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説教日:2010年7月11日 |
先主日は、神さまが私たちの罪を赦してくださることには「二つの次元」があるということをお話ししました。 一つは、神さまとの関係において決定的な転換をもたらした罪の赦しです。 私たちは生まれながらに、造り主である神さまに対して背を向けて歩んでいました。もちろん、その私たちも神さまによって造られたものであり、神さまの御手によって支えられていたことには変わりがありません。その意味では、造り主である神さまと無関係に存在していたのではありません。その点は、動物たちやその他の被造物たちと同じです。 しかし、人は神のかたちに造られており、人格的な存在として造られています。神のかたちに造られた人はこの世界と自分たちの造り主である神さまを知っている者として造られており、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして造られています。この点は動物たちやその他の被造物たちと違います。 その神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったために、造り主である神さまを神として認めることがなく、礼拝をもって神さまに栄光を帰することもなくなってしまっています。これが、罪がもたらしている霊的な暗やみです。私たちは自らのうちに罪の性質を宿すものとして、霊的な暗やみのうちに歩んでおりました。人の罪の本質は造り主である神さまを神としないことにあります。その意味では、私たちは造り主である神さまとの関係において、罪を重ねておりました。もちろん、私たちは、自らの罪のもたらす霊的な暗やみのために、自分が神さまに対して罪を重ねているということをまったく自覚していませんでした。 神さまは、そのような私たちに福音のみことばを聞く機会を与えてくださり、御霊によってそれを悟らせてくださいました。それによって、私たちは神さまがその一方的な愛によって、贖い主を約束してくださり、実際に、ご自身の御子をお遣わしになって、私たちの罪のための贖いの御業を遂行してくださったことを知るようになりました。そして、そのようにして現された神さまと御子イエス・キリストの愛に触れて、自分の罪を悟り、イエス・キリストを贖い主として信じるようになりました。それによって、神さまは、イエス・キリストの贖いの御業に基づいて、私たちの罪を赦してくださいました。そして、私たちを義と認めてくださり、ご自身の子として迎え入れてくださいました。より正確には、私たちを養子として迎え入れてくださったということです。その当時の文化においては、養子として迎え入れられた子には、実子と同じ特権が与えられていました。 このようにして、神さまは私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださいました。その神さまとの愛にあるいのちの交わりの中心にあるのは、神さまを造り主として礼拝することであり、神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけて祈ることです。 このように、神さまとの関係において、それまで神さまに背を向けて歩んでいた私たちを、神さまに向き、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださった時の罪の赦しが、神さまとの関係における決定的な方向転換をもたらした罪の赦しです。その意味で、この罪の赦しは、私たちの生涯においてただ一度だけ起こったことであり、決して取り消されることがないものです。 主の祈りの第5の祈りでは、 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 と祈ります。この「負いめ」(オフェイレーマタ)は「負債」あるいは「借金」のことです。すでにお話ししましたように、アラム語の「ホーバー」に当たるもので、いわば「罪の負債」です。これに対して、無限、永遠、不変の栄光の主のいのちの値は無限、永遠、不変であって、どのような「罪の負債」をも完全に償うことができるものです。それによって、私たちの罪が、それまでに犯した罪だけでなく、これから犯すであろう罪も含めて、すべて完全に償われ、清算されています。それで、この罪の赦しは完全なものであり、繰り返される必要はありませんし、決して取り消されることがないのです。 このことに関して、心に留めておかなければならないことがあります。それは、神さまが私たちの罪を赦してくださったことも、私たちを御前に義と認めてくださったことも、私たちに子としての身分を与えてくださったことも、すべて、法的なことであるということです。それは、神さまが天の法廷において、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりを根拠として、私たちの罪が赦されていることを宣言してくださり、私たちが義であると宣言してくださり、私たちが神の子どもとして受け入れられていることを宣言してくださったということです。 大切なことは、私たちの罪が赦されたことも、義と認められたことも、子として迎え入れていただいたことも、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりを根拠としてのことであって、決して、私たちのうちにあるものを根拠としてはいないということです。 これが、私たちの生涯において、神さまとの関係において決定的な方向転換をもたらした罪の赦しです。 このように、私たちの罪が赦されたのも、また私たちが義と認められ、子としての身分を与えられたのも、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる完全な罪の贖いに基づくことです。これらの祝福の根拠は私たち自身のうちにはなく、私たちの外、すなわち、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあります。ローマ人への手紙4章25節に、 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 と記されているとおりです。 それで、私たちがこれらの祝福にあずかっているといっても、私たちに罪の性質がなくなって、私たちが罪を犯すことがなくなったということではありません。決して、私たちに罪の性質がなくなって、私たちが罪を犯すことがなくなったから、義と認められ、子としての身分を与えられたということではないのです。 実際、ヨハネの手紙第一・1章8節ー10節に、 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 と記されていますように、私たちのうちには罪の性質が残っており、私たちは罪を犯してしまいます。そうではあっても、御子イエス・キリストの十字架の死は、私たちのすべての罪を贖ってあまりあるだけの効果をもっています。なぜなら、それは無限、永遠、不変の栄光の主がご自身のいのちの値を支払って成し遂げてくださった贖いであるからです。それで、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 と約束されています。これは、どのような罪に対しても当てはまります。 しかし、「赦されない罪」があるではないかと言われるかもしれません。確かに、マタイの福音書12章31節、32節には、 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。 と記されています。 これについてはいろいろなことを考えなければなりませんが、一つだけ明確なことがあります。ヨハネが、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、 と言うとき、私たちはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて「自分の罪を言い表わす」のですが、聖霊に逆らっている人は、決して、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて「自分の罪を言い表わす」ことはないということです。その人も自分にも罪があるとか、悪いところがあると言うでしょう。しかし、だからといって、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に頼ることはありません。なぜなら、私たちがイエス・キリストこそが父なる神さまが遣わしてくださった贖い主であると信じることができるのは聖霊のお働きによることであるからです。ですから、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 という約束は、私たちが犯してしまうどのような罪に対しても当てはまります。 また、これは、すでに御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって罪を赦され、義と認められ、子としての身分を与えられている私たちに対する約束です。その意味で、先ほどの、私たちの生涯にただ一度だけ起こる、神さまとの関係における決定的な方向転換をもたらした罪の赦しとは違います。 先主日お話しすることができませんでしたが、これと関連して、一つのことをお話ししたいと思います。 私たちは父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちに対する計り知れない愛を知っています。また、その恵みが限りないことも知っています。そのような愛と恵みを深く味わっているにもかかわらず、なおも罪を犯してしまうことに、恐れを覚えます。そのような罪は父なる神さまと御子イエス・キリストの豊かな愛と恵みを踏みにじるものであるということへの恐れです。それで、しばしば、私たちは絶望的な思いになってしまいます。 そうしますと、ヘブル人への手紙6章4節ー6節に記されています、 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。 というみことばが言うのは自分のことではないだろうかとさえ思うかもしれません。あるいは、ここに記されていることと自分の状態はどれほど違うのだろうかと、疑問に思うかもしれません。 しかし、これもいろいろなことは省略して、今お話ししていることにかかわることだけをお話ししますが、ここに記されているみことばが示していることも、先ほどの「聖霊に逆らう冒涜」に相当することです。このみことばで言われている人は、 光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、 何らかのことで、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを信じなくなってしまった人のことです。自分の罪に対する自覚が薄れてしまったのか、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いが愚かなことに感じられるようになったのか、いろいろな理由があることでしょう。ですから、その人は、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて「自分の罪を言い表わす」ことはしないのです。つまり、神さまが御子イエス・キリストをとおして備えてくださった罪の贖いの恵みのことを知っていながら、それをあえて退けてしまうのです。 私たちは、自分は神さまが御子イエス・キリストをとおして備えてくださった贖いの恵みを知っていながら、それを踏みつけてしまったから、もう救われることはないというように、このみことばの教えを運命的に理解してはなりません。それは、先ほどの、「聖霊に逆らう冒涜」についても当てはまります。 神さまは決して機械的に事を運ばれることはありませんし、神さまには矛盾はありません。もし私たちが神さまに対して罪を犯したことを認め、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて「自分の罪を言い表わす」なら、それは、聖霊が私たちを導いてくださったからできたことです。決して、自分の力でできたことではありません。救われて神の子どもとなる前は聖霊に導かれて罪を自覚し、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じるようになったが、救われて神の子どもとなった後では、それを自分の力でしているということでもありません。もちろん、それは自分の意志でしたことですが、聖霊が私たちの意志をそのように生かしてくださったのです。それで、神さまは、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 という約束を果たしてくださいます。それは、このみことばが示していますように、神さまの契約に基づく「真実さ」にかかわることです。 ですから、どんなに自分の罪を認めて、神さまが御子イエス・キリストをとおして備えてくださった罪の贖いを信じて、その罪を告白しても、もはやその罪が赦されることはない、というようなことは決してないのです。いわゆる「赦されない罪」をそのように運命的に理解してはなりません。むしろ、「赦されない罪」についての警告が与えられているのは私たちの益のためです。その警告は、私たちがどのような罪を犯したとしても、神さまが御子イエス・キリストをとおして備えてくださった罪の贖いの完全さを信じて、その罪を告白するように、そして、常に罪を赦されたものとして、さらには、神の子どもとして御前を歩むようにという、私たちに対する神さまのみこころから出ています。 私たちは自分の罪の重さに押しつぶされるようになるかもしれません。しかし、それは自分でその罪を担おうとするからです。もし、自分の罪があまりにも重くて、赦されることがないのではないかと考えるときには、二つのことを注意しなければなりません。 一つは、そのように考え続けることは無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストがいのちの値を支払ってくださって成し遂げてくださった罪の贖いにも、赦すことができない罪があるとしてしまうことになるということです。 もう一つのことは、一見すると、自分の罪を深く自覚することがすばらしいことのように見えますが、そこには危険が潜んでいます。とても微妙なことですが、そのようなときに、ある種の自己義認のわなが迫ってきていることを警戒しなければなりません。それは、「自分は自分の罪の重さを自覚して、悩んでいる。(だから、いいのだ。)」というような、ひそかな自己義認の思いです。自分で自分の罪の重荷を負おうとしますと、そのようなわなに陥りかねません。 このようなことから、私たちはどのように重い罪を犯したときでも、ただちに神さまが御子イエス・キリストによって備えてくださった罪の贖いに信頼して、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 という神さまの約束にしたがって、自分の罪を告白して罪を赦していただくようにしたいと思います。 この約束において注目したいのは、少し前にごく簡単に触れたことがありますが、この約束が、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦してくださいます。 ということで終わっていないということです。 この、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦してくださいます。 ということは法的なことです。神さまが「その罪を赦して」くださることも、一度に完全になされることで、二度とその罪が問われることはありません。 しかし、これには、 すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 という約束が続いています。これは、神さまが私たちを罪の汚れからきよめてくださることを約束してくださるもので、私たちの実質を内側から造り変えてくださることを意味しています。 私たちの生涯にただ一度だけ起こる、神さまとの関係における決定的な方向転換をもたらす罪の赦しにおいて、神さまが私たちの罪を赦してくださったことも、私たちを義と認め、子としての身分を与えてくださったことも法的なことでした。それはすでに完全になされたことであって、取り消されることはありません。私たちは永遠に神さまの御前に罪を赦され、義と認められ、子としての身分を与えられているものとしていただいています。その根拠は、御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったことです。これは、私たちが告白した罪を神さまが赦してくださることにも当てはまります。その赦しは完全であり、二度とその罪を問われることはありません。 これに対して、神さまが、 すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 ということは、私たちの実質を内側から造り変えてくださることであって、私たちの地上の生涯の全体にわたってなされることです。神さまが、 すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 ということは、どちらかというと消極的なことです。ご存知のように、ヨハネの手紙第一は、このことから出発して、私たちが互いに愛し合うようになることへと、私たちを導いていきます。すでに、これに先立つ7節においては、 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。 と記されています。ここでも、 御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。 というように、私たちのうちにある罪の聖めのことが記されています。そして、その前に、 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、 と言われていますように、そこに愛の交わりがあることが示されています。これと実質的に同じことが、2章9節、10節に、 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。 と記されています。 このように、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいて私たちの罪をきよめてくださることは、それによって、私たちが互いに愛し合うようになるためです。私たちが互いに愛し合うことをとおして、神さまは私たちを御子イエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えてくださいます。これは私たちの地上の生涯にわたって神さまがなしてくださることで、神学的には、これを「聖化」と呼びます。 そして、これは終わりの日に再臨される栄光のキリストが完成してくださいます。3章1節、2節に 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 と記されているとおりです。 すでにお話ししましたように、 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。 というイエス・キリストの教えは、すでに父なる神さまの「すばらしい愛」にあずかって、神の子どもとしていただいている私たちに対する戒めです。 私たちが兄弟姉妹たちの罪を赦すことは、私たちが互いに愛し合うようにための出発点です。それは、神さまが私たちの罪を赦してくださり、私たちを罪からきよめてくださることが、私たちが互いに愛し合うことの出発点であることと符合しています。そして神さまは私たちが互いに愛し合うことをとおして、私たち神の子どもたちを、御子イエス・キリストのかたちに似た者として造り変えてくださいます。しかし、私たちが兄弟姉妹の罪を赦さないことは、そのような神さまのみこころを、その出発点に当たるところから踏みにじってしまうことになります。 |
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