(第234回)


説教日:2010年7月18日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 マタイの福音書6章14節、15節には、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このイエス・キリストの教えをめぐっては、二つの問題が考えられます。一つは、なぜ、主の祈りのすぐ後に、この14節、15節に記されている教えがあるのかということです。もう一つは、私たちが人の罪を赦すことが、私たちが神さまから赦していただくことの条件、あるいは根拠になるのかということです。
 これまでは、このうちの後の方の問題についてお話ししてきました。今日は、もう一つの問題についてお話ししたいと思います。
 すでにお話ししたことの繰り返しになりますが、この問題を考えるうえでも大切なことがあります。それは、ここに記されているイエス・キリストの教えにおいては、神さまのことが、「あなたがたの天の父」また「あなたがたの父」と呼ばれているということです。ですから、ここで「あなたがた」と呼ばれている人々は、神さまの一方的な愛とあわれみと恵みによって、神の子どもとされている人々です。具体的には、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、罪を赦され、義と認められ、神の子どもとして迎え入れていただいている私たちのことです。私たちは、決して、自分が人を赦したことによって、罪を赦していただいて、神の子どもとして認めていただいているのではありません。
 少し前に取り上げました、マタイの福音書18章23節ー35節に記されています、王とそのしもべのたとえによるイエス・キリストの教えにおいては、王が「一万タラントの借りのあるしもべ」の「借金を免除してやった」のは、王の一方的なあわれみによることでした。この教えにおいて問題とされているのは、そのような王の一方的なあわれみにあずかったしもべが、同僚のしもべ、すなわち同じ王のしもべで、彼から1万タラントの60万分の1の「百デナリの借り」をしている人を赦さなかったということでした。私たちが人の罪を赦すことに関するイエス・キリストの教えにおいては、常に、私たちが神さまの一方的な愛とあわれみと恵みによって、限りなく赦されていることが先にあります。
 なぜ、主の祈りのすぐ後に、この14節、15節に記されているイエス・キリストの教えがあるのかということに関しましては、まず一つの問題を取り上げたいと思います。それは、この教えは別の機会にイエス・キリストが教えられたものであるけれども、この福音書を記したマタイがここにもってきたという見方のことです。
 確かに、福音書の中には福音書の記者による編集があります。同じ記事が福音書によって違う順序で記されている例があります。それは、福音書の記事の中には、時間的な順序に従って記されている場合と、主題によって関連することをまとめている場合があるからです。
 この点について確かなことは言えないのですが、かりに、この14節、15節に記されているイエス・キリストの教えが別の機会に語られたものであるとしましょう。その場合は、聖書を霊感された御霊が、マタイの考えを導いてくださって、この教えを主の祈りと関連づけるようにしてくださったということになります。そうしますと、どうしてイエス・キリストが他の機会に語られた教えを、マタイはわざわざここにもってきたのか、あるいは、御霊はどうしてマタイの思いをそのように導かれたのかという疑問が出てきます。ですから、なぜ、主の祈りのすぐ後に、この14節、15節に記されている教えがあるのかという問題は、そのまま問題として残っています。


 この問題を考えるために、このマタイの福音書6章14節、15節に記されているのと同じような教えが他にもありますので、それを見てみましょう。
 今日取り上げたいのは、マルコの福音書11章25節に記されているイエス・キリストの教えです。そこには、

また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。

と記されています。
 ここでは「立って祈っているとき」と言われていますが、立って祈るということは、その当時のユダヤの社会においては一般的なことでした。それで、これは何か特別な祈りを意味しているわけではありません。

 だれかに対して恨み事があったら

と訳されている部分には、「恨み事」という明確なことばはありません。この部分を直訳調に訳しますと、

 だれかに対立して何かをもっていたら

となります。この後に、

 赦してやりなさい。

という命令が続いていますので、相手の方が何かよくないことをしたということが分かります。ですから、これは「恨み事」であるでしょうし、「憤っていること」でもあるでしょう。あるいはより深刻な「憎悪」や「敵意」であるかもしれません。イエス・キリストは、それを赦しなさいと命じておられます。
 そして、これに続いて、イエス・キリストは、

そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。

と教えておられます。
 ここでも、神さまのことが「天におられるあなたがたの父」と呼ばれています。ですから、これは、神さまの一方的な愛とあわれみと恵みによって、すでに神の子どもとして受け入れていただいている者たちに対する教えです。
 ここで「」と訳されていることば(パラプトーマタ・パラプトーマの複数形)は、マタイの福音書6章14節、15節に記されているイエス・キリストの教えにおいても(2回)用いられていることばです。このことばは「そばに落ちること」、「踏み外して落ちること」という感じのことばで、律法などの基準を踏み外してしまうことを意味しています。これが複数形であることは、そのようなことがいろいろとあることを意味しています。
 注目したいのは、このマルコの福音書11章25節に記されているイエス・キリストの教えは、それに先立つ22節ー24節に記されている教えにつながっているということです。22節ー25節には、

イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

と記されています。
 ここに記されているイエス・キリストの教えは、22節に、

 イエスは答えて言われた。

と記されていることから分かりますように、さらにその前に記されていることを受けています。

 その前に記されていることをまとめておきますと、これは、イエス・キリストが過越の祭りのためにエルサレムに上られた時のことです。過越の祭りは、出エジプトの時代に、主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださったことを覚えるものです。その時、主はエジプトをおさばきになりましたが、イスラエルの民のためには、過越の小羊を備えてくださいました。過越の小羊はイスラエルの民の身代わりとなってほふられましたので、その家では主のさばきがすでに執行されていると見なされ、その家ではさばきが執行されませんでした。
 イエス・キリストはその過越の祭りのためにエルサレムに上ってきておられましたが、その週に、過越の小羊の成就として、十字架におかかりになることになります。
 12節ー14節には、

翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。

と記されています。
 ここに出てくる「いちじくの木」は、葉が茂っていたのですが、実をまったくつけていませんでした。本来は、葉が茂っていれば、熟していないとしても、いわゆる「青い実」をつけているはずです。私の家にも柿の木があります。柿は秋に実が熟するものですが、すでに「青い実」がなっています。しかし、この「いちじくの木」は葉ばかりが茂っていて、肝心な実がありませんでした。これは、その当時のイスラエルの民を指しています。旧約聖書においては、イスラエルの民は、しばしば「いちじくの木」にたとえられています。この「いちじくの木」にたとえられたイスラエルでは、盛んな宗教的な活動は行われていたのですが、神さまが求めておられる実は結ばれていませんでした。それは次に取り上げます15節ー19節に記されていることに典型的に示されています。
 イエス・キリストはその「いちじくの木」をのろわれたのですが、それは、その当時のイスラエルの民に迫ってきているさばきを預言として警告することでした。
 そして、それに続く15節ー19節には、

それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。

と記されています。
 ここには、イエス・キリストがエルサレム神殿の中で売り買いしている人々を追い出されたこと、いわゆる「宮きよめ」と呼ばれることが記されています。
 その売り買いは「異邦人の庭」と呼ばれる庭で行われていました。主を礼拝するためにエルサレムに上ってきた異邦人たちは、その「異邦人の庭」にしか入ることが許されていませんでした。しかし、その「異邦人の庭」でユダヤ人の都合のためにいけにえの動物の売り買いや、両替などが行われていました。もちろん、それらのことは神殿の外で行われるなら問題はありません。実際に、神殿の外でも行われていました。
 ユダヤ人の父祖アブラハムは、地上のすべての民の祝福のために選ばれました。その子孫であるイスラエルの民はすべての民が主の祝福を受けることに仕えるために召されています。主の神殿が「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」ということは、このことを反映しています。その主の神殿において、その「すべての民」に含まれる異邦人が、このような形で、礼拝から締め出されてしまっていたのです。イエス・キリストはこのことを問題としておられます。
 そして、このことのゆえに、祭司長、律法学者たちが「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」と言われています。
 これに続く20節、21節には、

朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

と記されています。
 このように、ここでは、イエス・キリストが「いちじくの木」をのろわれたことと、その「いちじくの木」が枯れたことの間に、イエス・キリストがエルサレム神殿の腐敗を正されたことと、そのためにユダヤの社会の当局者たちの間にイエス・キリストに対する殺意が決定的なものとなっていったことが記されています。
 ここには、「いちじくの木」ー「エルサレム神殿」ー「いちじくの木」という表現形式が見られます。「いちじくの木」をAとして、エルサレム神殿をBとしますと、AーBーAの形になります。これは聖書の中でよく見られる交差対句法(キアスムス)という表現方法です。これによって、真ん中にある、エルサレム神殿の腐敗が強調されることになります。先ほどお話ししましたように、「いちじくの木」はイスラエルの民を象徴的に示しています。そのイスラエルがのろわれた原因は、エルサレム神殿の腐敗に典型的に表れてきているイスラエルの民の不信仰にあったのです。

 このようなことを受けて、イエス・キリストは、先ほど引用しましたように、

神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。

と教えておられます。
 何となくつながりが分かりにくい気がしますが、すでにお話ししたことを踏まえますと、そのつながりが見えてきます。
 この教え全体の中心は、

 神を信じなさい。

というイエス・キリストの最初のことばにあります。
 ここでは、神さまがご自身の民の救いのためにとお選びになったイスラエルの民が、その不信仰のために滅ぼされてしまうような事態になってしまうとすれば、神さまの救いのご計画はどうなってしまうのかという疑問が踏まえられています。このときの弟子たちは、当然その問題に気がついていたはずです。それに対して、イエス・キリストは、

 神を信じなさい。

と教えられたのです。人の目から見て、とんでもないことになってしまったと見えるその時にも、神さまはご自身の救いのご計画を必ず実現されます。
 そして、イエス・キリストは、これに続いて、

まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

と教えられました。
 これは、神さまが救いのご計画を実現してくださることと深くかかわっている教えです。ですから、何でもかんでも自分の願っていることを、「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」ということではありません。神さまはご自身の民の救いのご計画をすでに旧約聖書をとおして約束してくださっています。その救いの約束をしてくださった神さまを信じて、不可能と思えることでも、神さまがそれを必ず実現してくださると信じるなら、そのようになるということです。

 イエス・キリストが言われる、

この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言う

ということについては、いくつかの理解の仕方があります。
 一つの理解の仕方は、「この山」とはオリーブ山のことで、イエス・キリストはゼカリヤ書14章4節に記されている、

その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。

というみことばのことを念頭に置いておられるというものです。
 これに対しまして、イエス・キリストが問題としておられることの中心にはエルサレム神殿の腐敗があるということとのかかわりで、「この山」とは、エルサレム神殿があるシオンの丘のことであるという見方もあります。この可能性も高いと考えられます。どちらの理解を取るべきか決め難い気がします。
 また、「海にはいれ」というときの「」についても、それは死海のことであるという意見や、地中海であるという意見など分かれています。
 いずれにしましても、これが神さまの民の救いのご計画の実現にかかわっていることを考えますと、

この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言う

ということには旧約聖書の背景があると考えられます。それは、たとえば、バビロンからの帰還のことを預言的に記しているイザヤ書40章3節ー5節に記されている、

 荒野に呼ばわる者の声がする。
 「主の道を整えよ。
 荒地で、私たちの神のために、
 大路を平らにせよ。
 すべての谷は埋め立てられ、
 すべての山や丘は低くなる。
 盛り上がった地は平地に、
 険しい地は平野となる。
 このようにして、主の栄光が現わされると、
 すべての者が共にこれを見る。
 主の口が語られたからだ。」

というみことばに示されていることです。
 イザヤは紀元前740年ー700年頃に活動した預言者ですが、それはアッシリヤの時代でバビロニヤがアッシリヤを滅ぼすのはその約百年後のことです。首都ニネベは612年に陥落しました。イザヤはさらにその先の、主がバビロニヤを用いてイスラエルのさばきを執行されることと、イスラエルがバビロンの捕囚となることを預言をしました。それと同時に、バビロンからの帰還の預言をしています。それが、このイザヤ書40章に記されているみことばです。
 また、旧約聖書の最後から2番目の書であるゼカリヤ書4章6節、7節には、

すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を選び出そう。」

と記されています。
 これらのみことばにおいては、「」は障害となるもの、妨げとなるものを象徴するものとして用いられています。しかも、それが「」ですから、大きな障害です。そうしますと、ゼカリヤ書4章7節の「大いなる山」というのは、それがとてつもなく大きな障害であることを意味しています。そして、それが平らになるということは、それが表している障害が取り除かれることを意味しています。
 イエス・キリストの教えにおいても、ただ、山に向かって「動け」と言うだけではありません。「動いて、海にはいれ。」と言うのです。このことは、そこが平らな地になることを意味しています。
 このように、この、

まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

というイエス・キリストの教えは、神さまがご自身の民の救いのために立てられたご計画を必ず実現してくださるということが示しています。私たちがその障害に直面したときに、神さまのみことばの約束を信じて、目の前に立ちふさがっている大きな障害が取り除かれることを信じるなら、それは必ず取り除かれるようになる、神さまはその障害を越えて、ご自身のご計画を必ず実現してくださるということが示されています。
 この教えを聞いている弟子たちにとっては、エルサレム神殿を中心としているユダヤ人たちにさばきが及ぶのであれば、神さまの救いのご計画はどうなるのかということが問題でした。しかし、間もなく、それをはるかに越える問題が起こってきます。自分たちがメシヤと信じて従っている、イエス・キリストご自身が十字架につけられて殺されてしまうのです。しかし、神さまはそのすべてを用いて、贖いの御業を実現してくださいました。
 もちろん、それは神さまの救いの御業の全体にかかわるご計画の実現だけに当てはまるのではありません。私たち一人一人の救いに関する神さまのご計画にもかかわっています。神さまにとっては、大きすぎることも、小さすぎることもありません。終わりの日に主の民の救いを完全に実現してくださるに至るご計画も、私たち一人一人にかかわる救いのご計画も必ず実現してくださいます。

 イエス・キリストは、これに続いて、

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

と教えておられます。
 これは、

 だからあなたがたに言うのです。

ということばが示していますように、その前で教えられたことを受けています。
 イエス・キリストの教えは、

 神を信じなさい。

ということに集約されます。その神さまへの信仰は、先ほどお話ししましたように、大きな障害に直面したときにも、神さまがご自身の民の救いのご計画を必ず実現してくださることを信じることとして現れてきます。その神さまへの信仰は、さらに、神さまへの祈りにおいて言い表されるのです。
 この祈りは、

まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

という教えに示されています神さまへの信頼に裏打ちされた祈りです。それで、イエス・キリストは、

祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

と教えておられます。
 このことを受けて、イエス・キリストはさらに、

また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。

と教えられました。
 何となく、この教えはこれまでのイエス・キリストの教えの流れとは合っていないような気がします。しかし、これまでのイエス・キリストの教えの根底に、神さまがご自身の民の救いのためのご計画を必ず実現してくださるということがあることを思い起こす必要があります。
 ここで、イエス・キリストは神さまのことを「天におられるあなたがたの父」と呼んでおられますから、この「あなたがた」は、すでに、神さまの一方的な愛とあわれみと恵みによって神の子どもとしていただいています。神さまの救いのご計画は約束のメシヤであられるイエス・キリストにおいて成就しています。
 弟子たちにとっては、イエス・キリストが十字架につけられて殺されるという事態になりますが、神さまはそのことを通して、ご自身の民の救いのご計画を実現してくださいました。私たちにとっては、神さまがイエス・キリストをとおして成し遂げてくださった救いの御業の完全な実現は、なおも、終わりの日を待たなければなりません。このイエス・キリストの教えは、私たちにとっては、終わりの日における救いの完成を信じて待ち望むときの信仰と祈りのことを教えるものとなっています。
 このように、この祈りは、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、罪を赦され、神の子どもとして受け入れていただいている私たちが、神さまの救いのご計画の完全な実現を信じて祈るのです。その意味で、この祈りは、

御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という主の祈りと実質的に同じ祈りになります。
 私たちの間に神さまの救いのご計画が実現し、そのみこころが現実となることは、私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることだけを意味するのではありません。私たちが主にある兄弟姉妹との愛にあるいのちの交わりに生きるようになることをも意味しています。
 この父なる神さまと、神の家族の兄弟姉妹たちとの愛にあるいのちの交わりの完成を、神さまのみことばの約束に基づいて、信じて祈り求めている私たちが、兄弟あるいは姉妹の罪を赦さないとしたらどうでしょうか。それでは、私たちの祈りが不真実なものとなってしまいます。私たちが真に神さまの救いのご計画の実現を信じて祈っているのであれば、私たちは互いに愛し合うはずです。そして、それは、まず、私たちがお互いの罪を赦し合う神の家族として歩むことに現れてきます。
 このようなことから、神さまのみこころの実現を祈り求める祈りについての教えには、私たちがお互いの罪を赦し合うべきことについての教えが続いているのであると考えられます。

 


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