(第245回)


説教日:2010年8月1日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 今日も、マタイの福音書6章14節、15節に記されています、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。これは、その前の9節ー13節に記されています主の祈りに続いて記されている教えです。
 このイエス・キリストの教えについて、先々週から、なぜ、主の祈りのすぐ後に、このの教えが記されているのか、という問題についてのお話を始めました。そして、この問題を考えるために、ここに記されている教えと同じようなイエス・キリストの教えが他にもいくつかありますので、そのような教えについてお話しすることにしました。
 最初に取り上げたのは、マルコの福音書11章25節に記されているイエス・キリストの教えでした。それに続いて、先週から、マタイの福音書5章23節ー25節に記されています、

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。

というイエス・キリストの教えを取り上げることにしました。
 この教えを理解するためには、その前の21節、22節に記されています教えとのつながりを見なければなりません。それで先週は、21節、22節に記されています、

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

というイエス・キリストの教えについてお話ししました。
 今日は先週お話ししたことを復習しながら、もう少し補足したいと思います。
 イエス・キリストは、

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

と言われました。ここでイエス・キリストが引用しておられる、

 人を殺してはならない。

という戒めは、十戒の第6戒です。十戒の第6戒を記している出エジプト記20章13節と申命記5章17節には、

 殺してはならない。

と記されています。こちらには「人を」ということばがありませんので、何となく二つの戒めは微妙に違うような気がします。しかし、イエス・キリストが引用しておられる、

 人を殺してはならない。

という戒めにも、ギリシャ語の原文では「人を」ということばはありません。新改訳が「人を殺す」と訳していることば(フォネウオー)は「殺す」とも訳すことができます。その場合には、この戒めは、

 殺してはならない。

となります。さらに、先週もお話ししましたように、これは、ヘブル語聖書のギリシャ語訳で、しばしば新約聖書に引用されています、七十人訳に出てくる十戒の第6戒と同じです。それで、イエス・キリストは、十戒の第6戒を取り上げておられると考えられます。そして、それに続く、

 人を殺す者はさばきを受けなければならない。

ということは、旧約聖書に記されている主の律法において、当然のこととして踏まえられていることを明確に述べておられると考えられます。
 それで、イエス・キリストは、

人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。

という主の律法そのものは問題にしておられないと考えられます。イエス・キリストが問題にしておられるのは、この主の律法についての、弟子たちの理解の仕方です。弟子たちはいろいろな機会に主の律法についての教えを聞いていましたから、すでに一定の理解を持っていました。それは、弟子たちだけのことではなく、その当時のユダヤの社会の人々の一般的な理解の仕方でした。これに対して、イエス・キリストは、主の律法の本来の意味を明らかにしておられます。それが、

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

という教えに示されています。
 ここで、イエス・キリストが、

 しかし、わたしはあなたがたに言います。

と言われたことは、イエス・キリストが、少なくとも、主から律法を受け取ってイスラエルの民に告げたモーセに匹敵する方であられることを示しています。そして、新約聖書の全体的な教えに照らして見ますと、イエス・キリストがモーセ以上の方、すなわち、律法をお与えになった主ご自身であられるということを暗示していると考えられます。
 モーセは古い契約の仲保者として、王、祭司、預言者のすべての職位を兼ね備えている人物でした。実際、旧約の時代の王たち、祭司たち、預言者たちは、すべて、モーセという土台の上に立って、それぞれの働きをしました。その意味で、モーセは特別な存在です。しかし、イエス・キリストは新しい契約の仲保者として、モーセと比べられる唯一の方でありつつ、モーセ以上の方であられます。そのことは、ヘブル人への手紙3章2節ー6節に、

モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

と記されています。
 そして、イエス・キリストは律法をお与えになった主として、律法の本来の意味を伝えてくださっています。このイエス・キリストの、

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

という教えは律法をお与えになった主としての宣言に当たるものであって、主が与えてくださった律法についての解釈の一つではありません。その点で、ユダヤ教のラビの教えとは区別されます。


 このように、イエス・キリストは、

人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。

という主の戒めの本来の意味を明らかにしてくださっています。そして、

兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

と教えておられます。
 ここで、イエス・キリストは、まず、

兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

と教えておられます。これによって、人を殺すことは、すでに、「兄弟に向かって腹を立てる」ことから始まっているということを示しておられます。
 そればかりではなく、イエス・キリストは、「だれでも、兄弟に向かって腹を立てる者」(直訳)は「さばきを受けなければなりません」と教えておられます。この「さばきを受けなければなりません」ということばは、主の戒めとしてイエス・キリストが引用しておられる、

 人を殺す者はさばきを受けなければならない。

という戒めの「さばきを受けなければならない」とまったく同じことばです。(日本語には、「で済ます」調と「である」調の違いがありますが、ギリシャ語にはその違いはありません。)ですから、イエス・キリストは、「兄弟に向かって腹を立てる者」は「人を殺す者」であるということを示しておられます。つまり、人を殺すことは兄弟に向かって腹を立てることから始まるけれども、兄弟に向かって腹を立てている段階では、まだ、人を殺してはいないというのではないのです。兄弟に向かって怒りを燃やしているときに、すでに、兄弟を殺しているということです。それゆえに、さばきを受けなければならないと言われているのです。
 今日の私たちの社会でもそうですが、その当時のユダヤの社会では、「兄弟に向かって腹を立てる者」が、それだけでさばきを受けることはありませんでした。それは、人間には他の人の心のうちにあることまでは知ることができないからです。それで、イエス・キリストが、

兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

と言われるときの「さばき」は、地上の法廷における人間のさばきではなく、天の法廷における主のさばきを意味していると考えられます。
 ヘブル人への手紙4章13節には、

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

と記されています。

 イエス・キリストは、まず、私たちの心のあり方のことを取り上げておられますが、続いて、

兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

と教えられて、私たちが口にすることを取り上げておられます。
 このこととの関連で注目されるのは、マタイの福音書12章33節ー37節に記されているイエス・キリストの教えです。そこには、

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。

と記されています。
 このイエス・キリストの教えに関してはいろいろな問題がありますが、今お話ししていることと関連することに限ってお話しします。
 ここではまず、

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。

と言われています。これを、私たちが何気なく読みますと、これはその人がどのような人物であるかは、その人の行いによって分かるということを教えているように受け止めてしまいます。しかし、ここでイエス・キリストはそのように教えてはおられません。イエス・キリストは続いて、

まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。

と教えておられます。

 まむしのすえたち。

という呼び方は厳しいものですが、これは、その前の部分でいわゆる「赦されない罪」のことが取り扱われていることを受けているからのことです。今は、この関連の具体的なことに触れることはできません。
 ここで、

 心に満ちていることを口が話すのです。

と言われているときの「満ちていること」と訳されたことば(ペリッセウマ)は「溢れ出たこと」とも訳せます。それは「溢れ出るほど豊かなこと」を表しています。いずれにしましても、

木のよしあしはその実によって知られるからです。

と言われているときの「」とは、その人の行いのことではなく、その人の「ことば」のことです。
 さらにイエス・キリストは、

良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

と教えておられます。お気づきのように、ここでは、「良い」ということばと「悪い」ということばがそれぞれ3回ずつ繰り返されて強調されつつ、両者の間の強い対比が示されています。しかも、その「良い」ということばと「悪い」ということば以外は、まったく同じ言い方で、よりいっそう対比が強められています。ここで「良い人」、「悪い人」、「良い倉」、「悪い倉」は単数で、「良い物」と「悪い物」は複数です。
 また、「」と訳されていることば(セーサウロス)は「」を意味するとともに「大切なもの」、「宝」をも意味します。マタイの福音書6章20節に記されています、

自分の宝は、天にたくわえなさい。

というイエス・キリストの教えに出てくる「」はこのことば(セーサウロス)です。結論的なことしか言えませんが、これを「」と「大切なもの」のどちらの意味に取っても、実質的に、同じことを表しています。マタイの福音書6章21節に、

 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

と記されていて、「大切なもの」、「」と「」がつなげられているからです。
 この、

良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

という教えは、その前で、

 心に満ちていることを口が話すのです。

と教えられていることをたとえの形で述べたものです。
 これに続いて、イエス・キリストは、

わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。

と教えておられます。
 ここで注目されるのは「むだなことば」とは何かということです。この「むだな」と訳されたことば(アルゴス)は、人が仕事をしないでぶらぶらしている状態や怠け者の怠けている状態などを表します。また、価値がないことや役に立たないことなどを表します。この個所に関して、いくつかの翻訳を見てみますと、微妙な意味合いの違いを越えて大ざっぱに分けますと、新改訳のように「むだなことば」(KJV、口語訳「無益な言葉」、新共同訳「つまらない言葉」など)というように訳す場合と、「不注意なことば」(NIV、NASB、RSVなど)というように訳す場合に分けられます。おそらく、この二つの訳の間にはそれほどの違いはないと思われます。というのは、「むだなことば」とは、言わなくてもいいようなことば、あるいは、言わないほうがいいことばで、それをつい言ってしまう、不注意に言ってしまうということだと考えられるからです。
 この「むだなことば」がどのようなことなのかについては、この前後に記されているイエス・キリストの教えとのつながりで理解する必要があります。この前に記されているイエス・キリストの教えは、すでにお話ししたとおりで、それは、

 木のよしあしはその実によって知られる

という教えと、

 心に満ちていることを口が話すのです。

という教えに集約されます。また、この後には、

あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。

という教えが記されています。
 これらの教えでは、その人がどのような人であるかは、その人のいちばん奥深い心のあり方によっているということ、そして、その心のあり方は、その人が話すことばに表れてくるということが示されています。
 問題の「むだなことば」も、このようなイエス・キリストの教えの大きな枠の中で理解しなければなりません。そうしますと、この「むだなことば」の意味することが見えてきます。それは、この「むだなことば」あるいは「不注意に、何気なく発することば」こそは、その人の心のあり方、その人の人となりをよく表現するものであるという意味であると考えられます。
 それでは、このイエス・キリストの教えでは、その人の行いはどうでもいいとされているのでしょうか。もちろん、そのようなことはありません。しかし、その人の行いは、その人のことば以上に取り繕われることが多いものです。イエス・キリストが教えておられることは、神さまは、行いであれ、ことばであれ、その人の外に現れてきたことに決して欺かれることがなく、すべてをその人の内側の心のあり方、その人の本性とのつながりにおいてご覧になっておられ、それにしたがっておさばきになるということです。それで、ここでは行い以上に、その人のうちにあるものを表わす、ことば、特に、その人が何気なく言うことばのことが取り上げられていると考えられます。そして、そのような意味での「むだなことば」の典型的な事例が、兄弟に向かって、「能なし」とか「ばか者」とか言うことです。先週お話ししましたように、「能なし」とか「ばか者」ということばは、それを言っている本人は、ごく軽い気持ちで言っている可能性があります。

 イエス・キリストは、兄弟に向かって、「能なし」とか「ばか者」とか言う者は、「最高議会に引き渡され」たり「燃えるゲヘナに投げ込まれ」たりする、と教えておられます。これは、私たちの目には大げさなことに見えます。確かに、このようなことはどこでも行われていませんし、行われたことはありません。しかし、これを大げさなことと見てしまう私たちの見方は、ここでイエス・キリストが教えておられる弟子たちの見方と同じではないでしょうか。イエス・キリストはそのような見方を問題として、主の律法の本来の意味を明らかにしておられるのではないでしょうか。イエス・キリストは、いっさいのことを完全に見通しておられる神さまの御前においては、だれでも例外なく、兄弟に向かって、「能なし」とか「ばか者」とか言う者は、「最高議会に引き渡され」たり「燃えるゲヘナに投げ込まれ」たりする、と教えておられるのです。神さまは必ずそのことについてさばきを執行されるということです。
 しかし、イエス・キリストはこのように言われて、私たちを不必要に脅しておられるのではありません。イエス・キリストのこの厳しさには理由があります。十戒の第6戒の、

 殺してはならない。

という戒めに先だって、神さまは同じ主旨の戒めを、大洪水によるさばきの執行の後、箱舟から出てきたノアとその息子たちに示してくださっています。創世記9章5節、6節には、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

と記されています。この神さまのみことばにも、いくつか難しい問題がありますが、今お話ししていることとかかわることだけを取り上げさせていただきます。

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

という神さまのみことばは、人のいのちを守っておられるのは神さまご自身であるということを示しています。そのことは、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。

と言うだけで、じゅうぶん示されますが、ここでは、これに、さらに、

わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

ということが付け加えられています。同じ主旨のことが三つ連ねられて強調されるとともに、それには、人であれ獣であれ、一つの例外もないということが示されているのです。このことに関する、神さまの厳しさが見て取れます。
 そして、その根底には、

 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

ということがあることが示されています。神さまはこの造られた世界にあって、ご自身を代表するばかりでなく、ご自身を映し出す存在として、人を神のかたちにお造りになりました。神のかたちに造られた人は、この世界において、愛といつくしみの神さまの栄光を映し出す存在です。ですから、神のかたちの栄光と尊厳性は、神さまの栄光と尊厳性に深くかかわっています。それで、この神のかたちの栄光と尊厳性は、造り主である神さまご自身がお守りになっておられるのです。
 十戒の第6戒の、

 殺してはならない。

という戒めにはこのような背景があります。そして、イエス・キリストが、この十戒の戒めの意味を明らかにして、だれでも、兄弟に向かって、「能なし」とか「ばか者」とか言う者は、「最高議会に引き渡され」たり「燃えるゲヘナに投げ込まれ」たりする、と教えておられるときの厳しさは、神さまが、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

と言われたときの厳しさと呼応しています。どちらも、神さまが神のかたちの栄光と尊厳性を守られることにおける厳しさです。
 それはまた、神さまが私たち一人一人の神のかたちとしての栄光と尊厳性を、断固としてお守りくださっているということを意味しています。
 このようなことを心に留めますと、ことばにおいても、さらには、思いにおいてであっても、兄弟の神のかたちとしての栄光と尊厳性を損なうことは、神さまが厳しくおさばきになることであることが了解されます。

 


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