(第248回)


説教日:2010年8月22日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 マタイの福音書6章14節、15節には、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この教えが9節ー13節に記されています主の祈りのすぐ後に記されていることには意味があると思われます。これまで、このことを考えるために、この教えと同じようなイエス・キリストの教えをいくつか取り上げてお話ししてきました。これまで、マタイの福音書5章21節、22節に記されています、

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

という教えについてお話してきました。これは、これに続く23節ー25節に記されていますイエス・キリストの教えを考えるための準備でもあります。
 簡単にまとめておきますと、

 人を殺してはならない。

というのは十戒の第6戒です。これは、今日の私たちの社会では刑法で言う「殺人の禁止」であると理解されます。そのことは当時の社会においても同じであったと考えられます。このときイエス・キリストの教えを聞いていた弟子たちも、そのように理解していたと考えられます。それに対して、イエス・キリストは第6戒の本来の意味を明らかにしておられます。そして、

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

と教えておられます。
 このイエス・キリストの教えは、広く知られていますように、十戒の第6戒が、ただ身体的な殺人を問題にしているだけでなく、その原因にまでさかのぼって、私たちの心のうちにある、兄弟姉妹に対する自己中心的で理不尽な怒りや、兄弟姉妹をさげすむ思いと、その現れであることばを問題としている、ということを明らかにしています。
 けれども、ここで終わってしまいますと、イエス・キリストの教えの真の意味は理解できなくなってしまいます。人を殺すことがその人の心から始まっているという理解は、ユダヤ教のラビの教えにもありました。イエス・キリストの教えで、これに劣らず大切なことは、私たちの心のうちにある、兄弟姉妹に対する自己中心的で理不尽な怒りや、兄弟姉妹をさげすむ思いとことばが、神さまの聖なるご臨在の御前においてさばかれるべきものであり、しかも、「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に値するということにあります。イエス・キリストはこのことを明らかにするために、ただ十戒の第6戒の、

 人を殺してはならない。

という戒めを引用しておられるだけでなく、主の律法が当然のこととして踏まえている、

 人を殺す者はさばきを受けなければならない。

ということを、わざわざ取り上げて、それがどのような刑罰に価するかを示しておられると考えられます。このようにしてイエス・キリストは、兄弟姉妹に対する自己中心的で理不尽な怒りや、兄弟姉妹をさげすむ思いとことばが、神である主の御前にどれほど重大な罪であるかを明らかにしておられるのです。
 これは、単なる第6戒の解釈の一つではありません。イエス・キリストは、出エジプトの時代に、モーセをとおしてイスラエルの民に十戒を中心とする律法をお与えになった契約の神である主であられます。その契約の主として、私たちの心のうちにある、兄弟姉妹に対する自己中心的で理不尽な怒りや、兄弟姉妹をさげすむ思いが、「燃えるゲヘナ」におけるさばきに値するということを宣言しておられるのです。


 このイエス・キリストの教えの背景にあるのは、創造の御業において神さまが人を神のかたちにお造りになったということです。今日も、このことについてさらにお話ししたいと思います。
 人が神のかたちに造られているということは、人のなかに神のかたちがあるということではありません。霊魂が神のかたちであるということではありません。肉体と霊魂から成り立っている人間そのもの、私たち自身が神のかたちであるということです。そして、神さまが愛を本質的な特性とする人格的な方であられるので、神のかたちに造られた人も愛を本質的な特性とする人格的な存在であるのです。
 創世記1章27節には、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(第3版)

と記されています。ここでは神さまが人を神のかたちに創造されたことが記されています。その際に「創造する」ということば(バーラー)が3回繰り返されています。このことばは、創造の御業の記事の中では、三つの個所に出てきます。
 まず、1章1節の、

 初めに、神が天と地を創造した。

というみことばの中で用いられています。先主日も触れたことですので、詳しい説明は省きますが、この、

 初めに、神が天と地を創造した。

というみことばは、神さまがおよそこの世界に存在するすべてのもの、今日のことばで言えば37億光年の彼方に広がっている大宇宙とその中のすべてのものをお造りになったことを宣言しています。また、時間や空間はこの経過し変化する世界の時間ですので、この世界がなければ時間や空間もありません。それで、

 初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「初めに」は、この世界の時間と空間の始まりをも示しています。その意味で、これは「無からの創造」に当たることを述べています。永遠に無限の豊かさに満ちておられる不変の神さまが、この世界を創造されたので、この世界は造られ、存在し始めたということです。そのことを示すのに、「創造する」ということばが用いられています。
 次にこのことばが用いられているのは21節です。そこには、

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。これは、創造の御業の中で初めて生き物が造られたことを記しています。そして、いのちのあるものが造られることによって、創造の御業が新たな段階を迎えたことを示しています。
 最後に、先ほどの27節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されている中で、しかも3回も用いられています。これによって、人が神のかたちに造られたことによって、神さまの創造の御業がまったく新しい段階を迎えたことが示されています。私たちの住んでいる社会では、動物と人間の区別は「程度」の違いと受け止められる傾向があります。しかし、聖書のみことばは、神のかたちに造られた人とそうでない生き物たちのあいだには決定的な違いがあることを示しています。
 さらに、ここでは、

 男と女とに彼らを創造された。

と言われています。これによって、男も女も神のかたちに造られていることが示されています。これは、「男と女」という最も基本的な区別を越えて、どちらも等しく神のかたちであるということですので、すべての人が例外なく神のかたちに造られているということを意味しています。
 このようにして、神さまのみことばは、私たちすべてが例外なく神のかたちに造られていることを示しています。そればかりでなく、この世界のすべてのものにとって最も基本的な事実である、造り主である神さまの創造の御業において、神のかたちに造られた人は特別な意味をもっている存在であることが示されています。

 今お話ししていることと深くかかわっていますので、順序が逆になりますが、このことは、これに先立つ26節に、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」(第3版)

と記されていることにも表されています。
 これもすでにお話ししたことがありますが、神さまはみことばによって創造の御業を進めておられます。神さまが発せられたみことばを「創造のみことば」と呼ぶことにします。その「創造のみことば」を見てみますと、人以外のものが造られたときには、すべて神さまが、「あれ」、「集まれ」、「芽ばえさせよ」、「群がれ」、「飛べ」、「生ぜよ」というように、命令のみことばを発しておられます。すると、その通りのものや状態が生じています。たとえば、その最初の事例を記している3節には、

 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

と記されています(第3版)。
 これに対しまして、神さまが人を神のかたちにお造りになったときの「創造のみことば」は、一方的な命令ではありませんでした。神さまは、

さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。

と言われました。
 同じ「創造のみことば」でありながら、神さまが人を神のかたちにお造りになったときのみことばは、それ以外のものお造りになったときのみことばと、大きく違っています。これには大切な意味があると考えられます。
 このことは、この神さまの「創造のみことば」に出てくる「われわれ」が何を意味しているかにかかわっています。これについては、結論的なことをお話しするに留めますが、この「われわれ」は、造り主である神さまに複数の人格があることを示しています。このことは、聖書のみことば全体の教えに照らして見ますと、神さまが御父、御子、御霊の三位一体の神さまであられることの反映です。そして、そのことは、すでに、2節に、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されていますように、そこに「神の霊」のご臨在があったことと、神さまが「創造のみことば」によってこの世界とその中のすべてのものを造り出されたことに暗示されています。(とはいえ、神さまは、ここで三位一体の教理を示そうとしておられるわけではありません。)
 このこととの関連で、さらに考えたいことがあります。
 神さまが人を創造するに当たって、

さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。

と言われたことからは、神さまが相談をしておられるような印象を受けます。しかし、やはり、聖書全体の教えに照らして見ますと、その存在と属性のひとつひとつにおいて無限、永遠、不変の神さまは、永遠から何をどのようにお造りになるかを定めておられます。
 私たちは、これを「永遠の聖定」と呼んでいます。永遠の聖定は創造の御業にかかわるだけでなく、神さまがお造りになった世界をどのように導かれるかも含めて、およそこの世界に存在するものすべてのあり方や、起こり来るすべてのことについて明確に定めておられるものです。あらゆる点において限界のある私たちとしては、これを私たち人間の計画になぞらえて理解するほかはありません。しかし、私たちは、自分たちには限界があって、無限の広がりと無限の深さのある神さまの永遠の聖定と、この時間的で有限な世界に起こり来ることの関係がどのようになっているかを完全に理解することができないことをしっかりと心に留めておく必要があります。そのような私たちの限界をわきまえておきませんと、私たちは神さまの永遠の聖定を「運命」のように考えてしまうことになります。
 いずれにしましても、神さまが永遠からすべてのことを定めておられることからしますと、神さまは創造の御業を遂行してこられて、いよいよ人を創造する段になって初めて、どのように人をお造りになるかをお考えになって、お互いに相談されたということはありません。そうではあっても、ここに神さまの人格的な語り合いがあることは、はっきりしています。このことには深い意味があると考えられますが、今お話ししていることとの関連で考えられることをお話ししたいと思います。
 私たちの場合でも、何かを造るときに、すでにすべてのことを計画し、準備してしまったとしても、いざそれを造り始めるときには、計画を立てたときの期待と喜びとは違う、新たな期待と喜びがあります。神さまのことをあまり人間になぞらえすぎてはいけないのですが、この創造の御業の記事は、神さまがご自身の御業を私たちに分かるように、私たちに合わせて示してくださっていますので、私たちになぞらえて理解することは、みこころにかなっていると考えられます。それで、神さまは創造の御業を遂行しておられる中で、人をお造りになる段になって初めて相談をされたわけではないけれども、ここで、改めてすでに定められたみこころにしたがって、人をお造りになるに当たって、

さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。

と言われたのだと考えられます。つまり、もう永遠の聖定において決まっていることだからということで、何の感動も喜びもなく、機械的に創造の御業を遂行されたということではないのです。そのことは、創造の御業の区切りごとに、

 神は見て、それをよしとされた。

と言われていることに表れています。神さまには失敗はありませんから、お造りになったものがうまくできたかどうか調べる必要はありません。それで、これは、神さまのうちに喜びがあったことを意味していると考えられます。そして、人をご自身のかたちにお造りになるに当たって、ご自身の内なる人格の間に語り合いによる交わりがあったのです。そのことに、神さまがどんなにか人をご自身のかたちにお造りになることに心を注いでおられたかが如実に現れています。神さまは大きな喜びと期待をもって、人をご自身のかたちにお造りになったのです。
 今お話ししていることとのかかわりでは、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」というように、類義語が重ねられている中で「われわれ」がくりかえされていることが注目に値します。今お話ししましたように、この「われわれ」は神さまの内なる人格の間の語り合いによる交わりを示しています。そのことがわざわざ啓示されていることを考えますと、人が「われわれのかたちとして、われわれに似せて」造られたということは、その神さま内なる人格の間にあった交わりに、そのかたちに造られた人が何らかの形であずかるようになることが感じ取れます。実際に、先週触れました創世記2章7節に、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と記されていますように、神のかたちに造られた人が最初に向き合ったのは神である主ご自身でした。

 このことは、創造の御業の記事の別のことからも汲み取れます。神さまが人をお造りになる前にお造りになった植物と生き物はすべて、「その種類にしたがって」造られたと言われています。たとえば、植物の創造を記している11節、12節には、

神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。また、最初に生き物が造られたことを記している20節、21節には、

ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。さらに、より大きな動物の創造を記している24節、25節にも同じように動物たちが、「その種類にしたがって」造られたと言われています。
 このように、すべての植物と生き物が「その種類にしたがって」造られたと言われています。このことは、神さまがお造りになった植物と生き物には実にさまざまなものがあるけれども、その一つ一つが、それぞれに固有な特質をもっているものとして造られていることを示しています。それらが、その固有の特質を受け継ぎつつふえ広がっていくときにも、途中で混ざり合って、わけが分からないものになってしまうようなことがなく保たれてきました。
 同時に、「その種類にしたがって」造られた植物や動物たちは、神さまがお造りになったこの世界にあるものとしてお互いに深くかかわり合っていますが、それ自体としては、それぞれに完結性があります。それが他のものと交流ができないから、その固有の特質が失われてしまうというようなことはありません。
 これに対しまして、神さまがお造りになった人の場合には、改めて引用しますと、26節、27節に、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(第3版)

と記されています。
 ここでは、人が「その種類にしたがって」造られたとは言われていません。その代わりに、神のかたちに造られたと言われています。もし人が「その種類にしたがって」造られていたとしたら、人は自分たちの間のかかわりだけで完結する存在であったことでしょう。人の本質は、自分たちの間の交わりに生きることにあったことでしょう。しかし、神さまのみことばは、人は「その種類にしたがって」ではなく、神のかたちに造られたと述べています。つまり、人の本質は自分たちのかかわりだけで生きることにではなく、それとともに、また、それ以上に、造り主である神さまとの交わりにおいて生きることにあるということです。このことは、神のかたちに造られた人のいのちが造り主である神さまとの愛の交わりのうちにあるという、聖書のみことばの教えにも反映しています。

 これらのことから、私たちが造り主である神さまを神として礼拝し、造り主としての栄光を帰するとともに、神さまを愛し、信頼して御前を歩むことは、神のかたちに造られた人の本質に属することであることが分かります。私たちは自らの罪によって、この造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりを失ってしまいました。そればかりか、自らの罪の自己中心性によって、しばしば兄弟姉妹たちの神のかたちとしての栄光と尊厳性を損なってしまっていましたし、それによって、むしろ自らの神のかたちとしての栄光と尊厳性を損なってしまっていました。そのために、まさに、「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に値するものになってしまっていました。
 イエス・キリストはそのような私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。これによって、私たちを「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰から救い出してくださっただけではなく、神のかたちの本来の姿に回復してくださり、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。

 このように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに回復していただいている私たちの問題を取り上げているヤコブの手紙3章9節、10節には、

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

と記されています。
 これは、これまでお話ししてきました、マタイの福音書5章21節、22節に記されているイエス・キリストの教えと同じことを別の面から取り上げたものです。また、このヤコブの教えは、マタイの福音書5章で、先ほどのイエス・キリストの教えに続いて23節ー25節に記されています、

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。

というイエス・キリストの教えにもつながっていきます。

 


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