(第238回)


説教日:2010年6月6日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 今日も、マタイの福音書6章14節、15節に記されています、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

という、イエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 これは、その前の9節ー13節に記されています主の祈りに続く教えです。先週お話ししましたように、この教えについては二つの疑問がわいてきます。
 一つは、なぜ、主の祈りのすぐ後に、この14節、15節に記されている教えがあるのかということです。もう一つは、私たちが人の罪を赦すことが、私たちが神さまから赦していただくことの条件、あるいは根拠になるのかということです。
 先週と先々週は、この後のほうの疑問を考えるために、この教えと、主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りとの関連を考えました。そして、この主の祈りの第5の祈りの後半の、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りは、「私たちも」ということばが示すとおり、神さまがその一方的な愛と恵みによって、私たちの「負いめ」を赦してくださっていて、「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦」しているということを示しているということをお話ししました。
 今日も、同じ後のほうの問題についてお話しします。
 先週お話ししましたように、神さまがまずその一方的な愛と恵みによって、私たちの「負いめ」を赦してくださっているということは、何よりも、私たちが神さまに向かって、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができることに現れています。エペソ人への手紙2章1節ー3節には、かつての私たちの状態が、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。私たちは生まれながらに「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であり、「不従順の子ら」と言われていますように、自分たちをお造りになった神さまを神としてあがめることはおろか、神として認めることもなく、神さまに背を向け、逆らって生きていた者でした。その意味で、私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。私たちは私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受け、滅ぼされるべき者でした。
 しかし、神さまはそのようにご自身に背を向けて、逆らって歩んでいた私たちのために、ご自身の御子を贖い主としてお遣わしになり、その十字架の死によって、私たちの罪を完全に清算してくださいました。神さまは、十字架にかかった御子イエス・キリストに、私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを執行され、その刑罰を余すところなく下されました。そのようにして、神さまは私たちの罪を贖ってくださいました。それは、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられる神の御子イエス・キリストが味わわれた「地獄の刑罰」の苦しみという無限の値をもって、私たちの罪の償いがなされたということです。
 コリント人への手紙第二・5章21節には、

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されています。
 私たちの罪は私たちの造り主にして、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対する罪です。それで、それを贖うためには無限の償いをしなければなりません。そのようなことは最も高い天使も含めてどのような被造物にもできないことです。それで、神さまはご自身のひとり子を贖い主としてお立てになり、御子がご自身のご意志で贖い主となってくださったのです。ですから、御子イエス・キリストの十字架の死以外に、人の罪を贖うことができるものはありません。また、御子イエス・キリストの十字架の死は、私たちのどのような罪をも贖うことができるものです。
 ですから、私たちの罪が赦されたのは、ただ、御子イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業によっています。それ以外に、私たちの罪が赦される根拠はありません。「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であった私たちが、神さまに向かって、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができるのは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いが完全なものであるからです。そして、私たちがその贖いにあずかっているからです。
 このことは、主の祈りに続いて記されているイエス・キリストの教えにも深くかかわっています。改めてそれを見てみますと、それは、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

という教えです。この教えの前半では、神さまのことが、「あなたがたの天の父」と言われています。そして後半でも、神さまのことが「あなたがたの父」と言われています。ですから、この教えでは、神さまが私たちの父であられることが繰り返されて、強調されています。それで、この教えは、私たちがすでにイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を赦していただき、神の子どもとしていただいていることを踏まえているばかりか、そのことを強調しているのです。


 このように、私たちが神さまに向かって、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけているのは、私たちが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を赦していただいているからです。そうであれば、どうして、私たちは、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

と祈らなければならないのでしょうか。
 私たちは、確かに、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を赦していただいています。しかし、私たちのうちにはなおも罪の性質が残っていて、私たちは実際に罪を犯してしまいます。それで私たちは、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

と祈らなければならないのです。
 ヨハネの手紙第一・1章8節ー10節には、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と記されています。いまお話ししていることとのかかわりで大切なことは、ここで「私たち」と言われているのは、これを記している使徒ヨハネも含めて、すでに御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じて、罪を赦していただき、義と認められて、神の子どもとしていただいている者たちであるということです。それは先週引用しました3章1節において、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、―― 事実、いま私たちは神の子どもです。―― 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。

とあかしされている、神さまの愛にあずかって神の子どもとしていただいている者たちです。
 1章8節で、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と言われているときの「」は単数形で、しかも、「罪はない」という言い方は、文字通りには「罪をもっていない」という言い方です。この言い方は、ヨハネに特有な言い方のようです。この場合の「」は実際に私たちが犯す一つ一つの具体的な罪ではなく、私たちのうちにある「罪の性質」を意味しています。私たちのうちになおもこの「罪の性質」が残っているので、私たちは実際に罪を犯してしまうのです。私たちが実際に罪を犯してしまうものであるということは、10節に、

もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と教えられています。
 このように、この8節ー10節においては、すでに、御子イエス・キリストがその十字架の死をもって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、罪を清算していただき、罪を赦していただいたばかりか、神の子どもとして迎え入れていただいている私たちのうちに、なおも、罪の性質が残っていること、そして、そのために罪を犯してしまうということが明らかにされています。
 かつて私たちは神さまが御子イエス・キリストによって私たちの罪を贖ってくださったことを知りませんでした。その頃は自分のうちに罪の本性が宿っていることも、そして、そのために罪を犯してしまうことも知りませんでした。そのために、自分の罪のことで悩むということはありませんでした。しかし、私たちは、神さまがご自身のひとり子を十字架につけて、私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを執行されたことを福音のみことばをとおして知りました。そして、御子イエス・キリストを贖い主として信じて、罪を贖っていただいたことによって、自分の罪の深さと深刻さが分かるようになりました。それによって、私たちは罪をまったく贖っていただいており、赦していただいている者でありながら、なおも自分自身のうちに罪の性質が残っており、そのために罪を犯してしまうことが、深い悲しみとなり、苦しみともなっています。使徒パウロも、ローマ人への手紙7章15節で、

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

と告白し、18節ー20節では、

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪[単数]です。

と述べています。

 ヨハネの手紙第一・1章に戻りますが、8節で取り上げられている「」は、私たちのうちになおも残っている「罪の性質」を意味しています。これに対しまして、9節で、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、

と言われている中には「」が2回出てきますが、どちらも複数形で、私たちが犯してしまう一つ一つの具体的な罪を意味しています。
 ここでは、私たちが実際に犯してしまった罪を言い表すなら、「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し」てくださると言われています。ここには、神さまの「真実さ」と「正しさ」が出てきます。
 この神さまの真実さは、聖書の中では、ご自身の契約における真実さです。神さまは真実な方ですので、ご自身の契約において約束してくださったことを守ってくださり、必ず果たしてくださいます。
 神さまはご自身の契約において、贖い主を約束してくださり、その死によって私たちの罪を贖ってくださることを約束してくださいました。そして、その贖い主を信じる者の罪を赦してくださることを約束してくださっています。
 神さまは、実際に、御子イエス・キリストを贖い主として遣わしてくださり、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げてくださいました。また、神さまは、私たちが自らの罪を告白して、贖いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストを信じて、受け入れたときに、私たちの罪を赦してくださいました。これは神さまの真実さの現れです。
 神さまの「正しさ」は神さまが罪をおさばきになって、完全に清算されることに現れてきます。この世の法律でも、犯罪がそれ相応の処罰をもって報いられなければ、正義が立たないとされています。神さまの義は完全な義です。それは罪の完全な清算を要求します。
 このことを考えますと、ヨハネが、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は・・・正しい方ですから、その罪を赦し・・・てくださいます。

と言っていることはおかしなことであるように思われます。
 しかし、この神さまの正しさは、契約における真実さと結びついています。神さまは私たちの思いを越えた方法で、私たちの罪を完全に清算してくださいました。神さまはご自身の御子イエス・キリストが十字架におかかりになったときに、私たちの罪に対する聖なる御怒りによる刑罰をすべて御子に対して執行されました。これによって、私たちの罪を完全に清算されたのです。このようにして、神さまは御子イエス・キリストの十字架をとおして、ご自身が義であられること、正しいことを示しておられます。ローマ人への手紙3章25節に、

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。

と記されているとおりです。
 ですから、御子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったことは、神さまのこの上ない愛を表すことであるとともに、神さまの完全な義を表すことでもあります。また、神さまが、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちの罪を赦してくださることは、神さまの愛を表すことであるとともに、神さまの義を表すことでもあります。讃美歌262番1節は、このことを、

 十字架のもとぞ、いとやすけき、
 神の義と愛のあえるところ。

と歌っています。
 ヨハネの手紙第一・1章9節で、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、

と言われていることには、このようなことがかかわっています。

 9節では、さらに、私たちが自分の罪を言い表すなら、神さまは、

 すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と言われています。もちろん、これも、神さまが「真実で正しい方」であることによっています。
 ここでは、神さまが罪を赦してくださることと、神さまが「すべての悪から私たちをきよめて」くださることを区別して理解する必要があります。
 神さまが私たちの罪を赦してくださることは、法的なことです。これは、神さまが私たちの罪の赦しを宣言してくださることです。人間の裁判でも、最終的に裁判官がその人が無罪であると宣言しますと、その人は二度と、その罪を問われることはありません。神さまが私たちの罪を赦してくださるときも、いわば、天における神さまの法廷において、神さまご自身が私たちの罪の赦しを宣言してくださいます。もちろん、その理由も述べられます。ご自身の御子が私たちの身代わりとなって十字架の上で、私たちが受けるべき罪の刑罰をすべて受けてくださったということが、その赦しの根拠であるということです。この赦しの宣言は法的なことですので、それが宣言された段階で完全な赦しが与えられます。
 これに対して、神さまが「すべての悪から私たちをきよめて」くださることは、私たちの実質を変えてくださることです。これも、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいています。このヨハネの手紙第一・1章では、今取り上げてお話ししています8節ー10節に先立つ7節において、

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

と記されています。
 ここでは、「すべての罪から私たちをきよめ」てくださるのは「御子イエスの血」であると言われています。この場合は「すべての罪」は単数ですので、基本的には、罪の性質を意味していると思われますが、「すべての」ということばがあることから、一個一個の具体的な罪をも含んでいると考えられます。あらゆる意味での罪から私たちをきよめてくださるということです。また「きよめます」ということばは現在時制で表されていて、常にきよめてくださるという確かな事実を表しています。
 このように、神さまが「すべての罪から私たちをきよめ」てくださること、また、同じことを言い換えているのですが、「すべての悪から私たちをきよめて」くださることを、私たちは「聖化」と呼んでいます。これは、私たちの法的な立場ではなく、私たち自身の実質のことを述べています。神さまが私たちの内側をきよめて変えてくださるということです。これは一度に完成してしまうことではなく、私たちの地上の生涯を通して継続してなされていくことです。
 ある国の子どもが別の国の夫婦に養子として迎えられたとします。法的なことでは、法的な手続きが終われば、直ちに、その子はその国の国籍をもち、その夫婦の家族になります。しかし、これには実質的なこともかかわっています。その子はその家の家族として生活するためには、その国の文化や、その家族の習慣など、いろいろなことに触れて、それを学びつつ、身に着けていかなければなりません。そのためには長い時間がかかります。それと同じように、神さまが私たちの内側の実質を変えてくださること、すなわち「聖化」は私たちの生涯を通してのプロセスなのです。
 神さまが私たちの内側の実質を変えてくださることの完成は、終りの日に再臨される栄光のキリストのお働きによって、私たちが栄光あるものによみがえるときに実現します。先ほど引用しました3章1節で、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、―― 事実、いま私たちは神の子どもです。―― 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。

と言われているときの、私たちが神の子どもであるということは、法的な身分のことです。ですから、

 事実、いま私たちは神の子どもです。

と言われています。これに対しまして、続く2節では、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と言われています。ここで「キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となる」と言われていることが、神さまが私たちの実質を造り変えてくださること、すなわち「聖化」の完成です。これを「栄光化」あるいは単純に「栄化」と呼びます。
 このように、イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかって、すでに神の子どもとしていただいている私たちにとっては、なおも私たち自身のうちに罪の性質が残っているために犯してしまう罪を赦していただくことと、私たち自身のうちにある罪の性質をきよめていただくことは切り離すことができません。先ほどの養子として迎え入れられた子どものたとえでは、その子が新しい家庭の子となるということ(法的なこと)と、その子がその家庭の子どもとして生きていくこと(実質的な変化)が切り離すことができないのと同じです。
 このことを踏まえますと、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りの構成の意味も見えてきます。

 私たちの負いめをお赦しください。

という祈りは、法的な赦しを願い求めることです。そして、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という告白あるいは決意は、私たちの実質が変わっていくこと、すなわち聖化にかかわっています。
 神さまが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づいて、私たちの罪を赦してくださるなら(法的なこと)、神さまは必ず、私たちの内側をきよめてくださって、神の子どもとしての実質をもつようにしてくださいます(聖化)。その神の子どもとしての実質は、私たちが互いに愛し合うことに現れてきますが、私たちが互いに愛し合うことは何よりもまず、私たちが互いに赦し合うことに現れてくるのです。

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という告白は、その恵み(聖化の恵み)が私たちの現実になっているという告白でもあります。
 神さまは、私たちが互いに赦し合うことことを初めとして、互いに愛し合うことを通して、私たちの実質を造り変え、神の子どもとして成長させてくださいます。

 


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