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説教日:2010年7月25日 |
そうしますと、先ほど触れましたが、イエス・キリストが、 しかし、わたしはあなたがたに言います。 と言われて、ご自身の教えを示しておられることをどのように考えたらいいのでしょうか。 この問題を考えるうえでの鍵は、 昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。 と言われているときの「あなたがたは聞いています」ということです。これは、今日のように印刷技術が発達した時代とは違う、その当時の人々の状況を反映しています。ここでイエス・キリストの教えを聞いている弟子たちもそうですが、その当時の人々は、さまざまな教えを「聞いて、理解した」のです。それで、この場合の「聞いています」ということは、私たちが考える「聞いている」ということよりは意味が豊かであって「聞いて、理解している」ということを意味していると考えられます。 ここでイエス・キリストが、 昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。 と言われるときの「あなたがた」は、弟子たちです。イエス・キリストは、ただ単に、その昔、出エジプトの時代と、カナン進入の直前に、神である主が父祖たちに、 人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。 という戒めを与えてくださったという事実を、弟子たちが聞いて知っていると言っておられるのではありません。弟子たちは、神である主が父祖たちに与えてくださった、 人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。 という戒めについてのさまざまな教えを聞いて理解していると言っておられるのです。そのさまざまな教えの中には、ユダヤ教の会堂における公式な教えもあるでしょうし、両親から受ける教えもあるでしょう。また、社会で一般的に受け止められている理解をさまざまな形で学んだということもあるでしょう。いずれにしましても、それは、その当時のユダヤの社会において一般的に受け止められていた理解の仕方です。 しかし、わたしはあなたがたに言います。 というイエス・キリストのことばは、その理解の仕方に問題があることを示しています。 その意味で、よくユダヤ教のラビの教えの記録の中にイエス・キリストの教えに似た教えがあることが指摘されることがありますし、実際に、そのような教えがありますが、その教えがその当時の人々の一般的な理解であったというのでないかぎり、あまり意味がありません。イエス・キリストは、神である主の戒めについての弟子たちの理解の仕方という、「現実の問題」を取り上げておられるのです。しかも、後で触れますが、それをユダヤ教のラビの仕方とは違う形で教えておられます。 このように、イエス・キリストは、弟子たちが、 人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。 という戒めについて、すでに、さまざまな教えを聞いて理解していることを踏まえて、 しかし、わたしはあなたがたに言います。 と言われて、ご自身の教えを示しておられると考えられます。ですから、イエス・キリストは旧約聖書に記されている、神である主がイスラエルの民に与えられた、十戒を中心とする律法の戒めを否定しておられるのではありません。その戒めについて、すでに、弟子たちがもっている理解の仕方を取り上げて、その戒めの本来の意味を明らかにしておられるのです。 イエス・キリストは、 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 と教えておられます。 すでにお話ししましたように、これは、 人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。 という神である主の戒めについて、弟子たちがもっていた理解の仕方を正しつつ、その本来の意味を明らかにするものです。 この、 しかし、わたしはあなたがたに言います。 ということばの「わたしは」は強調形です。それで、これは、ユダヤ教のラビのように神である主の戒めに新しい解釈を加えるというよりは、神である主の戒めはこのようなものであるということを明確に宣言するものです。その意味で、これは、イエス・キリストが少なくとも、神である主の律法を受け取ったモーセに匹敵すること、さらには、その戒めを与えてくださった神である主と等しい方であることを暗示しています。実際、山上の説教の記事をを締めくくる7章28節、29節には、 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。 と記されています。 これに続いて記されているイエス・キリストの教えの中で、 兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。 と訳されている部分は、直訳調に訳しますと、 すべて兄弟に向かって腹を立てる者は、さばきを受けなければなりません。 となります。また、 兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は と訳されている部分は、 だれでも兄弟に向かって「能なし。」と言う者は と訳したほうがいいものですし、 「ばか者。」と言うような者は と訳されていることばも、 だれでも「ばか者。」と言う者は と訳したほうがいいものです。つまり、ここに出てくる三種類の人々は、最初にあげられている人につけられている「すべて」(パース)ということばによって、また第二と第三の人にかかわる「だれでも」(ホス・アン+接続法)という意味のことばによって、そこに例外がないことが示されています。実は、 人を殺す者はさばきを受けなければならない。 ということばも、 だれでも人を殺す者はさばきを受けなければならない。 という言い方です。 ここに三種類の人々が出てくるのは、三つの別々の人というよりは、同様のことを三つ重ねることによって強調しているものであると考えられます。それも、まったく同じことを言い換えているというのではなく、それぞれが別の角度から照らして、より立体的、総合的なことを示していると考えられます。 その一つ一つを簡単に見てみましょう。 最初に出てくる、 兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。 という教えでは、先ほどお話ししましたように、 さばきを受けなければなりません。 ということばが、その前の、 人を殺す者はさばきを受けなければならない。 という戒め(の要約)の、 さばきを受けなければならない。 ということばとまったく同じです。それで、このイエス・キリストの教えでは、主の戒めの「人を殺す者」が「兄弟に向かって腹を立てる者」として説明されていることが分かります。 ここで「腹を立てる」と訳されていることば(オルギゾマイ)は新約聖書では8回用いられていますが、ルカの福音書15章28節に記されている、「放蕩息子」の兄のように、神さまのみこころに反して「怒る」ことを表すことがあります。ここでもそのことが当てはまります。 ここで、イエス・キリストは「人を殺す」ことはその人に対する「怒り」から始まっていることを明らかにしておられます。そして、神さまはそのように、その人のうちある心の思いを知っておられますし、それを重大なこととして取り扱われることが示されています。サムエル記第一・16章7節には、 人はうわべを見るが、主は心を見る。 と記されています。また、詩篇7篇9節には、 正しい神は、心と思いを調べられます。 と記されています。これは神さまがさばきを執行されることに関連して告白されたみことばです。 イエス・キリストは、 兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。 と教えておられます。しかし、人の心の状態までも知ることができない人間には、その人をさばくことができません。つまり、このさばきを執行される方は、「心と思いを調べられる」神さまご自身に他なりません。 これに続いて、 だれでも兄弟に向かって「能なし。」と言う者は、最高議会に引き渡されます。 と言われています。ここで「能なし」と訳されたことばは新改訳欄外にありますように「ラカ」ということばです。これについては二つの見方がありますが、一般には、アラム語の「空っぽの」ということを表す、「レーカーン」の短縮形の「レーカー」のガリラヤ方言の音訳であると理解されています。いずれの理解であっても、ここで「ラカ」というように音訳されていることは、弟子たちを初めマタイの福音書の読者たちがこのことばになじんでいたことを示しています。そして、古代教会のあかしによると、これは、言っている側からすると軽い気持ちで言っていることばであったようです。 「最高議会」はユダヤの「最高議会」で、「最高法廷」でもありました。イエス・キリストもここでさばきをお受けになりました。これは、祭司や長老や律法学者たちによって構成され、その議長は大祭司でした。つまり、そこでのさばきは神さまの律法にしたがってなされることになっていました。 とはいえ、誰かがその兄弟に向かって「ラカ}と言ったとしても、地上の「最高議会」でさばかれることはありません。すでに、最初の事例で さばきを受けなければなりません。 と言われているのは、神さまのさばきであることが汲み取れます。そして、最後の事例で、 燃えるゲヘナに投げ込まれます。 と言われていることは、明確にそれが神さまのさばきであることを示しています。そして、この三つのことは「さばき」、「最高議会」、「燃えるゲヘナ」というように、段々と厳しいものになっています。それで、この「最高議会」も、地上の「最高法廷」を超えた天にある「最高法廷」を指し示している可能性があります。 ちなみに、「燃えるゲヘナ」とは「地獄」のことを指しています。「ゲヘナ」はエルサレムの南西にある「ゲー・ヒンノーム」(ヒンノムの谷)に由来すると言われています。そこは背教したイスラエルの民が異教の神であるモレクに自分たちの子どもをいけにえとしてささげた所で、エレミヤはそのために主のさばきが下されると預言しました。そして、後にはそこで廃棄物や犯罪人の死体が焼却処理されたようです。 最後の、 また、だれでも「ばか者。」と言う者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 という教えの、「ばか者」と訳されたことば(モーレ、モーロスの呼格)については、これが音声的に「背教」や「反逆」を表すヘブル語の「モーレー」に似ているということから、「反逆者」を意味しているという理解もあります。しかし、これには強い反論があります。 これらのことから、兄弟に向かって「能なし」と言うことも、「ばか者」と言うことも、ほぼ同じことを表していると考えられます。そして、これは、兄弟姉妹に対するごく軽い気持ちで発せられるであろう、侮辱のことばです。しかし、それは人の心を最も大切なものとしてご覧になっておられる神さまの御前においては、きわめて重大な罪であるということが教えられています。 このイエス・キリストの教えにおける厳しさを、逆に見ますと、神さまは私たちの神の子どもとしての尊厳性をこのようにして、守ってくださっているということでもあります。それは、天地創造の御業において、神さまが人を神のかたちにお造りになったことに根差しています。実際には、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、その神のかたちとしての尊厳性を、失ってしまいました。しかし、神さまは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いの御業によって、私たちの尊厳性を回復してくださっています。神さまはこのことのために、ご自身の御子のいのちの値を支払ってくださいました。そして、その尊厳性は神さまが守ってくださっています。 このようなことが根底にありますので、私たちが兄弟姉妹の神の子どもとしての尊厳性を、人の目から見るとほんのささいなことと見える形で犯すことが、きわめて重大な罪であるとされるのです。私たちは兄弟姉妹たちの神の子どもとしての尊厳性をとても重いものとして尊重する必要があります。兄弟姉妹の神の子どもとしての尊厳性を損なう怒りや、侮蔑のことばを発することは、兄弟姉妹の尊厳性を損なうだけでなく、私たち自身の神の子どもとしての尊厳性を損なうことです。そのことはまた、私たちが私たち自身に与えられている神の子どもとしての尊厳性をしっかりと心に留めるべきことを意味しています。 |
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