![]() |
説教日:2010年6月13日 |
そのために取り上げたいのは、ローマ人への手紙3章23節ー26節です。そこには、 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 と記されています。 ここに記されていることが福音の理解にとって、とても大切なことであることは、広く認められています。しかし、いくつかのことでは解釈がかなり分かれています。中には、その一つの問題を取り上げますと、そのことだけでお話が終わってしまうようなことも含まれています。ここでは、結論的なことだけを取り上げていきます。 まず23節には、 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 と言われています。この、 神からの栄誉を受けることができず、 と訳されている部分は、より直訳調に訳しますと、 神からの栄光に欠けている となります。これは、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになったことを踏まえていると考えられます。人はもともと神のかたちとしての栄光を与えられていたのに、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、その栄光を失ってしまったということです。そして、文脈の上からは、そのように罪によって堕落した状態になってしまったので、自分の行いによって、神さまの御前に義を立てることはできないということをも暗示しています。 これを記しているパウロがかつて属していましたユダヤ教も、またその他の宗教も、自分の行いによって自分の義を立てようとします。しかし、たとえそれが人の目には賞賛に値することに見えても、人の心の奥底までも完全に見通しておられる神さまの御前には、義を立てるどころか、堕落した人の本性を映し出してしまっているという現実があります。少し前の20節に、 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 と記されているとおりです。ここで、 律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない というように、義と認められるのは「神の前に」おけることであることに注意したいと思います。ユダヤ人はモーセ律法を与えられていました。それで、それを行えば神さまに義と認めてもらえると考えて、律法を守ろうとしました。それは決していい加減なものではありませんでした。これを記しているパウロも、ピリピ人への手紙3章5節、6節で告白していますように、人の目からは落ち度なく律法を守っていると見えるほどの熱心さと真実さをもって、律法を守っていました。つまり、行いによって義を立てようとしている人々の中にあって、パウロはその最先端にあったということです。そのパウロが、栄光のキリストと出会って、その贖いの恵みにあずかって新しく生まれたことによって、神さまの律法の真の意味が理解できるようになりました。その新しい光の下での律法についての理解の上に立って、 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 と述べているのです。 そのように、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間の悲しむべき現実に対して、24節では、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 と言われています。「価なしに義と認められる」というときの「価なしに」ということば(ドーレアン)は、「贈り物」(ドーロン)に関連することばで、「贈り物をするような仕方で」ということを表しています。人に贈り物をしておいて、代金を請求することはありません。私たちが神さまに何らかの奉仕をしたこと対する報いとしてとか、神さまの御前によい行いをしたことに対するごほうびとして義と認めてくださるというのではなく、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに」義と認められると言われています。神の御子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、神さまが私たちを、ご自身との本来の関係にあるものとしてくださるということです。 そのことについて、25節前半では、 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。 と説明されています。 ここで「なだめの供え物」と訳されていることば(ヒラステーリオン)は、「なだめるもの」を表しています。「その血による」ということばとの結びつきから「なだめの供え物」であることが分かります。 これは、私たち人間の罪に対する神さまの聖なる御怒りを「なだめるもの」です。神さまは私たちの罪に対して、聖なる御怒りをもって臨まれます。神さまの聖さは完全な聖さであり、神さまの義は完全な義です。その神さまの聖さと義は、私たちの罪が完全に償われて清算されることを求めます。ところが、私たちの罪の完全な清算を求めておられる神さまの方が、ご自身の御子イエス・キリストを「なだめの供え物」とされたのです。そのイエス・キリストは十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、すべて受けてくださって、私たちの罪を完全に清算してくださいました。 ここでは、この「なだめの供え物」が「信仰による」と言われています。神さまがご自身の御子を、私たちのための「なだめの供え物」としてくださいました。そして、御子イエス・キリストは十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださいました。しかし、それは今から2千年前に成し遂げられたことです。ここには、それを、私たちがどのように受け取るかという問題があります。「信仰による」ということばは、このことに触れるものです。 「信仰による」というときの「信仰」は、たとえて言えば、贈り物を受け取る「手」に当たります。お母さんが子どもにお誕生日のプレゼントをあげたとします。そのとき、子どもは自分の手を出してそれを受け取ります。そのように、神さまが一方的な愛と恵みによって私たちのために備えてくださった「なだめの供え物」としての御子イエス・キリストと、イエス・キリストが、その十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いを、私たちは信仰によって受け取るのです。 ここでも、「よい行いをすることによって」という考え方が退けられています。つまり、私たちがよい行いをすると、神さまがそれに報いて、イエス・キリストが「なだめの供え物」となって成し遂げてくださったことを私たちに当てはめてくださるという考え方が退けられているのです。 特に注意しなくてはならないのは、信仰は「よい行い」ではないということです。先ほどのたとえで言いますと、信仰は贈り物を受け取る手に当たります。お母さんが子どもにお誕生日のプレゼントをあげたときに、子どもは自分の手でそれを受け取ります。しかしそれは、子どもが手を出したことが「よい行い」であるので、お母さんがそれに報いてお誕生日のプレゼントをあげたのではありません。そのように、信仰は「よい行い」ではありません。ある人々は、信仰がすばらしいので、神さまがそれに報いて恵みをくださるというように理解していますが、それですと、信仰が「よい行い」になってしまいます。 お母さんが子どもにお誕生日のプレゼントをあげたのは、子どもを愛しているからです。そのように、神さまがご自分の御子を「なだめの供え物」として遣わしてくださったのは、神さまが私たちを愛してくださったからです。先々週引用しました、ヨハネの手紙第一・4章10節に、 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されているとおりです。 やはり、先々週取り上げました、マタイの福音書18章23節ー35節に記されています、イエス・キリストのたとえによる教えでは、王がそのしもべの1万タラントの借金を免除してあげたと言われていました。1万タラントは6千万日(16万4千3百83年)分の賃金に当たります。王がしもべのこれほどの借金を免除してあげたことについて、26節、27節には、 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。」と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。 と記されています。ここでは、王のことが「主人」と呼ばれていますが、その王がしもべの1万タラントもの借金を免除してあげたのは、「しもべの主人は、かわいそうに思って」ということばが示すとおり、王の一方的なあわれみによることでした。決して、しもべが王の前にひれ伏したことが「よい行い」であって、それが報いられたのではありません。 これらのこと、すなわち、私たちの罪の贖いと救いはただ神さまの愛とあわれみから出ているということは、後ほどお話しすることとかかわっていますので、心に留めておいていただきたいと思います。 これまでローマ人への手紙3章25節前半に記されていることについてお話ししましたが、25節と26節を合わせて見ますと、そこには、 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 と記されています。 神さまが「キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しに」なったのは、「ご自身の義を現わすため」であったと言われています。 国家が犯罪者を野放しにしてしまえば、その国家の義が立ちません。義は犯罪者に対するさばきを要求します。造り主であられる神さまが、私たちがご自身に対して犯した罪をおさばきになるのは、神さまが義であられるからです。また、たとえ国家がさばきをしたとしても、そのさばきが曲げられてしまっては、やはり義は立ちません。さばきは公正かつ厳正でなければなりません。それと同じように、神さまは私たちの罪を完全に清算されます。そのために、神さまはご自身の御子を「なだめの供え物」とされました。ご自身無限、永遠、不変の栄光の神であられる御子イエス・キリストが、私たちの身代わりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになったので、私たちの罪は完全に償われました。それによって、神さまの義が立てられました。 パウロは、このことに続いて、 というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 と述べています。 この場合の「今までに犯されて来た罪」は(完了時制で表されていて)、過去に犯された罪のことですが、その結果がこの時まで何らかの形で残っていることを示しています。歴史を通して人の罪は重ねられてきましたので、人が罪の中にあることが当然のことのようになってしまっています。そのために、罪を罪として認めることもできなくなっていることも、そのような結果の一つでしょう。神さまは、そのような意味合いのある「今までに犯されて来た罪」を、「忍耐をもって見のがして来られた」と言われています。ここで「見のがして来られた」ということは、この場合には、そのような罪に対する「さばきを執行することを遅らせてこられた」という意味です。決して、その罪を仕方がないこととされたということではありません。 実際に、この世界とその中のすべてのものをお造りになって、今日に至るまでその一つ一つを真実に支えてくださっている神さまに対して、人は背を向け、神さまを神としてあがめることもありません。そうではあっても、神さまはご自身に対して背いている人々を、なおも、御手をもって支えておられます。いわば、罪の中にある人は、自分たちを支えておられる神さまの御手に噛みつきながら生きています。私たちもかつてはそのような者でした。 このような現実をみことばの光の下で見通している人であれば、それでは、神さまの義はどこにあるのかという疑問を抱くに至ります。この25節はそのような疑問に答えています。神さまが「今までに犯されて来た罪」を「忍耐をもって見のがして来られた」ことには、理由があったというのです。それは、神さまがご自身の御子を贖い主としてお立てになり、御子を「なだめの供え物」とされることによって、私たちの罪を完全に償ってくださるまでの間の、いわば、暫定的な措置であったというのです。そして、実際に、神さまは御子イエス・キリストの十字架において、私たちの罪に対する公正かつ厳正なさばきを執行され、私たちの罪を完全に清算されました。 そうであれば、もう神さまがご自身に対して罪を犯している者たちの罪を、なおも「忍耐をもって見のが」す理由はなくなったのではないかという疑問が出てきます。 このこととのかかわりで思い出されるのは、25節において、 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。 と言われていていたことです。イエス・キリストは「その血による」「なだめの供え物」であると言われているだけではありません。「信仰による、なだめの供え物」でもあるのです。すでにお話ししましたように、これは神の御子イエス・キリストが十字架におかかりになって私たちの罪を完全に清算してくださったことを、私たちは「信仰によって」受け取るということを意味しています。 お母さんが子どもにお誕生日のプレゼントをあげるときに、何も言わないでそれを差し出すのではなく、「はい。お誕生日のプレゼントよ。」というように、それがお誕生日のプレゼントであると言って差し出します。神さまは福音のみことばをとおして、ご自身が御子を「なだめの供え物」とされたこと、そして、その十字架において私たちの罪を完全に清算されたことと、その意味を明確に示してくださって、御子と御子が成し遂げてくださった罪の贖いを受け取るように「差し出して」くださっているのです。 私たちが信仰によってそれを受け取るということは、福音のみことばにあかしされ、提供されている(差し出されている)御子と御子が成し遂げてくださった罪の贖いを受け取るということです。神さまは今もなお、福音のみことばによって、御子と御子が成し遂げてくださった罪の贖いを受け取るように「差し出して」くださっています。そのようにして、神さまは、御子と御子が成し遂げてくださった罪の贖いを福音のみことばによって提供してくださっている間は、なおも、ご自身に対して罪を犯している者たちの罪を「忍耐をもって見のが」しておられるのです。このことを踏まえて、コリント人への手紙第二・5章21節ー6章2節には、 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。 と記されています。 最後に、もう一つの問題に触れておきましょう。それでは、どうして、神さまは「キリスト・イエスを・・・信仰による、なだめの供え物として、公にお示しに」なったのでしょうか。つまり、私たちが信仰によって受け取らなければならないというようにしなくてもよかったのではないかという疑問です。そうすれば、イエス・キリストを信じない人々も、さばきを免れることができて、よかったのではないかということです。 これについては、いろいろなことが考えられます。 一つは、やはり、お母さんのプレゼントのことを例にとってみましょう。先ほど、覚えておいていただきたいと言いましたが、お母さんがプレゼントを用意したのは、子どもを愛しているからです。子どもにとっても、プレゼントという品物だけが意味をもっているのではありません。そこに表されているお母さんの愛がいちばん大切なことなのです。それは、 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 とあかしされていることにも、そのまま当てはまります。人間的な言い方をしますが、神さまは私たちにご自身の愛を受け取ってほしいのです。 あの、1万タラントの負債を免除してもらった王のしもべは、借金の免除は受け取りましたが、王のあわれみは心に染みる形で受け取りませんでした。それで、自分が免除してもらった借金の60万分の1の百デナリを貸しているしもべ仲間の借金を容赦なく取り立てて、そのしもべを投獄していまいました。自分の借金さえなくなればいいのだという、まったくの損得勘定だけですべてを理解しています。 もう一つのことは、神さまは常に私たちの自由な意志を尊重しておられるということです。ある男性がある女性を愛してプレゼントを渡したとします。しかし、もし、その女性がその男性を愛していないために、それを受け取らなかったとします。その場合に、その男性が無理やりにプレゼントを受け取らせようとすることは、愛の表現でしょうか。それは愛というより、自己中心的な思いを遂げようとするだけのことです。愛はそのような押しつけがましいものではありません。 神さまは福音のみことばにおいて、ご自身の愛を私たちに示しておられます。そして、その愛の現れとして、ご自身の御子を私たちの罪のための贖い主としてお立てになり、実際に、その十字架において私たちの罪の刑罰を執行されたと伝えてくださっています。そして、そのようにして表された愛を受け取ってくださいと、決して押しつけがましくなく、しかし熱心に語りかけておられます。先ほど引用しましたコリント人への手紙第二・5章21節をその前の20節から引用しますと、そこには、 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 と記されています。確かに、福音のみことばをとおして神さまがご自身の愛を受け入れてくださいと「懇願しておられる」のです。 その他、もう詳しくお話しする余裕がありませんが、ただ人の罪が赦されるだけであれば、この世界は人間の罪がどんどん深くなり、まん延する恐ろしい世界になってしまうであろうこともわきまえておく必要があります。 神さまは私たちが、自分の自由な意志で、神さまの愛と、その愛によって備えてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを受け入れて、私たち自身が、その贖いの恵みによって、内側から新しく造り変えられていくことを願っておられます。そのように、私たちそれぞれが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を赦されるとともに、罪をきよめられて、御子イエス・キリストの復活にあずかって、その復活のいのちによって新しく生まれ、新しく造り変えられることからすべてが始まります。 |
![]() |
||