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説教日:2010年7月4日 |
このこととの関連で考えておきたいことは、罪の赦しには「二つの次元」があるということです。「二つの次元」という言い方が適当かどうか迷ったのですが、他に適当なことばが見つかりません。私たちと神さまとの関係は、かつて私たちが神さまに背を向けていたときと、いま私たちが神の子どもとしていただいているときでは違いがあります。この神さまと私たちの関係の違いが、神さまが私たちの罪を赦してくださるというときの、罪の赦しの違いに反映しているということです。今日は、このことについてお話しし、それとの関連で、イエス・キリストの教えをさらに考えたいと思います。 罪の赦しには「二つの次元」があるというときの一つは、私たちの生涯の中で、造り主である神さまとの関係において、決定的な方向転換をもたらした罪の赦しです。これによって神さまは、ご自身に背を向けて歩んでいた私たちを、ご自身の子として受け入れてくださいました。その意味で、これは神さまとの関係において、私たちに決定的な方向転換をもたらした罪の赦しです。また、これは、それが決定的な方向転換をもたらしたという意味で、私たちの生涯において一度だけしか起こりません。 私たちは、かつては、生まれながらに自分の罪過と罪の中に死んでいました。もちろん、肉体的には生きています。しかし、私たちとこの世界の造り主であり、いのちの源である神さまとの関係においては死んでいました。 すべてのものは造り主であられる神さまによって造られました。そして、その御手によって支えられています。私たち人間も例外ではありません。しかし私たちは、その神さまを神として認めることはなく、あがめることもありませんでした。それが、人の罪の本質です。罪は造り主である神さまに背を向けて歩むことです。神さまによって造られ、神さまによって支えられて生きている者が、その神さまを神としないばかりか、神さまに背を向けて生きることです。私たちはかつてはそのような者として生きていました。肉体的には生きていたのですが、神さまとの関係においては自分の罪過と罪の中に死んでいたのです。 そのような生き方の至る所は死です。ローマ人への手紙6章23節に、 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 と記されているとおりです。この場合の死は肉体的な死で終わるものではありません。肉体的な死も私たちの罪に対する刑罰の一つですが、私たちが肉体的に死んだら罪が清算されるということはありません。人間の世界でも、大きな負債を抱えていた人が死んだからといって、その負債が清算されるということはありません。その人が死んだことによって、債権者たちがその返済を受けられなくなったということは、債権者たちが損害を被ったということであって、決して、負債が清算されたということではありません。 人間は肉体的に死んだ人にかかわることはできません。それで、死んだ人にまで返済を請求することはできません。しかし、神さまは違います。神さまは今生きている人々だけでなく、すでに死んだ人々をも御手におさめておられます。そして、その罪を清算されます。私たち人間が造り主である神さまを神として認めず、神としてあがめることもなく、かえって、神さまに背を向けて歩んでいたことに対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰が執行されて、罪の清算がなされます。その神さまの聖なる御怒りによる刑罰によってもたらされるものが霊的な死であり、滅びです。 しかし、福音のみことばは、神さまが、そのように自分の罪過と罪の中に死んでいて、神さまに背を向けて歩んでいた私たちのために、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださり、その十字架の死によって、私たちの罪を完全に清算してくださったということをあかししています。御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を余すところなく受けてくださったのです。そして、私たちには、その福音のみことばのあかしを信じて、その贖いの恵みを受け取るようにと迫ってくださいました。コリント人への手紙第二・5章17節ー21節には、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 と記されています。 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。 と言われていますように、神さまがご自身の御子を贖い主として遣わしてくださって、私たちの身代わりとなられた御子イエス・キリストに、私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを執行されて、私たちの罪を清算してくださったのです。それによって、私たちが罪を赦されて、神さまの御許に帰ることができるようにしてくださいました。 私たちは福音のみことばにあかしされている御子イエス・キリストを贖い主として信じたことによって、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって、罪を赦され、義と認められて、神の子どもとしていただきました。 これが、造り主である神さまとの関係において、私たちに決定的な方向転換をもたらした罪の赦しです。私たちは自分の罪過と罪の中に死んでいましたので、造り主である神さまを神として認めることはなく、まして、造り主である神さまを神としてあがめることはありませんでした。私たちはそのようにして、神さまに対して背を向けて歩んでいました。造り主である神さまを神としないことが罪の本質ですので、私たちは、罪を積み重ねて生きていたのです。神さまが御子イエス・キリストにある一方的な愛とあわれみと恵みによって、その私たちの罪を赦してくださり、ご自身の御許に帰らせてくださったのです。神さまは私たちの罪を赦してくださっただけではありません。自分の罪過と罪の中に死んでいた私たちを、イエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださり、御前に義としてくださって、神の子どもとしての身分をも与えてくださいました。そして、ローマ人への手紙8章14節、15節に、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と記されていますように、神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることができる特権を与えてくださいました。 それで、私たちはもはや神さまに背を向けて生きる者ではなくなりました。後ほどお話ししますように、ときには神さまに対して罪を犯してしまうことがありますが、私たちの基本的な姿勢は、神さまのほうを向き、神さまの御顔を仰ぐものです。繰り返しになりますが、これが、造り主である神さまとの関係において、私たちに決定的な方向転換をもたらした罪の赦しです。これは、神さまの一方的な愛とあわれみと恵みによることであって、私たちはただ信仰によってそれにあずかっているだけです。 最初にお話ししましたように、この意味での罪の赦しは、私たちの生涯において一度だけしか起こりません。しかし、この決定的な罪の赦しは、決して取り消されることはありません。私たちが義と認められ、神の子どもとされていることは、決して取り消されることはないのです。なぜなら、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いは完全なものであり、それに基づく罪の赦しも完全なものであるからです。先ほど引用しましたコリント人への手紙第二・5章18節には、 これらのことはすべて、神から出ているのです。 と記されていました。私たちを死と滅びの中から救い出してくださるためにご自分の御子をお遣わしになったのは神さまです。その御子に、私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを下されたのは神さまです。そして、私たちを御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせてくださり、私たちの罪を赦し、私たちを義と認め、ご自身の子としてくださったのは神さまです。私たちの救いはすべて神さまから出ており、御子イエス・キリストをとおして成し遂げられました。私たちは、信仰によってそれにあずかっているだけです。ですから、この救いには、私たちに付き物の失敗ということはありません。神さまの罪の赦しは完全なものです。 さらに、ヨハネの福音書6章37節には、 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。 というイエス・キリストの教えが記されています。私たちは福音のみことばを信じて、イエス・キリストの御許に行きました。イエス・キリストは、 わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。 というみことばの約束のとおりに、私たちを決してお捨てになることはありません。 私たちはすでに、このような完全な罪の赦しにあずかっています。ローマ人への手紙8章1節に、 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 と記されているとおりです。私たちは御子イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いにあずかって、罪をまったく赦され、義と認められ、神の子どもとしていただいている者として歩んでいます。そして、御子イエス・キリストご自身が、私たちをこの恵みのうちに保ってくださいます。 しかし、その私たちのうちには、なおも罪の性質が残っています。そして、私たちは実際に、罪を犯してしまいます。詳しくお話しすることはできませんが、神さまが私たちの罪を赦してくださったことも、私たちを義と認めてくださったことも、私たちを神の子どもとしてくださったことも、法的なことです。神さまと私たちの法的な関係のことです。これに対して、私たちのうちになおも罪が残っていて、実際に、私たちが罪を犯してしまうということは、私たち自身の実質にかかわることです。 ヨハネの手紙第一・1章8節ー10節には、 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 と記されています。これは神さまの一方的な愛とあわれみと、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を赦され、神の子どもとしていただいている者たちの現実を述べています。 このみことばについてはすでに詳しくお話ししましたので、結論的なことだけに触れておきます。 8節で、 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 と言われているときの「罪」は単数形です。また、「罪はない」は直訳では「罪をもっていない」というヨハネ独特の言い方です。この場合の「罪」は罪の性質を表わしています。 また、9節で、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 と言われているときの「罪」は2回とも複数形で、私たちが実際に犯してしまう罪を表しています。 このようにして、ここでは、私たちのうちにはなおも罪の性質が残っており、私たちは実際に罪を犯してしまうということが示されています。そして、それに対してどうしたらいいかということが教えられています。それが、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 という教えです。 お気づきのように、ここにも「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し」というように、罪の赦しが出てきます。これは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いにあずかって、罪をまったく赦され、義と認められ、神の子どもとしていただいている私たちが、それでもなお犯してしまう罪の赦しです。 先ほど、罪の赦しには二つの次元があると言いましたが、これがもう一つの罪の赦しです。これは、自分の罪過と罪の中に死んでいた私たちを新しく生かして、義と認め、神の子どもとしてくださるための罪の赦しではありません。神さまの愛とあわれみと恵みによって、すでに、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれ、御前に義と認められ、神の子どもとしていただいている私たちが犯す罪の赦しです。 先ほどお話ししましたように、神さまとの関係において、私たちに決定的な方向転換をもたらした罪の赦しは、私たちの生涯で一度だけしか起こりません。しかし、この神の子どもとしての私たちが犯してしまう罪の赦しは、ヨハネの手紙第一・1章9節の、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 というみことばからも分かりますように、私たちの神の子どもとしての地上の歩みの中で繰り返し起こります。というより、私たちは日々この赦しにあずからなければならないものです。 ヨハネの福音書13章1節ー11節には、十字架におかかりになろうとしておられるイエス・キリストが、その食事の席において、弟子たちの足を洗われたことが記されています。8節ー10節には、 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。・・・」 と記されています。 ここに記されていることに関してはいろいろな議論がありますが、結論的には、一般に理解されているとおりです。ここでからだを洗うことが出てきますが、これはその当時の習慣に根差しています。人が宴会に招かれたときには、自分の家で全身を洗ってからそこに行きます。そこに着くと、その家のしもべが足を洗って、そこまでの道でついた汚れを落としてくれます。この習慣には、さらに旧約聖書のきよめの儀式の背景があります。イエス・キリストはこれを用いて、霊的なことを教えておられます。それで、からだを洗うことは象徴的に罪のきよめを表しています。 水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。 というイエス・キリストの教えは、これまでお話ししてきたことでは、神さまとの関係において、私たちに決定的な方向転換をもたらした罪の赦しに当たります。これは、生涯で一度だけなされることで、繰り返されることはありませんし、繰り返す必要はないことです。 これに対しまして、イエス・キリストが弟子たちの足を洗ってくださったことは、すでに罪を赦されて神の子どもとしていただいている私たちが、なおも犯してしまう罪を、その都度、赦していただくことに当たります。 もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。 というイエス・キリストの教えが示していますように、神さまの一方的な愛とあわれみと恵みによって、神の子どもとしていただいている私たちが日々に犯す罪も、御子イエス・キリストが十字架の上で流された罪の贖いの血によって、その都度、きよめていただかなければならないことが示されています。 この教えは8節ー10節に記されていますが、その少し後の14節には、 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。 というイエス・キリストの教えが記されています。これは、広い意味での互いにへりくだるようにという教えであると理解されています。しかし、からだを洗うことの意味が継承されているとしたら、これには、派生的な意味があると考えられます。これによって、私たちが互いにへりくだることが教えられているとしても、その中心には、私たちがイエス・キリストが十字架の上で流された血によって罪を赦され、罪をきよめていただいている者として、互いに赦し合うことがあると考えられます。 主の祈りは、すでにイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦していただき、神の子どもとしていただいて、神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけることができる者たちが祈る祈りです。それで、私たちが主の祈りの第5の祈りで、 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 と祈るのは、先ほどのイエス・キリストの教えでは、イエス・キリストに足を洗っていただくことに当たります。 また、このことは、 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。 というイエス・キリストの教えにもそのまま当てはまります。繰り返しになりますが、この教えでは、神さまのことが「あなたがたの天の父」また「あなたがたの父」と呼ばれています。この教えは、すでにイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦していただき、神の子どもとしていただいている私たちに対する教えです。 このように、このイエス・キリストの教えは、主の祈りの第5の祈りと深くつながっています。そのつながりを考えますと、主の祈りの第5の祈りで、 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 と祈っている私たちが、イエス・キリストが警告しておられるように「人を赦さない」としたら、それは主の祈りの第5の祈りを空しくすることであることが分かります。その祈りの中で、 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 と祈りながら、実際には、「人を赦さない」ということはどういうことでしょうか。また、 私たちの負いめをお赦しください。 というように、自分は罪を赦していただかなければならない者であることを告白しつつ、自分は人の罪を赦さないということはどういうことでしょうか。 このことを踏まえたうえで、一つのたとえをしてみましょう。たとえですので、単純化し、少し理想化してお話しします。二人の子どもたちが、何らかのことでけんかをしたとします。そして、父親はその一部始終を調べて、公正に判断し、その原因を作った子どもに、十分な説明とともに自分の判断を伝えて、謝るように諭したとします。その場合、そのように諭された子どもが、それでも謝らなかったら、父親はその子を赦すことはありません。また、その子が心から謝ったのに、相手の子どもが赦さなかったとしたら、父親は、やはり、その相手の子どもを、赦すことはありません。 しかしそれは、あくまでも、そのけんかに関してのことです。父親は、このようなことで、もう二人が自分の子どもではないと言うようなことは、決してありません。むしろ、この場合、父親は二人を自分の子どもとして扱っています。父親としては、このようなことをとおして、二人の子どもが自分の子どもとして、成長してほしいのです。 エペソ人への手紙4章32節、5章1節には、 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。 と記されています。 私たちが「神にならう者」となるということは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦されているだけでなく、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、神の子どもとしていただいている私たちが、神の子どもとして成長し、イエス・キリストに似た者となるために必要なことです。 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。 というイエス・キリストの教えの根底には、私たちを神の子どもとして扱ってくださっている神さまのこのようなご配慮があることを、深く心に留めたいと思います。 神さまは限りない愛をもって、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づいて、私たちの罪を赦してくださっています。そして、このことを悟らせてくださることによって、私たちも人を赦すことができるように造り変えてくださいます。それで、私たちは人を心から赦すことにおいて、神さまが自分の罪を赦してくださっていることを実感するようになります。また、神さまが自分のうちに人を赦す力を与えてくださっていることを知るようになります。 |
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