、私たちのうちに生み出してくださる「御霊の実」の人格的な特性としての愛です。

           *
 ここで改めて注目したいのは、最後の10節に、

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

と記されていることです。
 「愛は隣人に対して害を与え」ないから「愛は律法を全うします」というのでは消極的すぎるような気がします。たとえば、先ほど引用しました、コリント人への手紙第一・13章4節ー7節に記されていました、

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

という教えに比べますと、消極的すぎるのではないかという思いはいっそう強くなります。
 しかし、これは、この部分だけを孤立させているための感じ方です。実際には、パウロはこれに先立って、

他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。

と述べています。
 ここでは、特に、

 他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

という教えに示されていますように、積極的なまとめがあります。ですから、

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

という教えは、それ自体としては消極的なものですが、それはその前の積極的な教えを裏打ちしているという意味で、積極的な意味をもっていると考えられます。
 それでは、パウロはなぜ、わざわざこのような消極的なことを付け加えたのか、その前の積極的な教えで十分なのではないかという疑問が出てきます。実際、先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙5章22節、23節の少し前の14節には、

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。

と記されています。この後に消極的なまとめはありません。
 しかし、先ほど見ましたように、パウロは、ローマ人への手紙13章では、

 姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。

という、四つの具体的な主の戒めを代表的に取り上げています。この点が、ガラテヤ人への手紙5章とは違っています。そして、これらの戒めが「・・・するな」という、消極的な戒めですので、パウロは、

 愛は隣人に対して害を与えません。

という消極的に見えることをもって、まとめを付け加えたのであると考えられます。
 このことから、愛にかかわる主の律法の戒めには、

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

という消極的なことの表には、

 他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

という積極的なことがあることが見て取れます。

 このことを踏まえたうえで、改めて、

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

というパウロの教えを見てみますと、今取り上げています、

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

というイエス・キリストの教えに対して、積極的なことが見えてきます。
 すでにお話ししましたように、私たちは、いくら決心しても、私たち自身のうちから、時には、私たちの意志に反して、自己中心的な怒りをがわいてきてしまいます。そればかりか、兄弟あるいは姉妹をさげすむ思いが顔を出すこともあります。このことを先ほどのパウロの教えに沿って言いますと、私たちは自らのうちに宿っている罪の自己中心性のために、「隣人に対して害を与え」てしまう者であるということです。
 それが「燃えるゲヘナに投げ込まれ」るに値する罪であるということに対しては、やはり、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを頼るほかはありません。神さまの一方的な恵みにょって、その完全な贖いにあずかって常に罪を赦していただくことができます。
 しかし、それだけでなく、パウロは、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちのうちに生み出してくださる「御霊の実」の人格的な特性である「愛は隣人に対して害を与えません」ということを明らかにしています。ちなみに、この部分を直訳調に訳しますと、

 愛は隣人に対して悪を働きません。

となります。
 私たちは、兄弟姉妹に対する自己中心的な怒りを燃やしたり、兄弟姉妹をさげすむ思いをもち、その現れであることばを投げつけるようなことをしないようにしようと決心するだけでは、それを止めることはできません。どうしても、兄弟姉妹と自分自身の神のかたちとしての栄光と尊厳性を傷つけ、損なってしまいます。ただ、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちのうちに生み出してくださる「御霊の実」の人格的な特性としての「」によって、お互いに愛し合うことの中でだけ、お互いの神のかたちとしての栄光と尊厳性を守り、尊重することができます。

 


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