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説教日:2010年8月15日 |
神さまがお造りになったこの宇宙全体が、何らかの形で、造り主である神さまの知恵や御力を初めとする、聖なる属性を映し出しています。詩篇19篇1節には、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されていますし、ローマ人への手紙1章20節には、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる と記されています。 人間が造った芸術作品であっても、何らかの形でその作品に製作者の才能や人となりが映し出されています。この宇宙の壮大さや、その全体が創造の御業以来、今日に至るまでみごとな調和のうちに存在してきていること、さらには、私たちがまったく無視してしまうような小さな微生物のいのちの成り立ちの複雑さなどが、そのすべてを造り出された神さまの無限の知恵と御力と、一つ一つを保ち続け、いのちを育み続けてこられた真実さやいつくしみなどを映し出しています。 しかし、この物質的な特性をもった世界にあって、ただ神さまの真実な御手に支えられ、いつくしみを受けるだけでなく、自らが真実さといつくしみと愛をもっていて、それを表現する存在は神のかたちに造られた人だけです。神のかたちに造られた人は、愛を本質的な特性とする人格的な神さまを自らの存在と生き方をとおして映し出すものとして造られています。その意味で、神のかたちに造られた人の栄光と尊厳性は、より密接に造り主である神さまの栄光にかかわっています。 今取り上げているイエス・キリストの教えは十戒の第六戒に関する教えですが、同じ十戒の第二戒は、出エジプト記20章4節に記されています、 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。 という戒めです。今お話ししていることとのかかわりで、この戒めについて考えてみましょう。 これは第二戒ですので、第一戒の、 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 という戒めを踏まえています。第一戒では、天と地とその中のすべてのものをお造りになった神にして、ご自身の民のために贖いの御業を遂行される契約の神である主、ヤハウェの他に神はないということが示されています。そして第二戒は、この神さまを表示するために偶像を作ってはならないということを戒めています。 この第二戒は、目に見えない神さまを見える形で表現してはいけない、ということであると考えられるかもしれません。時に、そのような理解を聞くことがあります。 確かに、神さまは人の目には見えない方です。何かが人の目に見えるということは、光を反射して、目の網膜に像を刻むということです。そのように光を反射するものは物質的なものです。物質の特徴は質量と延長、平たく言えば、重さと大きさがあるということです。そして、重さと大きさがあるものには限界がありますし、物質的なものは時間とともに経過していきます。しかし、この物質的な世界をお造りになった神さまご自身は、物質的な方ではありません。それで、人間の目には見えません。神さまは目に見えないだけでなく、物質的なものの特徴である限界がありませんし、時間とともに経過していくということもありません。神さまは無限であり、永遠であり、不変であられます。神さまは、このような意味で、目に見えない方です。それは、空気が目に見えないということとはまったく違います。 このようなことを踏まえましても、目に見えない神さまを見える形で表現してはいけないということが第二戒の主旨であるということには問題があると思われます。というのは、先ほどお話ししましたように、神さまご自身が創造の御業において造り出されたこの見える世界をとおして、ご自身の知恵や力やいつくしみや真実さなどの聖なる属性を表現しておられるからです。何よりも人を神のかたちにお造りになり、人をとおして、ご自身がどのようなお方であるかを表現しようとしておられます。 先ほど引用しましたローマ人への手紙1章20節には、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる と記されていました。 ここで「世界の創造された時からこのかた」と言われているときの「世界」(コスモス)は「宇宙」のことです。ここに記されていることは、天地創造の御業のことですので、創世記1章1節に、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されているときの「天と地」が、今日のことばで言う「宇宙」に当たることと対応しています。この「天と地」はヘブル語の慣用句で「およそこの世界に存在するすべてのもの」を表しています。これには、神さまがお造りになったそれぞれのものの間にある秩序と調和も含まれています。ですから、「天と地」は、神さまが秩序と調和のあるものとしてお造りになったこの世界のすべてのものを表しています。 もちろん、その当時の人々には、今日、私たちが知っているような宇宙論は知られていませんでした。そうではあっても、神さまの啓示の書である聖書のみことばの示すところは、「およそ存在するすべてのもの」は、それぞれのものの間にある秩序も調和も含めて、神さまが創造の御業によって造り出されたということです。そして、今日では、それがどのようなものであるかが、より詳しく分かるようになったのです。 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる と言われているのは、この宇宙のすべてが神さまの「永遠の力と神性」を現しているということです。 ローマ人への手紙1章では、このことに先立って19節に、 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。 と記されています。 ここに出てくる「彼ら」とは、その前の18節で「不義をもって真理をはばんでいる人々」と言われている中に出てくる「人々」のことです。これは、ある特定の、限られた人々のことではなく、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人類のことを指しています。 また、 それは神が明らかにされたのです。 と訳されている部分は、文字通りに訳しますと、 それは神が彼らに明らかにされたのです。 となります。 ですから、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる のは、神さまがそれを人類に「明らかにされた」からです。 ここで、 それは神が彼らに明らかにされたのです。 と言われている中に「彼らに」ということばがあることは注意深く受け止めなければなりません。新改訳がこのことばを省略したのは、その前の部分で、 神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。 と言われている中に「彼らに」があるために、繰り返しを避けたからでしょう。ギリシャ語では、微妙な違い[「彼らにとって(エン・アウトイス)明らかである」と「彼らに(アウトイス)明らかにされた]がありますが、どちらにも「彼らに」に当たることばがあります。 このことは、神さまが「世界の創造された時からこのかた、被造物によって」ご自身の「永遠の力と神性」を明らかにしておられるのは、神のかたちに造られた人に対してのことであるということを意味しています。 神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる と言われているときに、神さまの「永遠の力と神性」を知り、はっきりと認めるのは神のかたちに造られた人であるということです。 神のかたちに造られた人が神さまの「永遠の力と神性」を知り、はっきりと認めるためには、ただ、この世界に神さまの「永遠の力と神性」が現されているだけでは十分ではありません。人自身の中に、それを受け止める能力がなければなりません。言うまでもなく、神さまは神のかたちに造られた人に、そのような能力を与えてくださっています。 創世記2章7節には、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と記されています。ここでは、契約の神である主、ヤハウェが人を神のかたちにお造りになったときのことが、いわば擬人化された表現で記されています。 余談になりますが、ある人々は(その中には名高い学者たちもいます)、これはいまだ神の超越性が自覚されていない段階の神概念の現れであると主張しています。そして、1章1節ー2章3節に記されている創造の御業を遂行された神さまは超越的な神なので、神概念が発達した時代を反映しているというような主張がされています。しかし、それはこの記事の主旨を誤解しているためのことです。この記事によって示されているのは、1章1節ー2章3節に記されている創造の御業を遂行された神、すなわち、無限、永遠、不変の栄光の主が、人を神のかたちにお造りになるに当たって、人と親しくかかわってくださるために、限りなく身を低くされたということです。1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事と、2章4節ー25節に記されている、神のかたちに造られた人に焦点を当てた、いわば主題的に取り扱われている創造の御業の記事を切り離してしまいますと、このような神さまの無限のへりくだりを汲み取ることはできません。 話を戻しますが、神である主が、このように無限に身を低くして、人をお造りくださったので、人は造られたそのときから神である主と向き合い、神である主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになりました。神のかたちに造られた人は初めから神さまを知っており、だれから教えられなくても、神である主との愛にあるいのちの交わりに生きることができたのです。 このことは、神さまが神のかたちに造られた人を初めからご自身を知っているものとしてお造りになったということを意味しています。当然のことですが、そのようにして神のかたちに造られた人は、神さまがご自身がお造りになったこの世界をとおして現してくださっている、ご自身の「永遠の力と神性」を受け止めることができました。神のかたちに造られた人は、それによって、神さまがどのようなお方であるかを、より広く、また、より豊かに知ることができたのです。 神のかたちに造られた人のうちに初めから植え付けられている神さまに対する基本的なわきまえは、人が神さまを知るための基盤です。しかし、それは神さまのすべてを示しているわけではありません。人は神さまとの交わりをとおして、また、さまざまな神さまの御業に触れることをとおして、神さまのことをより深く、豊かに知るようになるのです。 これらのことを踏まえたうえで、ローマ人への手紙1章18節ー20節を全体として見てみましょう。そこには、 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 と記されています。これが、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる と言われていることの文脈です。 お気づきのように、これは、造り主である神さまの聖なる御怒りの啓示とのかかわりで言われています。しかし、神さまが、ご自身がお造りになったこの世界をとおして、ご自身の「永遠の力と神性」を明らかに示してくださっているのは、本来は、ご自身の聖なる御怒りをお示しになるためではありませんでした。やはり、先ほど引用しました詩篇19篇1節に、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されていましたように、ご自身の栄光を神のかたちに造られた人に啓示してくださるためでした。 主の創造の御業を告白している詩篇104篇の一部である10節ー14節には、 主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、 野のすべての獣に飲ませられます。 野ろばも渇きをいやします。 そのかたわらには空の鳥が住み、 枝の間でさえずっています。 主はその高殿から山々に水を注ぎ、 地はあなたのみわざの実によって 満ち足りています。 主は家畜のために草を、 また、人に役立つ植物を生えさせられます。 人が地から食物を得るために。 と記されています。 ここには、いのちあるもののいのちを育んでおられる神である主の愛といつくしみに満ちた御業が告白されています。神さまの愛といつくしみに満ちたご栄光は天にも地にも満ちあふれています。それは、神さまが、ご自身が造られた世界をとおして、ご自身を、神のかたちに造られた人に示しておられるということでもあります。それによって、神のかたちに造られた人は造り主である神さまの愛といつくしみに満ちた栄光に触れて、造り主である神さまを神として礼拝し、讚えることができるのです。これが、神さまが、ご自身がお造りになったこの世界をとおして、ご自身の「永遠の力と神性」を明らかに示してくださっていることの本来の目的です。 けれども、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、造り主である神さまを神として認めることはありません。それは、人に対する神さまの啓示がないからではありませんし、人にそれを受け止める能力がないからではありません。どちらも、造り主である神さまが神のかたちに造られた人のために備えてくださっているのに、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、造り主である神さまを神として認めませんし、礼拝することもありません。そのような状態にある人のことが、ローマ人への手紙1章18節で「不義をもって真理をはばんでいる人々」と言われています。 しかし、先ほどお話ししましたように、人は神のかたちに造られており、造り主である神さまを知っているもの、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして造られています。それで、神のかたちに造られた人は、その神のかたちであることの最も奥深いところにある、造り主である神さまに向かわないではいられない本性的な要求を満たすために、神ならぬものを神として祭り上げて、これを神として礼拝するようになってしまっています。そのことが、ローマ人への手紙1章では、先週も取り上げましたが、続く21節ー23節に、 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と記されています。これが、神さまのみことばが示している偶像が生み出されることの根本的な事情です。 すでにお話ししましたように、神さまの知恵と力、愛といつくしみなどの聖なる属性、すなわち、「神の永遠の力と神性」は、神さまがお造りになったすべてのものをとおして示されています。ですから、それは「鳥、獣、はうもの」をとおしても示されています。そして、造られたものの中で最も豊かに愛を本質的な特性とする神さまを映し出すのは神のかたちに造られた人です。このように、これらのものは、何らかの形で、造り主である神さまの「永遠の力と神性」を映し出しています。それで、これらのものはすばらしくよく造られています。人が驚くような能力をもったものもたくさんいます。本来は、これらのもののすばらしさは、それを汲み取る人を造り主である神さまを礼拝するようにと導くものです。しかし、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、そのように、何らかの形で、造り主である神さまの「永遠の力と神性」を映し出している人間を初め、「鳥、獣、はうもの」などを、そのすばらしさのゆえに「神」であるかのごとくに感じているのです。ここに、罪がもたらしている深刻な錯覚があります。 そればかりではありません。23節では、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と言われています。ここで「滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物」と言われているときの「かたちに似た物」という言い方は、ほぼ同義語である「かたち」ということば(エイコーン)と「似た物」ということば(ホモイオーマ)を連ねたものです。これによって、それが本物からかけ離れたもの、その実体のないものであることが示されています。これはとても大切なことです。 神さまによって神のかたちに造られた人は、神のかたちの栄光と尊厳性を備えたすばらしい存在です。愛を本質的な特性とする生きた人格的な存在です。また、神さまがお造りになった「鳥、獣、はうもの」も、造り主である神さまの知恵と力を映し出すすばらしい作品です。それらは生きていて、さまざまなことをします。これに対して、人間が偶像として作り出したのは、生きている人や「鳥、獣、はうもの」ではなく、人や「鳥、獣、はうもののかたちに似た物」です。人や「鳥、獣、はうもの」に似せられているけれども、その実体はないもの、自ら動くこともないし、何もできないものです。 そのようなものを「神」として拝み、それに仕えること自体が愚かなことです。しかも、そのようなことをしているのが、神さまによって神のかたちに造られた人であるのです。神さまによって、愛を本質的な特性とする神さまのかたちに造られ、神のかたちとしての栄光と尊厳性を与えられて、実際に生きている人間が、人や「鳥、獣、はうもの」に似せられているけれども、その実体はないもの、自ら動くこともなければ何もできないものを「神」として拝んでいるのです。これは、造り主である神さまの栄光を汚すうえに、自らの神のかたちとしての栄光と尊厳性を傷つけることです。 十戒の第二戒の、 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。 という戒めは、このような人間の現実を踏まえて与えられています。造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間が自分の発想で考え出すものは、たとえ造り主である神さまのことを考えたとしても、その実体はないもの、自ら動くこともなければ何もできないものです。 私たちはひたすら、神さまがご自身を啓示してくださっていることにしたがって、神さまを知り、理解しなければなりません。その土台となるのが、神さまの啓示のみことばとしての聖書です。そのみことばの土台に立たないで神さまを考えますと、たとえ目に見える偶像を作らないとしても、心の中で実体のない「神」のイメージ、すなわち一種の偶像を作り上げてしまいます。十戒の第二戒は、このような私たちの現実を踏まえて、私たちが自分の発想にしたがって契約の神である主のイメージを作り上げてはならないことを示しています。 |
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