(第240回)


説教日:2010年6月20日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 マタイの福音書6章14節、15節には、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 これは、その前の9節ー13節に記されている主の祈りに続いて記されている教えです。それで、これは主の祈り、特に第5の祈りと関連していると考えられます。
 この教えについては二つの疑問がわいてきます。一つは、前後関係にかかわることで、なぜ、主の祈りのすぐ後に、この14節、15節に記されている教えがあるのかということです。もう一つは、この教えの内容にかかわることで、私たちが人の罪を赦すことが、私たちが神さまから赦していただくことの条件、あるいは根拠になるのかということです。
 これまで、このうちの後の方の疑問についてお話ししました。その際に特に注目したのは、この14節、15節に記されている教えでは、神さまのことが、まず「あなたがたの天の父」と呼ばれており、次に「あなたがたの父」と呼ばれているということです。このことは、主の祈りにおいて、

 天にいます私たちの父よ。

というように、神さまに呼びかけることと符合しています。ですから、この教えは、神さまのことを「天にいます私たちの父」と呼ぶことができる神の子どもたちに対して語られた教えであることが分かります。
 私たちが神さまのことを「天にいます私たちの父」と呼ぶことができる神の子どもであるのは、神さまの一方的な愛とあわれみと恵みによっています。というのは、私たちのうちには神さまに向かって「天にいます私たちの父」と呼びかけるにふさわしいものがまったくなかったからです。
 今日も、このことを、もう少し考えてみましょう。
 少し前に引用しましたが、かつての私たちの状態を記しているエペソ人への手紙2章1節ー3節には、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」、「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。
 しかし、続く4節ー6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。
 ここでは、神さまのことが「あわれみ豊かな神」と言われています。このことは、いくつかの聖書のみことばを思い起こさせてくれますが、二つのみことばだけを取り上げておきましょう。
 一つは、この4節の「あわれみ豊かな神」ということばから誰もが思い起こすものであるというよりは、これまでお話ししてきたこととの関連で思い起こすことです。それは、言うまでもなく、マタイの福音書18章23節ー35節に記されています、たとえによるイエス・キリストの教えに出てくる「王」のあわれみです。23節後半ー27節には、

王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。」と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

と記されています。
 繰り返しになりますが、このしもべの「一万タラント」という借金は、6千万日分の賃金、365日休まず働いたとして、16万4千3百83年分の賃金に当たります。それほどの借金を王が免除してあげたのは、ただ、王が「かわいそうに思って」のことであったと言われています。
 ここで「かわいそうに思って」と訳されていることば(スプランクニゾマイ)は、ずいぶん前に別の個所との関連でお話ししたことがありますが、「内臓」、「はらわた」ということば(スプランクノン)に関連しています。その当時の文化では、感情の座が内臓にあるとされていました。私たちも同じようなところがあって、ひどく怒ることを「はらわたが煮えくり返る」と言い、深く悩むと「胃が痛くなる」と言い、悲しいことがあると「胸が痛む」と言います。また、ひどく驚くと「心臓が止まりそうだ」と言います。そのように、この「かわいそうに思って」と訳されていることばは「はらわたが揺り動かされる」という強い感情を表します。ただこのことばの場合は、「深くあわれむ」、「心から同情する」、「心底かわいそうに思う」ということを意味しています。しかも、このイエス・キリストの教えでは、このことばが最初に出てきて、王がかわいそうに思ったこと、深くあわれんだことを強調しています。
 33節には、王が、

私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。

と言ったことが記されていますが、この「あわれんでやる」ということば(エレエオー)は、「あわれみ豊かな神」と言われているときの「あわれみ」(エレオス)の動詞に当たります。このことは、王が「かわいそうに思った」と訳されていることは、「深くあわれんだ」ということであったことを示しています。
 この教えの中では、「王」は神さまを表わしていますが、まさに、「あわれみ豊かな神」さまを表しています。
 ただ、この教えの中では、残念ながら、このしもべは、自分が免除してもらった借金の60万分の1の百デナリを貸しているしもべ仲間の借金を容赦なく取り立てて、そのしもべを投獄していまいました。


 この「あわれみ豊かな神」ということばで思い起こすもう一つの個所は、多くの方が指摘している個所です。それは、出エジプト記34章6節、7節に記されています、

主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、

という契約の神である主、ヤハウェの栄光の顕現(セオファニー)において宣言されたみことばです。これはもう少し続きますが、いまお話していることとは直接的にかかわりがありませんので省略します。
 ヘブル語旧約聖書のギリシャ語訳である7十人訳では「あわれみ深く、情け深い神」の「情け深い」の方を「あわれみ深い」(エレエーモーン)と訳しています。これは同義語(同じ意味のことば)を連ねて強調しているものです。
 特に、注目すべきことは、これが、主の一方的な恵みによってエジプトの奴隷の状態から解放されて、主が栄光のうちにご臨在しておられるシナイ山の麓に宿営しているイスラエルの民が、金の子牛を作って、それを主、ヤハウェであるとして拝んだ時のことであるということです。すでに、主はイスラエルの民に直接的に語りかける形で、十戒をお与えになっておられました。イスラエルの民は、主が語りかけられる御声を聞いて、自分たちが滅ぼされてしまうという恐怖にかられてしまったほどでした。そして、そのようにして示された十戒の第二戒は、主、ヤハウェを表す偶像を作って、ヤハウェ礼拝をしてはならないというものでした。しかし、イスラエルの民はこのすぐ後に、金の子牛を作って、これを自分たちをエジプトから連れ出してくれた主、ヤハウェであるとして、礼拝したのです。
 複雑な経緯がありますが、ごく簡単にまとめます。主はそのようなイスラエルの民に聖なる御怒りを発せられ、彼らが滅ぼされるべきものであることを示されました。しかし、モーセのとりなしを受け入れてくださって、イスラエルの民を赦してくださることを示してくださいました。その時に、モーセはそのようにかたくなな民をなおも赦してくださる主の栄光を示していただきたいと願いました。これに対して、主が示してくださった栄光の顕現(セオファニー)において示された宣言が、先ほどの、

主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、

というみことばでした。
 それは、主、ヤハウェが、罪のために聖なる御怒りに触れて滅ぼされるべき者をも、なおもあわれんでくださって、ご自身の契約に示された「恵みとまこと」を保ってくださって「咎とそむきと罪を赦」してくださる神であられることを示してくださるものでした。
 この「恵みとまことに富み」ということは、永遠の「ことば」であられる御子が人となって来てくださったことにおいて、私たちの間の現実となっています。ヨハネの福音書1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されていますが、最後の部分で、

 この方は恵みとまことに満ちておられた。

と言われているときの、「恵みとまことに満ちて」ということばが、出エジプト記34章7節の「恵みとまことに富み」ということばと符合しています。この場合、

 この方は恵みとまことに満ちておられた。

と訳されている部分は、文法の上ではこのとおりです[「この方」と訳したのは、形容詞「満ちておられた」が男性単数形であることによっています]が、文脈の上からは、

 この栄光は恵みとまことに満ちておられた。

と訳したほうがいい可能性があります。[形容詞「満ちておられた」は形としては男性単数形ですが、ヘレニズム期のギリシャ語では、しばしば、不変化であるということが指摘されています。それで、これは女性形の「栄光」を修飾している可能性もあります。]
 私たちも、あのかたくななイスラエルの民と同じです。「自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」、「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。そのような私たちも、御子イエス・キリストにある父なる神さまの豊かなあわれみにあずかって罪を赦され、救われています。

 エペソ人への手紙2章4節では、神さまのことが「あわれみ豊かな神」と言われた後に、さらに、

 私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに

と言われています。
 ここでは二重の意味で神さまの愛が強調されています。
 一つは「大きな愛」というように、「大きな」あるいは「豊かな」ということば(形容詞・ポレー)で強調しているということです。
 もう一つは、これに、

 私たちを愛してくださった

ということばを加えて、神さまの愛をさらに強調しています。これは「愛」という名詞と「愛する」という動詞を重ねる強調の仕方です。
 このように、4節の、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

というみことばは、神さまの豊かなあわれみと、神さまのこの上なく大きな愛が重ねられて、私たちの受けている救いが、まったく、神さまのあわれみと愛から出ていることが強調されています。
 そのことは、次の5節の最後に、新改訳ではダッシュで囲まれていますが、話の途中で間を置いて、これまでの「私たち」を「あなたがた」に変えて、

 あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

と言われていることによって、さらに強調されています。ギリシャ語原文には「ただ恵みによる」の「ただ」はありませんが、「恵み」が前に出てきて強調されていますので、新改訳は「ただ恵みによる」訳しています。「じつに恵みによる」と訳してもいいかもしれません。
 このことから、パウロは、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、

とまで記したとき、6節の、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

ということを続けるはずが、思わずことばを止めて、

 あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

と叫んでしまったということが汲み取れます。
 ここで挿入されるように、

 あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

と述べられていることは、先ほどは引用しませんでしたが、すぐ後の8節、9節で、改めて、

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

と記されるようになります。パウロとしては、そこまで待ちきれなかったという感じでしょうか・・・。
 いずれにしましても、ここでは、私たちが救われたのは、私たちの力や、私たちのよさによらないで、ただ神さまの私たちに対する一方的な愛とあわれみと恵みによっていることが強調されています。

 さらに、ここでは、「キリストとともに」ということが繰り返し強調されています。
 ここに出てくるのは5節の「ともに生かしてくださった」という動詞と、6節の「ともによみがえらせてくださった」と「ともにすわらせてくださった」という動詞です。これに、5節では「キリストと」ということばがついていて、「キリストとともに生かしてくださった」と言われています、そして、6節では「キリスト・イエスにおいて」ということばがついていて、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともにすわらせてくださった」となっています。この場合の、「キリスト・イエスにおいて」というのは、「キリスト・イエスとの結合において」ということを意味していますので、実質的には、「キリストとともに」ということと同じことです。
 ここでは説明されていませんが、私たちをイエス・キリストに結び合わせてくださるのは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御霊のお働きです。決して、私たちが自分の力や思いでイエス・キリストにしがみつくのではありません。実際に、イエス・キリストは父なる神さまの右の座に着座しておられますから、私たちにはそのイエス・キリストとつながるような力はありません。
 ところで、これら「ともに生かしてくださった」、「ともによみがえらせてくださった」、「ともにすわらせてくださった」という三つのことばが示す救いの恵みの関係はどうなっているのでしょうか。どうしてそのような疑問が出てくるかと言いますと、「ともに生かしてくださった」ということと「ともによみがえらせてくださった」ということは、同じことを言っているように思われるからです。
 結論的に言いますと、5節で、

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かしてくださった

と言われていることを、6節でもう少し詳しく説明して、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われているということになります。私たちがイエス・キリストとともに生きるようになったということは、御霊によってイエス・キリストと結び合わされて、イエス・キリストとともに死者の中からよみがえって、天においてイエス・キリストとともに座するようになっているということであるのです。
 もちろん、このような救いの恵みを受けるためには、それに先だって、神さまの一方的な愛とあわれみと恵みによって備えられた、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を赦していただいていることが必要です。そのことは、すでに、1章7節において、

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

と記されていたことです。ここでは、1節ー3節に、私たちがかつて「自分の罪過と罪との中に死んでいた」ということが記されていますので、それとの対比で記されている4節ー6節においては、新しく生かしていただいたことが記されていると考えられます。
 このすべてのことは、父なる神さまが御子イエス・キリストによって私たちのために成し遂げてくださったことです。イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いはすでに成し遂げられています。また、イエス・キリストはすでに栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。そして、天において父なる神さまの右の座に着座しておられます。それで、父なる神さまは、このことに基づいてお働きになる御霊によって、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださいました。そして、私たちをイエス・キリストとともに生かしてくださり、イエス・キリストとともによみがえらせてくださり、天においてイエス・キリストとともに座するものとしてくださっています。

 これらのこととの関連でさらに注目したいのは、2章6節において、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われているときの、「天の所に」ということば(エン・トイス・エプウーラニオイス)です。このことばは、同じエペソ人への手紙の中に何回か出てきますが、最初に出てくるのは1章3節です。そこには、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と記されています。ここで、

天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と言われているときの「天にある」と訳されていることばがそれ(エン・トイス・エプウーラニオイス)です。そして、そのことが具体的にどのようなことであるかが、続く4節、5節で説明されています。そこには、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。
 神さまが「キリストにおいて」(エン・クリストー「キリストにあって」)「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださ」ったことは、私たちを永遠の前からのご計画、神学的に言いますと、「永遠の聖定」によって私たちを「キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようと」されたこと、また、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」あらかじめ定められたことにあるというのです。
 このこととの関連で、2章6節で、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われていることを見ますと、これは、私たちが御霊のお働きによってイエス・キリストと結び合わされて、「御前で聖く、傷のない者」としていただいていることと「ご自分の子」としていただだいていることを意味していることが分かります。
 私たちが主の祈りを祈ることを初めとして、あらゆる機会に神さまに向かって、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができるのはこのことによっています。そればかりでなく、私たちは個人的にも、神さまに向かって、
 天の父よ。
と呼びかけることができます。ローマ人への手紙8章14節、15節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されているとおりです。
 この「アバ、父。」の「アバ」はアラム語の「お父さん」という呼びかけのことばです。小さい子どもから使いましたが、成人になった子も使ったようです。これには親しさと愛と信頼などが込められています。また、このように、他に何の修飾のことばもなく(たとえば「天にいます」ということばもなく)、神さまに向かって単純に「アバ。」と呼びかけられたのはイエス・キリストです。私たちはイエス・キリストとともによみがえり、天においてイエス・キリストとともに座するものとしていただいているので、神さまに向かって、親しく「アバ、父。」と呼びかけることができるのです。
 その意味では、天においてイエス・キリストとともに座っているということは、そこにご臨在しておられる父なる神さまを中心とする神の家族の一員として座っているということになります。
 もちろん、これはイエス・キリストにあってのことであり、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかってのことです。また、エペソ人への手紙の流れの中では、この天において座るということは、神の子どもたちに委ねられた使命にもかかわっていますが、これはおいておきます。
 私たちは、イエス・キリストにあって、このように豊かな祝福にあずかっています。それは、「あわれみ豊かな神」さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」、また、「ただ恵みによって」私たちに実現してくださったことです。言うまでもなく、この天にある神の家族においては、神さまの愛とあわれみと恵みが満ちています。
 その天にある神の家族の中にイエス・キリストとともに座りながら、兄弟あるいは姉妹の罪を赦さないということはどういうことでしょうか。私たちが父なる神さまのの一方的な愛とあわれみと恵みによる祝福に信仰の眼を向けるときに、兄弟あるいは姉妹の罪を赦さないということが、まさに、あの「悪いしもべ」がしていることに相当することであるということが、了解されるのではないでしょうか。

 


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