(第246回)


説教日:2010年8月8日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 マタイの福音書6章14節、15節には、9節ー13節に記されています主の祈りに続いて、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この教えが主の祈りのすぐ後に記されていることには意味があると思われます。このことを考えるために、この教えと同じようなイエス・キリストの教えについてお話ししてきました。今取り上げようとしているのは、マタイの福音書5章23節ー25節に記されています、

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。

という教えです。
 この教えは、その前の21節、22節に記されています、

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

という教えを受けていますので、まず、この教えについてお話ししています。
 ここでイエス・キリストが取り上げておられる、

 人を殺してはならない。

という戒めは、十戒の第6戒です。そして、

 人を殺す者はさばきを受けなければならない。

という戒めは、主の戒めが当然のこととして踏まえていることを改めて示していると考えられます。
 ここで、イエス・キリストは十戒の第6戒である、

 人を殺してはならない。

という戒めの意味を明らかにしておられます。そして、それを二つの面から示しておられます。そのことは、イエス・キリストが取り上げておられる、

 だれでも人を殺す者はさばきを受けなければならない。

という、主の戒めが踏まえていることと、それに対するイエス・キリストの、

兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

という教えのつながりに明確に示されています。
 第一に、この二つのみことばに出てくる「さばきを受けなければならない(なりません)」ということばはまったく同じです。それで、イエス・キリストは「兄弟に向かって腹を立てる者」は、「人を殺す者」の中に含まれていることを示しておられることが分かります。私たちが兄弟に向かって怒りを燃やしているときに、すでに、私たちは兄弟を殺しているということです。
 第二に、人が人に対して怒りを燃やしたということだけでさばきを執行する法廷は、この世にはありません。それで、イエス・キリストが、

兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

と言われるときの「さばき」は最終的なさばき主である神さまがおさばきになることを意味しています。そのことは、これに続いて、イエス・キリストが、

兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

と教えておられることによって、よりはっきりとしてきます。「燃えるゲヘナ」とは神さまの最終的なさばきによる刑罰が執行される所のことです。


 ここで、イエス・キリストは、兄弟姉妹に向かって「能なし」とか「ばか者」と言う人が「最高議会に引き渡され」、ついには「燃えるゲヘナに投げ込まれ」ると教えておられます。先週お話ししましたように、私たちはともすれば、まさか、そんなことがあるわけがないというような思いで、この教えを聞き過ごしてしまいます。しかし、イエス・キリストは、まさに、そのような思いをもっていた、弟子たちにこの教えを教えておられるのです。ですから、このイエス・キリストの教えは、決して、さばきを大げさに言っておられるのではありません。これは文字通りに受け取らなければならない教えです。
 このことは、神さまが人を神のかたちにお造りになったということを踏まえて初めて、その意味を理解することができます。先週詳しくお話ししました創世記9章5節、6節には、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

という神さまのみことばが記されています。
 神さまが人をご自身のかたちにお造りになったということに、人の栄光と尊厳性の本質があります。神のかたちに造られた人は、この被造物世界の中で、神さまがどのようなお方であるかを、その存在と生き方をとおして映し出すものです。特に、神さまが愛を本質的な特性とする人格的な方であられることを映し出すものです。
 そのことは、人が造り主である神さまを神として礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰することを中心としてなされます。この物質的な特性をもった世界には数えきることができない存在があります。その中には、いのちのある生き物たちも数えきることができないほどいます。その中で、ひとり神のかたちに造られている人間だけが造り主である神さまを知っており、造り主である神さまを神として礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰することができる存在です。これが神のかたちの栄光と尊厳性の本質です。
 このように、神のかたちの栄光と尊厳性は、造り主である神さまの栄光と深くかかわっています。それで、神のかたちの栄光と尊厳性は、神さまご自身が守られるのです。また、それで、神さまは、神のかたちの栄光と尊厳性を冒す者を厳しくおさばきになるのです。それが、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

という神さまのみことばに表されています。これと同じように、イエス・キリストは、

兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

という教えをもって、神のかたちの栄光と尊厳性を損なう者に対する神さまの厳しいさばきを明らかにし、宣言しておられます。
 私たちは何としばしば、心の中で人を見下し、さげすんでしまっていることでしょうか。自分より優れていると思える人ばかりいるところでは落ち着かないけれど、自分より劣ると見える人々がいると、何となく安心するようなことさえあります。それがあまりにも日常のことであるので、

兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

というイエス・キリストの教えを耳にしても、それを文字通りに受け取ろうとはしないほどになってしまっています。何となく、イエス・キリストは本気でそのようにおっしゃってはいないと思ってしまいます。しかし、繰り返しになりますが、このイエス・キリスト教えは文字通りに受け止めるべき教えです。

 このこととの関連で、いくつかのことをお話ししたいと思います。
 まずお話ししたいことは、イエス・キリストの教えを文字通りに理解するなら、すべての人が「燃えるゲヘナに投げ込まれ」るほかはないということになってしまいます。それで、イエス・キリストは本当にこのようなことを教えておられるのだろうかという疑問がわいてくるのです。しかし、これに対しましては、まさにその通りであると言うほかはありません。まさに、私たちすべては「燃えるゲヘナに投げ込まれ」るほかはないものです。
 それに対して、私たち人間は、兄弟姉妹に対して怒ったり、心ひそかに人を見下したり、さげすんだりすることは、だれもがしていることであり、たいしたことではないというように考えて解決を図っています。しかし、イエス・キリストはそのような解決を示してはおられません。イエス・キリストは、幾重にも「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に値する私たちの、その刑罰を、十字架の上でお受けになって、私たちの罪を贖ってくださいました。
 ですから、イエス・キリストは、決して、

兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

という教えを否定したり、取り消したりしてはおられません。むしろ、イエス・キリストの十字架の死は、兄弟に対して怒ったり、心ひそかに人を見下したり、さげすんだりすることが「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に値するものであることをあかしするものであるのです。
 私たちはこの点で勘違いをしないように気をつけたいと思います。確かに、私たちは終わりの日に、兄弟姉妹に対して怒りを燃やしたことや、心ひそかに兄弟姉妹を見下したり、さげすんだりしたことに対して、「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰を受けることはありません。それは、そのことが「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に値しないからではありません。永遠の神の御子イエス・キリストが、その無限の死の苦しみをもって、私たちの罪を贖ってくださったからです。
 私たちはもう一つのことにも気をつけたいと思います。確かに、私たちは、もはや、兄弟姉妹に対して怒りを燃やしたことや、心ひそかに兄弟姉妹を見下したり、さげすんだことに対して、「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰を受けることはありません。しかし、それで、このイエス・キリストの教えをないがしろにしてしまってはなりません。イエス・キリストは、私たちが、兄弟姉妹に対して怒りを燃やしたり、心ひそかに兄弟姉妹を見下したり、さげすんだりするような者であってはならない、ということを教えておられます。このことは、私たちがしっかりと心に留めておかなければなりません。
 また、私たちがどのようにして、このイエス・キリストの戒めのうちを歩むことができるようになるのかということにつきましては、後ほどお話しします。

 次にお話ししたいことは、私たちが兄弟姉妹の神のかたちとしての栄光と尊厳性を冒すことは、また、私たちが自らの神のかたちとしての栄光と尊厳性を冒してしまうことでもあるということです。
 先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られた人の栄光と尊厳性の本質は、人がこの被造物世界の中で、神さまがどのようなお方であるかを、存在と生活をとおして映し出すものであることにあります。それは、特に、神さまが愛を本質的な特性とする人格的な方であられることを映し出すことにあります。そして、そのことは、人が造り主である神さまを神として礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰することを中心としてなされます。
 ところが、実際には、神のかたちに造られた人は、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、造り主である神さまを神とすることはなくなってしまいました。そうではあっても、人が神のかたちに造られており、その心が神さまに向かうもの、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして造られていることには変わりがありません。人はそのようなものとして造られているので、自らの存在の奥底から神さまを求める根本的な要求をもっています。それで、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも、「神」を求めないではいられません。それで、堕落後の人は、およそ神ならぬものを「神」として、その存在の奥底からの要求を満たそうとしてしまいます。その様子が、ローマ人への手紙1章21節ー23節に、

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されています。
 この世界とその中のすべてのものをお造りになって、天地創造の御業以来、そのすべてを真実な御手によって支えておられる神さまを、神として礼拝することを中心として、神さまを愛し、あがめることに、神のかたちとしての栄光と尊厳性の本質があるとしますと、造り主である神さまを神としないことは、神のかたちの栄光と尊厳性を冒すことの中心にあることです。このことは、神のかたちに造られている人が、自らの神のかたちとしての栄光と尊厳性を、根本的に損なうことです。そして、造り主である神さまを神としないことは、人の罪の「根」であり、すべての罪はこれから出てきて、これにかかわっています。
 このようにして、神のかたちに造られている人が自らの神のかたちとしての栄光と尊厳性を冒してしまうことも、イエス・キリストの教えに沿って言いますと、「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に相当することです。イエス・キリストはそのような恐るべき刑罰に相当する罪を犯していた私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。
 これには、派生的にもう一つの面があります。造り主である神さまを神として礼拝し、その栄光を神さまに帰することは、神のかたちの栄光と尊厳性の中心にあります。同時に、神のかたちに造られた人が愛を本質的な特性とする神さまを映し出すことは、神さまが愛してくださっている、神のかたちに造られた人を愛することにも現れてきます。このように、神さまの愛に満ちた栄光を映し出すようにと、神のかたちに造られた人においては、神さまを愛することと、隣人、特に、信仰の家族の兄弟姉妹を愛することは、切り離すことができません。ヨハネの手紙第一・4章20節、21節に、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

と記されているとおりです。
 そのような私たちが、その兄弟に対して怒りを燃やし、心ひそかに兄弟を見下したり、さげすんでいるとしたら、それは、兄弟の神のかたちとしての栄光と尊厳性を冒すだけではありません。自らの神のかたちとしての栄光と尊厳性を冒しているのです。
 このような意味で、神のかたちに造られている私たちが自らの神のかたちとしての栄光と尊厳性を冒してしまうことも、「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に相当することです。やはり、イエス・キリストはそのような私たちのためにも十字架にかかって死んでくださいました。

 最後にもう一つのことをお話ししたいと思います。
 繰り返しになりますが、神さまは愛を本質的な特性とするご自身の栄光を映し出すものとして、人を神のかたちにお造りになりました。それで、神のかたちに造られた人の栄光と尊厳性は、造り主である神さまを神として礼拝することを中心として、神さまを愛し、その栄光を現すことにありますし、隣人を愛することにあります。しかし、実際には、神のかたちに造られた人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。その結果、造り主である神さまを神として礼拝することはなくなってしまいました。また、罪の自己中心性にかられて、隣人に対する怒りを燃やしたり、心ひそかに隣人を見下したり、さげすんだりするようになってしまいました。それによって、その隣人の神のかたちとしての栄光と尊厳性を冒してしまうとともに、自らの神のかたちとしての栄光と尊厳性を冒してしまっています。それは、すべて、「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に相当することです。
 それに対して、永遠の神の御子イエス・キリストは十字架の上で、私たちに代わって「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に相当する刑罰を受けてくださいました。そのようにして、無限の値をもったご自身のいのちの値を、私たちのために支払ってくださいました。
 しかし、それが御子イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださったことのすべてではありません。イエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされました。その父なる神さまのみこころは、御子イエス・キリストが私たちに代わって「燃えるゲヘナに投げ込まれ」る刑罰に相当する刑罰をお受けになり、私たちの罪を完全に贖ってくださることでした。イエス・キリストはその父なる神さまのみこころに十字架の死に至るまで従われました。そして、その完全な従順に対する報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえってくださいました。それも、私たちに対する父なる神さまのみこころを実現してくださるためでした。
 父なる神さまは、ただ、御子イエス・キリストによって私たちを罪の刑罰から救い出してくださっただけではありません。私たちをイエス・キリストの復活のいのちにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。
 このことを、これまでお話ししてきましたこととのかかわりで見ますとどうなるでしょうか。父なる神さまは、御子イエス・キリストによって、私たちのうちに愛を本質的な特性とする神のかたちとしての栄光と尊厳性を回復してくださるために、このすべてを成し遂げてくださったのです。エペソ人への手紙4章22節ー24節には、

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

と記されています。
 ここで言われている「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てる」ということは、私たちがイエス・キリストの十字架の死にあずかって、イエス・キリストとともに死んだことが私たちの現実となるためのことです。また、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ということは、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことにあずかって、新しく生まれたことが私たちの現実になるためのことです。
 そのように私たちを造り変えてくださるのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。御霊が私たちの意志を生かしてくださって、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てる」ように導いてくださり、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ように導いてくださるのです。
 イエス・キリストは、

兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

という、まことに厳しい私たちの罪の現実を明らかにされました。そして、それは神のかたちとしての栄光と尊厳性をご自身の栄光にかかわることとしてお守りになる神さまの厳しい姿勢を反映していました。
 しかし、そのように教えられたイエス・キリストは、ご自身が十字架の上で、その「燃えるゲヘナに投げ込まれ」るという厳しいさばきを私たちに代わって受けてくださいました。そればかりでなく、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、私たちのうちに神のかたちの栄光と尊厳性を回復してくださっているのです。それも、やはり、神のかたちとしての栄光と尊厳性をご自身の栄光にかかわることとしてお守りになる神さまの熱心の現れです。神さまは神のかたちとしての栄光と尊厳性をご自身の栄光にかかわることとしてお守りになるので、それを損なう者を厳しくおさばきになりますが、さらにそれを越えて、私たちが損なってしまった神のかたちの栄光を尊厳性を、ご自身の御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業によって回復してくださったのです。このようにして、神さまは神のかたちの栄光を尊厳性を大切にされ、守っておられます。
 神さまは私たちの罪に対する聖なる御怒りを私たちに向けることなく(それは十字架につけられた御子イエス・キリストに向けられました)、むしろ、私たちに対する一方的な愛と恵みによって、このすべてを成し遂げてくださいました。
 このように、神さまは、御子イエス・キリストにある一方的な愛と恵みによって、私たちのうちに神のかたちの栄光と尊厳性を回復してくださいました。それは、神さまが私たちのうちに、神さまと兄弟姉妹への愛を回復してくださっているということでもあります。私たちを兄弟姉妹に対して怒りを燃やし、心ひそかに兄弟姉妹を見下したり、さげすんだりすることのない者に造り変えてくださっているということでもあります。そして、私たちは私たちの存在と生き方をもって、愛を本質的な特性とする神さまの栄光を映し出すようにと召されています。
 そのように神さまの愛と恵みにあずかっている私たちが、兄弟姉妹に対して怒りを燃やし、心ひそかに兄弟姉妹を見下したり、さげすんだりするとしたら、どうなるのでしょうか。それでは、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして私たちに示してくださっている愛と恵みを踏みにじることになってしまいます。

 


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